大家の羊
叶うなら、どこか遠いところへ逃げ出したかった。
進藤なつ、高校2年生はある夏の日荷物をまとめて実家から一人で行方を眩ませた。
最初に書いたメモを残して彼女は姿を消した。家族は血眼になって探したそうだが彼女の足取りはつかめなかった。彼女はとあるアパートの前に立っていた。
「……」何回もインターホンを押すか迷い、人差し指を伸ばしては引っ込めを繰り返していた。
そんな人影が目に付いたのか家の奥からゆらゆらと影が玄関の方へ近づいて、乱暴にその扉は開かれた
「何うろちょろしてんの」タバコを咥えながら出てきたのは何回もブリーチをして切れた髪、黒のパーカーの女。なつは言い淀んでいたがその女は事情を知っているのか「……あんだけ、ウチのとこにはいかないって言ってたのに結局来たんだ」とタバコの煙を吐いて学生服の女を上から下まで見ると、足に突っかけていたサンダルの裏にタバコを押し当て、なつの腕を引っ張って家にあげた。
古い木造のアパートに女2人、ギシギシと床が音を立てている
居間に着いたのか黒のパーカーの女がこちらを振り向く、「荷物、どっかその辺に置いといて」「え、ぁあ……はい……」なつは言う通りに居間の隅にキャリーケースとボストンバッグを置いて女の目の前にいそいそと座った。
女もそれを見て、またタバコに火をつけた。木製のテーブルには今どき見かけないであろうガラスの大きな灰皿とお酒の缶が置いてあるのを見て彼女の肩はさらに縮こまった。
その様子をタバコを吸いながら女は口を開く、「爺さんの葬式以来だっけ?」なつの目は泳ぐ。
「い、いえ……多分チエ婆ちゃんの時かと」、そう答えると女は目を大きく見開き、あぁ確かにそうだったと頷きながら頷き、目を細めこう言う「にしてもチエ婆ちゃんの時って何年前だよ、ウチのテキトーに言ったことよく覚えてたねアンタ」一族って言えばいいん?ウチら遠い親戚同士だからあんま絡みとかなかったしねと面白そうに女は言う。
なつは言おうか言うまいか迷いながら口を開いた、「穂花お姉さん……のテキトーな言い方でも私は本気にしたんです、あの家から逃げ出したい一心で」
鬼気迫る言い方だったのか穂花はハッと笑うと、「いやいやまさか本気にするなんてミリも思ってねーよ」と慌てた様子でなつに言うと「嫌なら家出れば良いって言ったの穂花お姉さんじゃないですか、私死ぬほどあの家が嫌で嫌で仕方なくて」となつもここに来た時より大きな声で穂花に言い返すと穂花はあーもうと髪をぐしゃぐしゃにして頭を抱える「……逃げたいなら、逃げてもいいって言ったじゃないですか」「確かにそう言ったけれど、家出してこいとは言ってねぇよ」なつの言葉に穂花は正論で返すとなつは確かにとバツの悪そうな顔をして口を閉ざした、しばらく気まずい雰囲気が流れたが穂花が沈黙を破った「おばさんとおじさんに何も言わずに出てきたわけ?」「……まあそうですけど」その答えに穂花はまた頭を抱えた。
「ウチ捕まるやつじゃんそれ……」「捕まるってそんな、大袈裟な……ちゃんと書き置き残してきましたし」心外だと言わんばかりに書き置きはしてきたと言う目の前の高校2年生を見て穂花は「勉強は出来んのにそれ以外がてんでダメっておばさんが言ってたのはこういうことか」と小声で呟いた。
いつまでも居間であーだこーだと言い争うのも時間の無駄と考えた穂花は隅に置いてあったなつの荷物に意識を逸らした、なつも目線が自分ではなく自分の荷物に目が向けられていることがわかると「お酒とかは入ってないですから」「わーってるよ、未成年に持ってこさせるわけねぇだろ」今冷蔵庫は酒でパンパンだからいらねぇよと言うと「ボストンバッグ」「え?」「あのキャリーに載っけてるボストンバッグ開けてこっち持ってこい」と彼女に促した、指示された通りになつはボストンバッグを開けて穂花の目の前に置く。
「こっちに来る時参考書とか持ってくんなつってたよな」「いや、でも……一応勉強しておかないといけないし」参考書と言った途端彼女の目は曇った、1冊取り出して彼女の目の前でバサバサと本をはためかせると彼女は小さくごめんなさいと呟いた。
「怒ってるわけじゃねぇよ、ウチのアパート来んなら参考書とか持ってくんなって話した時に言ったはずだけど」「でも、もしお母さんとお父さんに捕まって連れ戻された時にコレがないと言い訳もできないから」となつはそういう、項垂れた彼女を見ながら穂花はボストンバッグに入ってた5冊くらいの参考書を手に取ると、ズカズカと歩いていき、庭の窓を開けるといつも使っているジッポで参考書を燃やし始めた。
彼女の跡を追ってきたなつも穂花の行動に呆気に取られていたがすぐ意識を取り戻し穂花に飛びかかる
「お、お姉さんダメそれ燃やしたらお母さんとお父さんが」「毎日毎日勉強漬けで1点でも成績が落ちれば殴られる」「……」「寝るのも許されない日もあった」「……」「チエ婆ちゃんの葬式の時のアンタの顔、一歩でも間違えればおばさんとおじさんを刺そう、みたいな危うさがあったよ」「……」5冊もあった参考書がジッポによってあっけなく燃えてしまった。
そんなこともお構い無しにお姉さんはタバコを吸いながら縁側に腰かけてそう言った、私はスカートの裾を握りしめて反論することも出来なかった。じわじわと私の努力が燃える熱を横に感じながら俯くしか無かった、そんな私を横目に穂花お姉さんは口を開いた。
「……今じゃこんなヤンキーみたいなカッコしてるけどウチも実家にいた時なつみたいだったよ」「え?」
「第1志望、難関大でしょ?」「うん」誘導尋問みたいな穂花お姉さんの問いに私は答えるしか無かった。
お姉さんは、なんも変わらんねあの一族はと呆れたように笑うと「難関大、難関高校に行ったって結局親の手柄になるんよ、自分の実力とは合わないところを無理やり受験させられてさ、そりゃ反動でこんなカッコにもなるし周りと合わせるのも大変だし」と縁側でぐーっと伸びをするとお姉さんは私の方を向いて「ま、生きてウチに来たんだから良しとするけど、アンタ、ウチが捕まって実家に戻されることになっても文句言うなよ」とだけ言うとさっさと部屋に戻っていってしまった。
いつの間にか参考書は燃え尽きてしまったし私はこのアパートのどの部屋を使えばいいのか分からないまま中に戻った。「あの」縁側から声をかけると案外近くにいたのか穂花お姉さんが顔を出した「何?」「部屋ってどこ使えば良いんですか」私の問いにお姉さんはあーと言うと軽くなったボストンバッグとキャリーを私に持たせて、自分の後ろをついてこいと居間を出てたくさんの部屋がある廊下に出た。「……もしかして、お姉さんが大家?」今更ながらの事実にお姉さんは私の顔をびっくりしたように見つめて「ここまでして気づかないなんてアンタホントに勉強以外について鈍すぎじゃない?」もう少し察しがいいと思ってたんだけどとぶつぶつ呟きながら、スウェットズボンのポケットからだいぶ年季の入った鍵束を出すと、私が入る予定の部屋番号の鍵を見つけて、いそいそと開けた。ギッという音と共に玄関のドアが開けられた、ドアを開けたお姉さんははいどうぞと私が先に入るように手であっちへ入れとジェスチャーを出して私を狭い玄関に押しやった。
「ちょ、そんなに押さなくても良くないですか」「いいから早く入れよ、説明はここですっから」早く靴脱げと言われるがまま脱いで三和土を超えて荷物を下ろして部屋の扉を開けた。
そこにはちょっとした机と押し入れ、今どき珍しい紐で電気をつけるタイプの電灯しかない部屋だった。
「私の実家とあんま変わらない」「じゃあ、別の部屋にする?」私の感想を聞いて部屋の紹介をするまでもなくなったお姉さんは次々〜と最初の部屋を出ていく、のを私は急いで追う。「別に、あの部屋が嫌とかじゃなくて言った訳じゃなくて」「じゃあ、何〜?実家と似てる部屋だと嫌なんでしょなつちゃんは」鍵束をくるくる回しながらアパートの外廊下を私たち二人はあーだのこーだの言いながら進んでいく。
こうして騒いでいると不思議な気持ちになって、お姉さんに聞くことにした「こんなに騒いで他の住人の人って、怒ってこないの?」そう聞くとお姉さんは足を止めてこちらを振り向いた。
「他の住人も何も、ここそもそも今の今まで私しか住んでないよ、部屋貸すのもなつちゃんが初めて」「え?」「おかしいと思わなかった?普通、人が大家の部屋の前でうろついていたらどっかの部屋から人出てくるけど、ウチんとこはそれ、なかったっしょ?」ケラケラと笑いながら彼女はそういう。確かに私がお姉さんの部屋に入るかどうか迷っていた辺りで気づくべきだった。
「じゃ、じゃあ私がここに来なかったら」「んー、まあしばらく一人暮らしだったろうね、ま、文句言ってくるやついないから快適だけどさ」と言いながら彼女は楽しそうに廊下をスキップしてまた折り返してこっちに向かってくる。
「んで、空室開けるだけ開けたけど気に入った部屋あった?」お姉さんはそう聞いてくる。アパートとはいえ住んでいるのはお姉さんと私だけ。でも私がここで実家に帰りますとか言うとお姉さんは捕まるかもしれないし、またアパートで管理人兼一人暮らしを続けないといけないのかと思うと少しお姉さんに同情してしまった。
一人で暮らす、ということは私は初めてだけどお姉さんはあの葬式以来連絡がまばらにしか取れなくて、やっと連絡が取れたのは私が限界とこぼした日だった。
一応命の恩人でもあるお姉さんへの恩返しのつもりで私は口を開いた。
「私、ここで生活します」お姉さんを見据えてそう告げるとお姉さんは嬉しそうに笑って私が気に入った部屋に荷物を全て入れてくれた。ご飯はどうせ2人しかいないんだからウチの居間で食べようとか色々な制限とかありつつ、私と穂花お姉さんの共同生活が始まった。