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君ヵ嶺ノ丘

作者: わびさび

 太陽が南中を少し過ぎた頃であった。私は電車の揺れるがままに身を任せていた。トンネルを抜け、高架を走り、田畑の合間を縫い、瀬戸内海に至る電車である。

 私は、日々の呪縛から逃れたがった、その日が、今日である。旅行カバンを引っ提げて、私は私の日常から飛び出したのであった。

 人はまばらであった。席も空いていた。窓側は、埋まっていた。

 私は吊革に掴まり、車窓の外を眺めた。流れる景色は、太陽によって、透き通っていた。

 車窓を流れる木々の残像、左様。私もこの流れる景色の有象無象の一部で、普段を暮らしているのである。

 窓に、虫が止まっていた。その虫は、窓と車体の凹凸に身を隠し、弱々しくも、その強靭な脚の力で踏ん張っていた。

 私は、その虫が、少し羨ましくなった。私も、そのような頑強さを持ち合わせていたかったのである。

 車内アナウンスが響き、列車はガクンと減速しだした。

 再び窓を見ると、虫はもう居なかった。

 行く当てのない旅の道すがら、虫の発見と喪失、それが重なり、私は次の駅で降りようと思い立った。

 その名前を、畑尻駅といった。小さな駅で、他に降りた人は、二人のみであった。

 駅舎の、丁寧に磨かれた古いリノリウムが、鏡のように目の前の景色を反射させていた。

 改札口からは短い表通りが伸び、その先には古びた漁港があった。

 そして、その横に聳え、伸びる山彙。

 駅に、町興しの観光板があった。それを見つつ、私の興味は目の前の景色に移った。漁港の横に聳える山の名前は、君ヵ嶺ノ丘であった。

 熱射に照らされて薄緑に輝き、こじんまりとしていた。まさに丘という気配があった。

 その丘の中腹に、神社が見えた。

 遊歩道の案内があった。

 入口を見つけられたら登ってみようと思いつつ、私はぶらぶらと歩き出した。

 ふと、鳥居が目についた。その先には、うずたかい石段。

 先ほど見えた神社の参道らしかった。私は鳥居の前で少し立ち止まり、石段を登った。

 傾斜が急で、汗を滴らせ、何度も休みがちになりながら、やっと神社へ辿り着いた。

 石段を振り返ると、一面に海が見渡せた。

 神社は、八幡様で、造りも同様であった。神職の服を着た初老の男が、神社周りを熊手で掃除していた。

 石段から先、拝殿へと進む道には、砂利が敷き詰められていた。

 一歩踏むと、砂利の音が小さな境内に響いた。その音に反応して神職が振り向いた。

 私が近付きつつ、

「こんにちは」

 というと、向こうも、同様に挨拶を返した。

「今日は、一段と暑いでしょう」

 と、神職の方。

「ええ、この熱射が、えらいです」

 と、私。

「越されてきた方ですか? 」

 と、神職の方。

「いえ、旅行ですよ」

 と私。すると神職は驚いた表情を浮かべ、

「ここには何もないですよ」

 と言った。いつの間にか、熊手を杖代わりに柄を両手で支えていた。

「何もないはずがないでしょう。電車が通っています」

「でも、それだけです」

「あと、駅前の観光板で見ました、君ヵ嶺ノ丘。あれも景勝地でしょう? 」

「あれなんて、朝方、我々老人が暇潰しに行くだけですよ」

「では、行く道をご存知ですか」

「ええ、そうですが」

「登ってみたいんですが、入口はどこにあります? 」

 と、私が聞くと、神職は銀歯を覗かせながらニコリと笑った。少しの自信がはにかんだような笑みだった。

「良いですよ。案内します」

 入口は、その神社のすぐ横にあった。

 遊歩道は荒れていたが、ゴミは少なく、神職の言うように幾らか人の往来もあるようで土は踏み固められていた。

 私はそこで、

「ご丁寧に、どうも」

 と頭を下げると、神職は、

「お帰りの際は、ぜひ参られてください」

 と言って見送ってくれた。

 周りに生える木々によって、空は覆われていた。

 急な傾斜を膝に手を付きながら登る。うつむくと、鼻尖から大粒の汗が垂れてきた。

 息はいつの間にか切れ切れになり、とにかく上へ登りつめた。

 ふと顔を上げると、真っ青な空があった。木々が開けている。

 そこへ登ると、平坦な、小さな草原があった。そして、眼前に確かに広がる風景。

 私の想像よりも、ずっと綺麗であった。

 水平線と空が溶け合い境界を無くしていた。散在する島嶼は、遠くにあればあるほど、緑が大気に侵され、白っぽく、また青っぽくなっていた。

 海には、島嶼の隙間を縫うように、積み荷を下ろした貨物船が、喫水を大きく上げて点在している。

 遠く西方に続く山彙の麓には、重力に侵され、山々からずり落ちたように家屋が並んでいる。その情景は、海と山とで挟まれ、脅かされているようであった。

 トンビの声が聞こえた。

 潮風に吹かれ、トンビが大きな翼を広げ風に乗っていた。その影が時折、私の下へ落ちてきていた。

 私は、トンビも乗る風を浴びた。その清涼さが心地良かった。

 夏の憧憬、まとわりつく湿気と汗を拭う風。

 そこは、時間さえも緩やかに経過していた。

 これを他の誰でもなく、ただ私一人が占有している背徳もあった。

 私の、小さな日々での疲れと憤り、そして陰鬱な気持ちの全てが、瀬戸内海によって包み込まれ、柔和していくのを感じた。

 私は、切り開かれたであろう、古い切り株の上に腰を据えた。

 背後にある大きな木陰が、私までを覆っていた。

 普遍的、左様。しかし、私にとってその普遍性こそが最も大切にしなければならぬ特別であった。

 開襟シャツのボタンを更に開け、その新鮮な潮風を取り込んだ。

 私が始終感じていた焦燥は、風に晒されどこかへ、遠くへ、流れていくような気がした。

 私はまたしばらく眺めたあと、額に手をやった。汗は乾いていた。

 そろそろと思い、立ち上がった。

 背の高い雑草の中に、白い何かを見出した。私はそれをゴミだと思った。

 近付いてよく見ると、それは裏返り、折れ曲がった看板であるらしかった。

 私はそれを足でつつき表に返した。

 そこには、「耕して、頂を拝む」と書かれていた。

 私は、どうやら、このありきたりさえあるような丘の上にまで道が整備されていることの、意味が分かったようである。

 私はその看板を横切り、来た道を下り、神社の横に出た。

 神職の言葉を思い出し、神社へ出向くと、賽銭箱の横、軒から伸びた影に隠れながら、神職は目の前の海を見ていた。

 私が土を踏んで近付くのに気づいたらしく、神職はこちらを見て、会ったときと同じような笑みを浮かべた。

「綺麗でしたよ」

 と、私が言うと、

「もう、私は見過ぎて何も感じませんね」

 と笑った。続けて、神職は、

「参られますか? 」

 と尋ねた。

「はい、折角ですから」

 私が応えると、

「では、参られついでに、少し待っててください」

 と言って、神職は、戸を開け放している社務所の方へ小走りに駆けていった。

 私は拝殿に参り、先程まで神職がいた軒下に隠れた。

 神社の周りには、クマバチの巣があるらしく、重低音の羽音がよく聞こえてきた。

 それからちょっとすると、盆を持った神職がこちらへ近付いてきた。

「喉渇きませんか、麦茶、よければ」

 私は、私の心が震えるのを感じた。

「いいんですか? 」

「高いものじゃありませんよ。どうぞ」

 私は勧められるがまま、盆の上にある麦茶を手にとった。氷とガラスが透き通る音を出した。

 私は、それほど喉の渇きを感じていなかったが、それを一口で飲み干した。

 それから少し息を整えて、

「暑い日は、冷たいものですね。良くしていただいて、ありがとうございます」

 と言うと、神職は、

「いえ、ここに他所の人が来ることは滅多にありませんから。八幡様も喜んでいると思います」

 と応じ、再びニコリと優しい笑顔を見せた。

 我々はそれから二三言葉を交わし、お辞儀をして神社に背を向けた。

 その刹那、私の眼の前は紺碧に包まれた。

 蒼穹と瀬戸内の調和、その紺碧が、私を見ていたのである!

 石段から広がる紺碧、木々も甍も砂浜も、全てが青々と見えた。

 私は青白く写る石段を一段一段降りながら、この旅情を考えていた。

 ある丘での憧憬、神職の底知れぬほどの親切、知らぬ土地でのある特別な感情。そして、絶えず感じられる人としての私。その全てが同化し、調和しあい、私の中に、見事な心持ちを形成していた。

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