第八話 愚者の選択 ①
「おまえ、どうしてこんなところにいるんだ?」
鉄格子が嵌った小窓の下へ移動したライは、声を潜めて問い返した。
小さな松明のみが照らす薄暗い地下牢に人の気配は感じられないが、外部の人間と密会していると知られれば、厄介なことになるのは目に見えている。
それ故に用心して声音を落としたのだが、そんな兄貴分の配慮などは知ったことか、と言わんばかりに不満顔のケインは悪態をついた。
「どうしてもこうしてもないよ。市場や商店を駆けずり回って美味い酒と肴を手に入れて宿に顔をだしたらさぁ、アニキは急な仕事を引き受けて出て行ったって女将が言うんだもん。然も行き先は『バードランド』って揶揄されているミュートス島だっていうじゃん! いくら困っている親子の為とはいえ、お人好しが過ぎるんじゃないのかい、アニキ?」
挨拶も交わさずに別れたのが余程不満なのか、一気呵成に捲し立てる弟分の声が強くなる。
その台詞の中にあった単語に引っ掛かるものを覚えたが、今は詳しく問い質している暇はないと思ったライは、ふくれっ面のケインを宥め賺す。
「馬鹿、声が大きい……悪かったよ。だが、女の子に泣かれるのは気分の良いものではないしな。それに、あの凡庸な農夫に傭兵など務まるはずもないじゃないか。異国の地で父親が死ねば、あの子は独りぼっちだ……それでは哀れすぎるだろう」
小声で言い募る兄貴分の懸命さに絆されたケインは苦笑いするしかない。
「やれやれ、これだからアニキはなぁ……まぁ、そこが良いところでもあるのだけどさ。心配しないでよ、あの父親はうちの商会で雇ったし、娘と暮らせる住まいも世話しておいた。生活を立て直すには充分だろう」
気掛かりが晴れて安堵したライは、小さな吐息を零しながらも顔を綻ばせる。
すると、直面している現実的な問題について、ケインが訊ねてきた。
「色々と話はあるけどさ、どうする? 逃げ出すなら手を貸すよ?」
意味ありげに嗤うケインの手には、月光を浴びて煌めく糸の様に細い特殊鋼線が揺れている。
エルブシャフトでは珍しい純度の高い鋼製であり、鉄製の格子など容易く切断してしまう優れものだ。
目下開発に成功しているのは、東の大陸ベルダンを統一したハイデルランド帝国だけで、帝国と貿易協定を結んでいるクロノス商会だから入手できた逸品である。
だが、脱獄に手を貸す気満々の弟分の提案をライは拒んだ。
「その必要はないよ。夜が明ければ、アザールで飲んだくれている傭兵らも王都へ到着するだろう。そうすれば誤解も解けるはずだ」
「呑気に構えていて大丈夫かい、ここは天馬騎士団の本部なんだろう? 忍び込むときに様子見した限りじゃ、今すぐにでも拷問に掛けかねない勢いだったぜ、あのお嬢ちゃんたち……本当に何をしたのさ、アニキ?」
ひどく懐疑的な視線に居心地の悪さを覚えながらも、憮然とした表情でそっぽを向いたライは言葉を濁す。
「気にするな……大したことじゃない。ただの事故だ」
そのどこか不貞腐れた様子から漠然とだが色々と察したケインは、如何にも要領が悪い兄貴分の性格を慮って追及を棚上げした。
「へいへい。詮索するなってことね。それじゃぁどうする? 明日……いや、もう今日か……。時間と場所を決めて夕方にでも落ち合うかい?」
「そうだな。だが、その前に調べて貰いたいことがある。人気者の王子様と一悶着やらかしてね。街の人々から嫌われて話も聞けない有り様なんだ」
「何だよ、もう! これだからアニキは……俺が付いていないと何もできないんだから……。分かったよ。それで? 何を調べればいいのさ?」
そう問われたライは、この国と国政の現状、そして王族や貴族の動向を調べるように頼んだ。
ひどく大雑把な依頼ではあるのだが、商人としての才覚に恵まれたケインには、まさにお誂え向きの仕事だといえる。
「その程度ならお安い御用だ。落ち合う場所は俺の方で手配して知らせるからさ。アニキもお嬢ちゃんたちに喰われないように気を付けるんだぜ」
「馬鹿! さっさと行っちまえ!」
軽口を叩く弟分へ悪態を付くと、再び周囲に静寂が戻って来る。
『地獄に仏』とはよく言ったもので、思いがけず心強い味方を得たライは、粗末なベッドに腰かけてホッと一息つくのだった。
◇◆◇◆◇
窓から差し込む朝陽に頬を撫でられる感触でルディアスは目を覚ました。
ミハイルとエドガー、ふたりの兄は既に正妃を娶って世継ぎも生しているため、それぞれが独立した尖塔を住居として与えられている。
しかし、零細国家の悲しさ故か、妃どころか婚約者すら決まっていない第三王子に立派な住居を宛がう余力はなく、中庭に面したレンガ造りの倉庫を改装した粗末な小部屋のみが、ルディアスが寛げる唯一の空間だった。
もそもそと上半身を起こし、大きく背伸びをしてから小さな息を吐く。
昨日は色々なことが重なったからか、ひどく疲れた一日だった。
不思議な雰囲気を纏った傭兵との出逢いには胸が弾んだが、その後の大臣らとの話し合いでは何の収穫もなく、双方の主張が平行線を辿るだけのものに終始した。
(これで、馬鹿げた海賊討伐戦を中止する道は断たれてしまった。ミハイル兄様とエドガー兄様、どちらが勝っても遺恨は残る……どうすればいいのだろう)
憂鬱な気分でベッドをでたルディアスは、御付きの女官が用意してくれた冷たい井戸水で顔と口を洗ってから着替えを済ませる。
すると冷水で意識が覚醒したからか、沈んでいた心までもが息を吹き返した。
(まだ討伐戦までは時間がある。何としても兄上らを説得しなければ)
決意を新たにして扉を押し開けたルディアスだったが、澄んだ早朝には相応しくない騒ついた空気を感じて小首を傾げてしまう。
その違和感は王城の裏手へと続く小路の辺りから強く感じられ、微かだが怒気を孕んだ会話も漏れ伝わって来た。
(あの先には天馬騎士団の本部があるだけだが……)
昨夜は、正騎士へ昇格した新人騎士と愛馬となる天馬との『月下の契り』が行われており、儀式は深夜遅くまでかかったはずだとルディアスも承知している。
だから、こんな早朝から団員が本部へ出仕しているとは、夢にも思っていなかったのだが……。
「あっ! あの人は……」
興味を惹かれて喧騒がする方へ向かったルディアスが小路の先で見たのは……。
「だから誤解だと言っているじゃないか。王家か王宮が傭兵を雇用するように依頼したはずだから確認してくれ。それが無理なら、アザールの港町で飲んだくれている仲介業者に訊ねてみればいい」
「見え透いた嘘を吐かないで。王都の繁華街や宿屋の店主らからも訴状が来ているのよ! 見慣れない余所者が手当たり次第に住民を質問攻めにしていたと!」
昨日炊き出しの場で出逢ったライと名乗る傭兵と、アルテナが問答を繰り広げている姿だった。
(これは、しかし……一体全体なにがあったのだろう?)
ルディアスが疑問に思ったのも無理はない。
後ろ手に拘束されて地面に両膝をつかされているライと、険しい表情で詰問しているアルテナという構図から事情を推し量るのは、大の大人でも難しいだろう。
然も、ふたりを取り囲んでいる女性騎士らからは、今にもライを串刺しにせんとする怒りのオーラが漲っており、清楚で慎ましい彼女らの姿を知るルディアスにしてみれば、到底信じられない光景だというのが正直な思いだった。
だが、そんなルディアスでも、ただひとつだけ確信できるものがあった。
(不味いな……アルテナが本気で怒ってる……あの傭兵も随分とエキサイトしてるようだし……血の雨が降る前に仲裁した方が良いよね?)
喧々諤々のやり取りをする二人の剣幕に当てられて尻込みするルディアスだったが、それでも、恐る恐るといった風情で一歩を踏み出すのだった。