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むくみなご

作者: 潮路

怪異よりホラーな人間と、人間味あふれる怪異の話。


1.


 日曜の夕暮れは、健斗(けんと)にとって一週間で最も憂鬱な時間だった。明日から始まる新たな戦いを前に、頭の中では月曜朝イチの役員会議のシミュレーションが始まっている。

 大手IT企業A-Tech(エーテック)社向けコンペ、来月の予算策定、部下からの突き上げ。思考の渦が、現実の音を遠ざけていく。


「パパ、ほら、せんすいかんっ! せんすいかんだぞう!」


 湯気のこもるバスルームに、五歳の息子・(はる)の甲高い声が反響した。健斗は無理やり口角を上げ「そうか、すごいな」と返した。

 美咲(みさき)とは「日曜は必ず家族サービスをする」という約束を取り付けている。人生プランの必要経費と飲み込んだが、面倒なタスクの一つでしかなかった。

 防水ケースに入れたスマートフォンに、仕事のチャット通知が光るのが見え、舌打ちしそうになるのをこらえる。大人しく従ってくれるといいが。


「もう上がろう、陽。お前の大好きなぶどうジュースがあるぞ」

「やだ! もっとパパとあそぶっ!」


 強引に風呂から引き上げようとする健斗の腕に、陽は濡れた体でしがみついてくる。石鹸の匂いに混じって、子供特有の甘い匂いが鼻をついた。

 これだから、子供は嫌いなんだ。予想も出来ず、貴重なリソースを食い荒らす虫が。

 健斗が声を荒らげても、陽には父親の機嫌の変化など分かりはしない。それはただの遊びの続きであり、大好きな父親とのプロレスごっこに過ぎなかった。


「ほら、お仕事もパパを呼んでる。このままお風呂遊びを続けるわけにはいかないんだ」

「やぁだ、ねえ、やぁだ! あそびたいあそびたいあそびたいぃぃ!」


 ぐずる陽は健斗の防水ケースをひったくると、思いきり風呂の壁に投げつけた。バンという音が(ひろ)がっていった。


 その時、健斗の脳内で何かがぷつりと切れた。


 絡みついてくる息子の体を振りほどくと、彼は作り物めいた笑顔を浮かべた。


「そうか。じゃあ、パパと勝負しよう。どっちが長くもぐっていられるか、競争だ。陽が勝ったら、好きなだけ遊ぼうか」

「うん、やる! ぜったいかつ!」


 陽は満面の笑みで頷くと、大きく息を吸い込み、勢いよく湯船に顔をつけた。


 ほんの少し、怖がらせるだけのつもりだった。言うことを聞かない子供への、軽い罰だ。

 健斗はそう自分に言い聞かせながら、無邪気に水に顔をつけた陽の小さな後頭部に、そっと手を置いた。10秒、20秒。中で陽の体が揺れている。


 やれやれ、スマホはどうやら無事そうだ。

 とりあえずチャットの内容を確認して、仕事のメールに返信をする。明日の会議の資料、最終チェックもして……。

 健斗の思考は、目の前の息子から離れ、無機質なタスクリストへと飛んでいた。

 彼は心地よい気分になっていた。

 だからだろう、彼の手は必要以上に長く、そして強く……息子の頭を湯船に押し付け続けていた。


 ふと我に返り、手を離す。

 しかし、陽が顔を上げる気配はなかった。体はうつ伏せのまま、ぷかぷかと湯面に浮かんだ。


「……陽?」


 その瞬間、健斗の全身を凄まじい動悸が襲った。

 この子供は質の悪いドッキリのようなことはしない。目の前の現実は、そっくりそのまま最悪の事態を意味していた。

 まずい。まずいことになった。血の気が引き、体が震える。

 だが、そのパニックは10秒と続かなかった。


 健斗の脳は即座に罪悪感よりもリスク管理へとシフトし、心臓の鼓動は冷静な計算のためのエンジンへと変わった。

 わざと足元のシャンプーボトルを蹴り倒し、大きな音を立てて尻餅をついた。そして、手筈通(てはずどお)りに悲鳴を上げた。


「陽!? おい、陽!?」


 リビングから飛んできた美咲が目にしたのは、変わり果てた息子と、床に座り込み、頭を抱えて呆然とする夫の姿だった。


「ごめん……俺が……ほんのちょっと……目を離した隙に……」


 健斗の言葉は涙で途切れ途切れだった。



 その日の健斗は、悲劇の父親役を完璧に演じきった。

 美咲は「あんなにパパのことが大好きだったから……あなたも疲れてたのに、陽のためにありがとう」と泣き崩れ、健斗を責めることはなかった。


 警察による形式的な事情聴取でも、現場の状況、妻の証言、そして憔悴(しょうすい)しきった父親の姿、その全てが「不幸な事故」という一つの結論を指し示していた。関係者全員が同じ方向を向いている以上、彼らがそれ以上深く介入してくることはなかった。

 葬儀の最中、悲しみに俯く健斗がスマートフォンの画面をなぞって、プロジェクトの進捗を確認していたことは、誰も知らない出来事だった。


2.


 陽の死から三週間が経った。健斗は、息子の死に打ちひしがれる妻・美咲を献身的に支える「良き夫」を完璧に演じていた。

 世間体が、彼の行動原理だった。傷心の妻を気遣うという大義名分のもと、彼は週末の買い出しのカートを押していた。美咲は虚ろな目で商品棚を眺めている。健斗の頭の中では、来週のプレゼン資料の構成が組み上がりつつあった。


 その時だった。美咲が何気なく手に取ったアソート菓子の袋を見て、通路の反対側から歩いてきた小さな男の子が、健斗のズボンの裾をくい、と引いた。


「パパ、ハルくん、それきらいだって。あっちの、ながいグミがいいって」


 幼い指が指し示した先には、息子が生前好んで食べていた、蛇のような形のグミがあった。

 健斗は心臓を掴まれたような衝撃と共に、思わず子供を睨みつけていた。


「人違いだよ、ボク」


 低い声で言うと、男の子はきょとんとした顔で母親の元へ走っていった。

 隣で美咲が「……いま、陽の声がした気がした」と呟く。健斗は「疲れてるんだよ」と妻の肩を優しく抱きながらも、内心で「余計なことを」と毒づいた。


 その翌週、美咲は「陽がお世話になった幼稚園に一緒にご挨拶をしたい」と提案してきた。心底嫌だったが、ここでヒステリーを起こされても仕事に差し障る。健斗は断れなかった。

 ひまわり幼稚園の門をくぐると、園長と陽の担任だった若い保育士は、涙ながらに園での息子の様子を語った。健斗は神妙な顔で相槌を打ちながら、早くこの茶番を終わらせたいと、そればかり考えていた。


 挨拶を終え、園庭を横切って帰ろうとした時、砂場で遊んでいた数人の園児がこちらに気づき、駆け寄ってきた。黄色い帽子が揺れる。健斗は無意識に一歩後ずさった。


「あ、ハルくんのパパだ」


 一人の女の子が、健斗の革靴をじっと見つめて言った。


「パパのくつ、かっこいいね。でもね、ハルくんがね、おすながはいってきもちわるいから、はやくパンパンしてあげて、だって」


 健斗は息を呑んだ。家を出る前、玄関で靴を履いた際に微かな砂の感触があったのを思い出す。彼自身しか知らない、些細な違和感だった。美咲が「陽が……みんなに何か伝えてくれてるのかしら……」と涙ぐむ。

 健斗は、その感傷的な解釈に吐き気を覚えた。冗談じゃない。これはメッセージなどではない。これは、俺のテリトリーに対する不法侵入だ。



 そして決定的な出来事は、日常に戻ったはずの職場で起きた。

 同僚が夏休み中の息子を連れてオフィスに顔を出した。人懐っこいその子は、健斗のデスクに置いてあったプライベート用のトートバッグを見つけると、目を輝かせた。


「あ! このカバン、しってる! ハルくんとどうぶつえんにいったときのやつだ!」


 オフィスにいた全員の視線が、一瞬だけ健斗に集まった。

 同僚は「すみません、うちの子、想像力がすごくて……」と笑って頭を下げる。健斗は顔を引きつらせながらも、なんとか笑顔を返した。家族で動物園へ行ったこと。それは、一人で休息を取りたかった健斗が、アリバイ作りのために会社に話した架空の思い出だった。

 この子は陽の存在を知らない。勿論、その休暇中に気紛れに買ったトートバッグであることも……


 その夜、健斗は自室の書斎でPCの前に座っていた。検索窓に彼が打ち込んだ言葉は、「供養」でも「相談」でもない。


『幽霊 撃退 方法』

『霊現象 止める』

『憑依 対策 自分だけ』


 彼の目的は、息子の魂を鎮めることではなかった。自分のプロジェクトに侵入してきた、不愉快なトラブルを片付けること。ただ、それだけだった。


 だが、健斗のささやかな抵抗は、何の成果も出さなかった。

 書斎のドアに貼った難解なお札は翌朝には濡れて床に落ち、盛り塩は子供が砂遊びでもしたかのように、無邪気に散らかされていた。


 仕事も家庭も、あともう少しでうまくいきそうなのに……


 健斗の苛立ちは募る一方だった。



3.


 そして、運命の日がやってきた。

 陽の月命日であるその日は、皮肉にも健斗のキャリアが頂点に達するはずの日だった。


 その日の朝、空は一点の曇りもない快晴だった。

 健斗はクローゼットの奥から、この日のためにあつらえた勝負スーツに袖を通す。リビングへ出ると、美咲がコーヒーを淹れて待っていた。彼女の目の下の隈はまだ消えないが、健斗が見せた「献身的な支え」のおかげか、その表情には幾分生気が戻っていた。


「ネクタイ、曲がってるわよ」


 美咲はそう言うと、慣れた手つきで健斗のネクタイを締め直した。


「あなたのおかげで、少しずつ前を向けそう。今日の契約、頑張ってね。陽もきっと……天国で応援してくれてるわ」


「ああ、もちろんだ。陽のためにも、そして、美咲のためにも。俺が頑張らないとな」


 健斗は完璧な夫の顔で応え、そのまま家から出た。

 

 天国で応援……か。

 冗談じゃない。俺がアレにどんなに苦労させられたと思っているんだ。

 まあいい、あの様子なら美咲の傷は時間が埋めてくれるだろう。そうしたら、引っ越しして心機一転、新しいスタートを切ってやる。

 


 午後、空の機嫌は一変した。


 都心へ向かうタクシーの窓を、バケツをひっくり返したような豪雨が叩きつける。その時、健斗のスマートフォンが震えた。

 役員からの『契約成立だ。おめでとう。君の粘り勝ちだな』という短いメッセージ。

 彼は後部座席で、音もなくガッツポーズを作った。激しい雨音すら、彼の輝かしい未来を祝福する壮大なファンファーレのように聞こえる。

 勝った。俺は勝ったのだ。この程度の悪天候さえ、成功譚を彩るスパイスに過ぎない。

 極度の高揚感と万能感が、健斗の全身を支配していた。

 クライアントのオフィスが入る、超高層ビルのエントランス前。健斗は意気揚々とタクシーを降り、傘を畳んだ。


 この先に、俺の栄光が……


 そして、自動ドアの向こうに広がる光景に、足を止めた。


 広々としたロビーのガラス壁の前に、十数人の幼児たちが、こちらを向いてずらりと並んでいた。

 全員がびしょ濡れだった。黄色い帽子に、空色のスモック。見覚えがある。ひまわり幼稚園の制服だ。何かのイベントか? いや、違う。彼らは、全員が、健斗だけをじっと見つめていた。


 健斗が動けずにいると、ガラスの向こう側で、一人の女の子がこてんと首を傾げ、満面の笑みを浮かべた。その口が、音もなく動く。


『パパ、おむかえにきたよ』


 その瞬間、健斗の接近を感知した自動ドアが、無情にも左右に開いた。子供たちは、檻から放たれた雛鳥のように、一斉にわっと駆け寄ってくる。


「パパ、おしごとはおしまい?」

「せんせいがね、もうかえっていいって!」

「みんなまってたんだよ、ずっと!」


 悪意もなければ、超常的な響きもない、純粋な歓声。

 健斗の思考は一瞬、現実的な対応策を探って高速で回転した。


 まずい。取引先に連絡をして……大雨による交通麻痺で遅れるとでも言えば、30分は稼げる……その間にこの子たちを……


 しかし、その計算は即座に崩れ去った。びしょ濡れの幼児が、これだけの集団でいる。尋常でない光景だ。警備員を呼ぶか? いや、ダメだ。原因に心当たりがある以上、事が大きくなるのは最悪の選択肢だ。もはや「時間調整」で乗り切れるレベルを、とっくに超えている。


 まずい、まずい。


 そこまで思考した瞬間、一人の子供が健斗のスーツの裾を、濡れた小さな手でぎゅっと掴んだ。『パパ、いかないで』。その純粋な瞳と、有無を言わせぬ力強さに、いかなる言い訳も小細工も通用しないことを、健斗は本能で悟った。

 悪意もなければ、超常的な響きもない。雨に濡れた甘い匂いと、甲高い子供たちの歓声。健斗の思考は、恐怖よりも先に、計算可能なリスクへの焦りで満たされた。


 まずい。まずい、まずい、まずい。

 命を賭けた契約が、俺のキャリアが、ここで台無しになる。


 どうすることもできない。この光景が誰かの目に触れ、スマートフォンで撮影された時点で、全てが終わるのだ。健斗の思考は、恐怖を通り越して、沸騰するような怒りに変わった。


「畜生ッ……!!」


 殺してやりたい。


 彼は自分の人生という完璧なシステムに群がるバグを睨みつけ、全てを振り払うようにして背を向け、逃げ出した。


4.


「やめろッ!」


 健斗の絶叫は、降りしきる轟音にかき消された。彼は自分にまとわりつこうとする小さな体を乱暴に突き飛ばした。


 アスファルトに転がる黄色い帽子が視界の端に映ったが、気にもならなかった。周囲の大人が息を呑む気配がする。だが、もうどうでもよかった。


 彼は背を向け、ただひたすらに走った。キャリア、名声、築き上げてきた全てが崩れ去る音を背中に聞きながら。


「パパー!」「まてー!」


 背後から追いかけてくる声は、非難でも怨み言でもなかった。それは追いかけっこのような、純粋な歓喜に満ちていた。その無邪気さが、健斗の神経をやすりのように削り、焦燥感を煽る。


 なぜだ。やめろ。俺の人生を、俺の輝かしい未来を、お前たち如きが壊すな。彼の思考は、自己憐憫(じこれんびん)と怒りで飽和していた。


 やがて、道は途切れた。眼下には、茶色い濁流がごうごうと音を立てて渦巻いている。この豪雨で増水した川だ。逃げ場はない。

 健斗が絶望と共に振り返ると、びしょ濡れの園児たちが、少しもペースを落とさずにこちらへ走ってくるのが見えた。その顔には、疲れも悪意もない。ただ、大好きな父親に追いつきたい一心の色だけが浮かんでいた。


 飛び込むか、捕まるか。

 健斗の脳裏で、天秤が動く。捕まれば社会的に殺される。飛び込めば、あるいは。彼の思考は、この期に及んでも損得勘定に支配されていた。


「捕まるよりは、まだマシだ」


 彼は濁流に向かって、自ら身を躍らせた。

 冷たい水が全身を打ち、肺から空気がごぼりと漏れる。必死にもがき、なんとか顔を水面に出した。

 その時、健斗は信じがたい音を聞いた。


 ザブン! ザブン!


 園児たちが次々と、何の躊躇もなく川へと飛び込んでくる。まるで、最高のプールに飛び込むかのように。黄色い帽子が、濁流の中をぷかぷかと、アヒルの玩具のように浮かび、健斗の方へ流れてくる。

 泣き声一つ聞こえない。聞こえるのは、きゃっきゃという甲高い笑い声だけ。


「パパ、みつけた!」

「もぐりあいっこだ!」

「こんどはかつからね!」


 畜、生……


 濁流に体力を奪われ、抗う気力も失せた健斗の視界が、びしょ濡れの笑顔で埋め尽くされていく。すぐ目の前に、知らない女の子の屈託のない笑顔があった。


 その子の背後にも、また別の笑顔が。水音と子供たちの笑い声が混じり合い、奇妙なハーモニーを奏でる中、健斗の意識は静かにブラックアウトした。



 翌朝、記録的な豪雨が過ぎ去った街に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。通報により警察と消防が駆けつけた川の中州付近に、それらはあった。


 雨が上がり、静けさを取り戻した川面。一つの大きな大人の体と、その周りに寄り添うように浮かぶ、たくさんの小さな体。その誰もが、楽しい遊びを終えたかのような、幸せそうな笑みを浮かべていた。

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