第六話 ワケあり傭兵の受難? ③
長年の戦場暮らしで得たものは多いが、その最たるものは、神経が過敏なまでに研ぎ澄まされたことだとライは思っている。
周囲の状況の変化に気付きもせずに眠りこけているようでは、とてもではないが戦場で生き残ることはできないし、実際にその突出した能力のお陰で命拾いしたのは一度や二度ではなかった。
このとき感じた変化も些細なものだった。
深閑とした夜気に混じる人の気配。
然も、ごく少数のものではなく一定数の騒めきとなれば、数多の戦場を生き延びて来たライが気付かないわけがない。
(なんだ? こんな夜更けに……)
周囲を大きめの岩石群に囲まれた窪地から見上げた夜空には煌々と満月が輝いており、その位置から大凡の時刻は把握できた。
(今宵はスーパームーンだったか……にしても、日付が変わろうかって時に……)
この時代にはない呼称が一瞬脳裏を過ったが、今は追想に耽るよりも異変の正体を確かめるのが先だ。
身に付いた危機回避能力の命ずる儘に上半身を起こしたライは、呑気な顔で爆睡している子天馬をマントで包むや、そっと隣の空いたスペースへと置く。
そして、物音を立てないように岩壁を攀じ登り、顔の上半分だけを出して視界を確保するや、息をひそめて辺りを窺った。
縦五百メートル横二百メートルほどの卵型の湖は、寝入ってしまう前の閑散とした様子から一変しており、ライは少なからず戸惑ってしまう。
(陽が落ちる直前で薄暗かったから気付かなかったが、東屋だと思っていた建物は儀式用の祭壇だったのか……)
ライのいる岩場から見れば対岸辺りから伸びた細い石橋が、湖の中心にある小島ほどはある石細工の祭壇と繋がっており、その円形の台座の一角だけを除き、周囲を覆うかのように篝火が設えられている。
湖面を渡る微風に揺れる炎の波は幻想的であり、思わず夢でも見ているのではないかと錯覚しそうになったが、祭壇上に佇んでいる集団が薄衣を纏っただけの女性ばかりだと知って眠気など吹き飛んでしまった。
篝火が置かれていない場所に両膝をついている三人の女性と、彼女たちの背後に立ち、星々が輝く夜空へ祝詞らしき言葉を紡いでいる紅の髪が鮮やかな女性。
それが何かの儀式だとは察せられたが、今日初めてエレンシアを訪れたライには予備知識もなく、事情が呑み込めずに困惑は深まるばかりだ。
然も、四人の女性が四人とも透過性が高い薄衣を纏っているだけのなので、目のやり場に困ってしまう。
ただでさえ、夜間における近接戦闘を得意としていた前世での経験から夜目には自信があるのに、月光までもが手助けしてくれるのだから最悪だ。
ライのいる場所から祭壇までは直線距離で百メートルはあるはずだが、彼の優秀な双眸は、薄衣の下の艶めかしい曲線までをも克明に捉えてしまうのだから始末が悪い。
(こいつは不味いぞ。見つかったら袋叩き程度では済まないかも……)
当然だが、神官役らしい女性が、昼間に炊き出しの現場で出会った王子様御付きの女性騎士だというのには気付いていた。
(ルディアスといったかな……あの王子様への不遜な態度に一番腹を立てていたのが彼女だったものな……どんな言い訳も通用しそうにはないぞ)
『痴漢冤罪』
脳裏に浮かんだ四文字が、まるで死刑宣告の如くにリピートされる。
これはアクシデントで冤罪なのだ。
そう自己弁護に狂奔するほどにライも混乱の極みにあり、必然的に周囲への警戒が疎かになってしまう。
夜空に響く嘶きと羽ばたきに気付くのが遅れたライが目を凝らすと、煌々と輝く月を背にした十頭ほどの天馬が、次々に湖面へと舞い降りる様子が目に映る。
どうやらあの辺りは水深が極めて浅いらしく、ゆっくりと歩を進める天馬たちは、祭壇に跪いた女性騎士らに近づいて鼻先を差し出すのだった。
そして、立ち上がった三人の女性らは代わる代わるに天馬の首辺りを抱き締めてスキンシップを繰り返す。
その後ろで途切れる事なく祝詞を紡ぐ赤髪の女性騎士の姿は荘厳の一言に尽き、この時点で漸くライは儀式の趣旨に思い至った。
(そうか……これは、騎士が天馬と乗騎の契りを結ぶための儀式なのか……)
専従の天馬を得ることで新たな天馬騎士が誕生するのは、エレンシアにとっては慶事なのかもしれない。
しかし、所詮は余所者でしかないライにとっては他人事であり、感銘はしても、それ以上の感情は持ち得るはずもなかった。
とはいえ、極めて不味い状況に置かれているのは自覚しており、思考をフル回転させて最善手を模索するが……。
(こんな深夜に儀式を行うぐらいだから、他人に披露する類のものでないのは確かだ……覗き見た者を問答無用で処断することはないにせよ、何かしらのペナルティは避けられないだろうな。然も、あんな薄着の姿を見られたとなれば……)
不吉な未来予想図しか思い浮かばず、ライは早々に考えることを放棄した。
(バレる前に逃げる……捕まる前に逃げる……とにかく逃げる)
相手に気付かれないうちに立ち去れば問題はない、と結論付けたが、その目論見は想定外のアクシデントによって儚くも水泡に帰すのだった。
「キュィ! キュイィ──ンッ!!」
いつの間に目を覚ましたのか、マントに包まっていたはずの子天馬がライの背中を攀じ登るや、静謐な月下の空間へ甲高い歓声を放ったのだ。
「ば、馬鹿野郎! いくらお仲間が恋しいからって、オマエぇ──ッ!」
不覚にも釣られて口から零れた非難の言葉が湖畔の空気を震わせる。
余りにも軽率だったと嘆いたところで、全ては後の祭りだ。
儀式の場は騒然となり、護衛に付いていた騎士団の動きが慌ただしくなる。
もはや一刻の猶予もないと判断したライは、きょとんとした顔で小首を傾げている子天馬の頭をひと撫でして別れの言葉を告げた。
「あのお姉さんたちに保護してもらえ。そうすれば、仲間の所へ帰れるからな」
そして手荷物だけを引っ手繰るや、猛然と岩場から飛び出したのである。
(闇に紛れて森を突っ切るしかない。月明かりが厄介だが、何としても逃げ延びなければ……)
脳裏に浮かんだ『痴漢冤罪』の四文字に背筋が凍てつく。
「濡れ衣で罰せられるなんて真っ平御免だ!」
ひどく情けない決意の叫びが、闇に閉ざされた森の空気を震わせるのだった。




