第二話 運命の地へ
クロノス商会を後にしたライは、人波でごった返す大通りを避けて裏路地へ入るや、繁華街へと続く小路を歩き出した。
このリーベラで寝蔵にしている常宿も一階が酒場になっているが、さすがに陽も高いうちから営業はしていない。
となれば、『普通の食堂で軽く一杯』以外に選択肢はなかった。
酒の類は嫌いではないが、無類の酒好きというわけでもない。
仕事に支障がでるのを嫌い、契約期間中は酒精が薄い果実酒すら口にしないのだから、酒を断ったからといって苦にはならないだろう。
だから、ライにとって戦場から生還した際に酒を飲むというのは、精々が験担ぎを兼ねた厄落としの儀式に過ぎないのだ。
(何か軽めのものを摘みながら、ビールでも飲むか……)
その後は公衆浴場へ寄って、戦場で染みついた垢と埃を落とそう……。
そんなことを考えていると、快活な声に背中を叩かれた。
「やっほ──ッ! アニキぃ──ッ! ライのアニキったらぁ──ッ!」
その声の主の正体を察して振り向いたのと、満面に無邪気な笑みを湛えた少年が抱き付いてきたのは同時だった。
親しい友人との邂逅を嬉しく思いながらも、ライは苦言を忘れない。
「なぁ、ケイン……いい加減、その〝アニキ”ってのは止めてくれないか? 押しも押されもせぬクロノス商会御曹司が、得体の知れない傭兵と昵懇の間柄だとの噂が立てば、商売にも悪い影響がでるだろうに」
「そんな巫山戯たことを言う奴らなんか相手にする必要はないさ! それに、俺にとってライのアニキは商会よりも大切な存在だから、ノープロブレムだよ!」
毎度の忠告を臆面もなく聞き流して悪びれもしない少年の顔が、前世で懐いてきた山崎修司のものと重なり、ライは複雑な感情を持て余してしまう。
然も、毎回同じ言い訳をして煙に巻くところまでもが瓜二つなのだから、余計に質が悪いと苦笑いするしかなかった。
ケイン・クロノス、十八歳。
ライの言葉にあったように、フィンの息子でクロノス家の三男坊だ。
薄い狐色の髪と鳶色の瞳、あどけなさを残しているものの、その柔和な顔立ちは若い頃の父親にそっくりだ、と一族の長老たちからの評価は頗る良い。
同時に、父親の天才的な商才を最も色濃く受け継いだのは三男坊だ、という認識でも親族らの意見は一致していた。
それは、二人の兄らが本店で財務や流通の管理に明け暮れているのとは裏腹に、自ら船団を率いて世界中へ飛びだして行くケインのアクティブな性格が、若き日のフィンを彷彿させるからだろう。
しかし、そんな評価が照れ臭いのか、当の本人は父親と比べられる度に渋い顔をするのが常だった。
「やれやれ、困った奴だ……しかし、元気そうで何よりだな。東部沿岸地域の国々へ足を延ばしていると聞いていたが?」
「新しい仕入れルートの開拓にね……それにしても、帰って来て早々アニキに再会できるなんて本当にラッキーだったよ。それで、これから宿に戻るのかい、いつもの『海鳥の寝床亭』だろ?」
「その前に軽く一杯やってからと思ってね。繁華街にどこか開いている店がないか探すつもりだったんだが……」
すると、露骨に顔を顰めたケインは、溜め息交じりに首を左右に振る。
「あ~~そりゃ無理だよ。この一週間ほど沖合の海は荒れっぱなしらしくてさぁ。碌な魚が入らないから『商売にならない』って食堂街の店主らが嘆いてたぜ」
「そうか……だったら、大人しく女将さんの店が開くのを待つしかないか……」
今日はとことんツイていない、と嘆息するライだったが、一転して満面に笑みを浮かべたケインが弾んだ声を上げた。
「だったら、俺が活きの良い食材を掻き集めて来るから、先に宿で待っていてくれよ! そんなに待たせやしないから、久しぶりに飲み明かそうぜ、アニキ!」
そう言うや否や踵を返したケインは、海産物問屋が軒を連ねる港湾区を目指し、脱兎の如き勢いで駆けていったのである。
「やれやれ……馴染みの取引先に無茶を言わなきゃいいが……」
そんな懸念が頭の片隅を過ったが、新鮮で美味い海産物を肴にして一杯、という誘惑に抗えなかったライは、弟分の懇願に従って寝蔵へと足を向けるのだった。
◇◆◇◆◇
ライが常宿にしている『海鳥の寝床亭』は、繁華街の北側に広がる住宅街の一角にあり、気っ風のいい初老の女将が息子夫婦と共に切り盛りしている古ぼけた小さな宿屋だ。
『もっと上等な宿を用意いたしますのに……』
事あるごとにフィンからは宿替えを勧められるのだが、女将の為人を感じさせる年季の入った建物や、夜になれば労働者で賑わう酒場の雑多な雰囲気もライは気に入っており、気のない素振りで逸らかすのが常だった。
だから、まるで我が家の玄関を潜るような気安さで木製の扉を押し開けたのだが、言い争う声と子供の泣き声に虚を衝かれて足を止めざるを得なかった。
声のする方へ顔を向ければ、丸テーブルが並ぶホールの一角で数人の男らが口論しており、その中の一人に取り縋って泣きじゃくる幼い少女の姿が目に入る。
幼子がしがみ付いている男の方が劣勢なのは一目瞭然だが、事情が分からないのでは口出しもできない。
そのまま店の奥へ歩を進めたライは、カウンターの奥から不快げな表情で騒動を見守っている女将へ小声で訊ねた。
「何の騒ぎだい? かなり険悪な雰囲気だが、あれじゃあ、子供が可哀そうだ」
いきなり声を掛けられた女将は驚きはしたが、相手が馴染みの客だと分かるや、眉を顰めながら小声で事情を説明する。
「〝肝煎屋″だよ……警邏隊から『余所者の斡旋業者が徘徊している』って注意はされていたんだけどねぇ。まさか、うちの客に手を出すなんてさぁ……」
たったそれだけの説明で、ライは大凡の事情を理解した。
『肝煎屋』とは、雇用者と労働者の仲介を生業とする人材スカウト業の総称なのだが、本来ならば各職業別のギルドに周旋を依頼するべきところを、様々な事情から正当なルートを選択できない依頼主の要望を受ける裏社会の者らを指している。
依頼主の事情を叶えるといえば聞こえはいいが、『ギルドの斡旋料は高すぎる』とか『奴隷として使える者が欲しい』などの強欲で身勝手な依頼を引き受けるのだから、その手管は非合法スレスレのものになるのが常だ。
実際、目の前で繰り広げられている遣り口が、それを証明していた。
「おうおう! てめえで契約書にサインしておきながら、今になって出来ないとはどういう了見なんでえッ!」
「で、ですが、畑仕事しかしたことがない私に人殺しなんて……」
「それでもヤルしかないんだよぉ! 逃げだそうってんなら上等だッ! てめえをバラバラに刻んで魚のエサにしてやるよ!」
「ひっひっ……娘を娼館に売って違約金を作るなら、いい店を紹介しようかい?」
「そ、そんなぁ……お、お願いです! 勘弁してくださいぃ──ッ!」
今も目の前で続いている口論を聞く限り、どちらが理不尽なのかは考えるまでもないし、何よりも泣きじゃくる幼子の姿が哀れすぎた。
(やれやれ……仕方がないか。また、ケインの奴に呆れられてしまうな)
つくづくお人好しな性分だと自分でも思うが、幼気な少女が悲しむ姿を目の当たりにすれば放ってはおけないし、あとで後悔して苦い酒を呷るのも真っ平御免だ。
そんな思いに背中を押されたライは、喧騒の輪に向けて足を踏み出していた。
「ちょ、ちょっと、ライさん! あんた……」
「揉め事の仲裁は酒場の用心棒の仕事だと決まっている。普段世話になっているのだから、こんな時ぐらいは役に立ってみせなきゃな」
不安げな女将を軽く片手を振って宥めたライは、構わずに歩を進める。
当然だが肝煎屋を名乗る以上、それなりに修羅場を潜ってきた者ばかりであり、近づいてくる胡散臭い男の存在にはすぐに気付いたし、警戒心を露にして凄む姿は実に板についたものだった。
「何だい、兄さん? こっちは取り込み中だ。奥に引っ込んでいて貰えると有難いんだがね?」
「注文が決まったら呼ぶからよぉ、変に首を突っ込むと碌なことにならねぇぜ」
「へっ、へへへ。それとも、早死にしたいクチなのかい?」
だが、そんな月並みな脅し文句も、戦場で死線を潜り抜けてきたライには微風のようなものだ。
不敵な笑みを浮かべたまま軽く両手を上げて敵意がないことを示し、リーダー格らしい男に顔を寄せて口を開く。
「さっきから黙って聞いていれば、随分と阿漕な商売をするじゃないか? 重税に耐えかねて寒村から逃れてきた農夫を傭兵として雇うなんて無茶苦茶だろう?」
必死に弁明する被害者の言い分では、三日前にリーベラに辿り着いてからというもの、娘を宿に残して職探しに奔走していたらしい。
しかし、良い仕事は見つからず、失意のうちに足を踏み入れた繁華街の酒場で、この男たちから声を掛けられたとのこと。
あとは、お決まりのパターンだ。
しこたま安酒を吞まされた挙句、酔って朦朧となったところで、わけも分からぬままに契約書にサインさせられたという次第だった。
この時代でも直筆のサインの効力は絶対だ。
それが違法だと証明できない限り、反故にするのは難しい。
そして、無理矢理に酒を呑まされ、契約を強制されたと証明するのも容易なことではなかった。
そんな裏事情を知っている男らは強気の態度を崩さず、剣呑な視線でライを睨みつけて威嚇する。
「ひでぇ言い草だが証拠でもあるのかい?」
「俺たちが違法な勧誘をしたって証拠がよおッ!?」
語気を荒げて迫りくる手下二人が放つ圧を平然と受け流したライは、まるで諭すかのように穏やかな口調で相手の利を語った。
「俺はお前らのことを心配して忠告しているんだぜ。人を殺した経験もない人間が務まるほど傭兵ってのは甘いもんじゃない。国や領主に雇われる季節兵じゃないんだ。『役立たずを押しつけやがって』と雇い主から顰蹙を買えば、今後の商売にも支障がでるんじゃないのかい?」
「よ、余計な御世話だ、馬鹿野郎! 素人がしたり顔で出しゃばる──うぐっ!」
ライの正論に苛立ったリーダー格の男は怒気を含んだ罵声を上げようとしたが、それは、喉元へ突き付けられた双剣によって遮られてしまう。
一体全体いつ抜剣したのかさえ気付けず、羽織っているマントが僅かに揺れたのを辛うじて認識できたのみだった。
然も、ライの表情からは一切の笑みが消えており、剣呑な視線からは明確な殺意が滲んでいるのが分かる。
「素人とは心外だ。これでも、それなりに場数を踏んだ傭兵なんだがねぇ……何ならアンタの身体で試してみるかい? 俺の腕前を……さ」
「て、てめえっ……ひいっ、や、やめろ! 刃先を押し付けるんじゃねえ!」
途端に情けない声を上げる男を無視したライは、鋭い視線で一瞥したのみで手下ふたりを黙らせるや、事態の解決策を提案した。
「余計な御節介なのは申し訳なく思っているよ……そこでだ……俺もあんたも双方が万々歳になれる方法があるんだが……その農夫の代わりに俺を雇わないかい? 契約内容に文句は言わないし、報酬も同じでいいからさ」
「み、身代わりになろうってのか? なにを好き好んで……」
「余計な詮索は必要ないだろう? 重要なのは、俺の方が万倍は役に立つってことじゃないのかい?」
勿論、男達に否があろうはずもなく、契約を差し替えることで双方が合意する。
リーダー格の男から差し出された古い契約書を破棄し、新しい契約書にサインしたライは、事態の推移が呑み込めずに茫然と立ち尽くす農夫へ声を掛けた。
「災難だったな。だが、これに懲りたら、今後は甘い話には騙されないことだ……報われる日は必ず来るからさ。もう、お嬢ちゃんを泣かすんじゃないぞ」
「も、申しわけねえ! 本当に申しわけねえッ!」
涙ながらに何度も頭を下げる農夫を笑顔で宥めたライは、父親の足に縋って悲しげな顔をしている少女の前に片膝をつくと、懐から取り出した小さな巾着袋を、その手に握らせてやる。
「貰いものの飴玉しかないんだが、よかったら食べておくれ。これからもお父さんと仲良くするんだよ」
そう言って少女の頭を撫でてから女将のところへ戻ったライは、自らのサインが入った真新しい契約書を手渡すや、あとから来るであろう弟分への伝言を頼んだ。
「急に仕事が決まった、とケインに伝えてくれ。美味い酒と肴は次の機会に楽しませて貰うとね。それから、あの親子に何か仕事を斡旋して欲しい。そう、俺が頭を下げていたと申し添えて貰えれば有難い」
「ライさん……あんたって人は本当にお人好しだねえ……分かったよ、伝言は必ず伝えるからさ、絶対に帰ってきなよ! その時は腕によりをかけた料理を腹一杯になるまで振る舞ってやるからさ!」
その女将の哀願と、男達から『いくぞ!』と声が飛んだのは同時だった。
どうやら、目的地へ行く船の出航時間が迫っているらしい。
「やれやれ……北へ行くつもりが、南の海の果ての島国へ行く先が変わるとはな。またもや『軽く一杯』はお預けか……こりゃぁ、先が思いやられるねぇ」
呑気な台詞を呟きながら男たちのあとを追うライは、まだ知らない。
これから向かう先に、運命を共にする相棒との出逢いが待っていることを……。