第六話 ワケあり傭兵の受難? ②
前世の生家は独自の古武術を代々継承してきた一族であり、久藤 悠也も継承者として恥じない域に達していた。
その真髄を語るのは容易ではないのだが、敢えて分かり易い表現をするならば、『闘気を自在に操る』というのが最も適切だと言えるかもしれない。
鍛え抜かれた強靭な肉体と精神から生み出される闘気の力を思うままに駆使することで、人の身に非ざる力や技を得て世の為に戦う。
それが、久藤家に生まれた者が受け継いできた宿命だったのである。
勿論平和な世では役立つこともなく、精々が大道芸どまりの代物でしかなかったが、自衛官から国軍士官へとキャリアを積む中、戦地に派遣されることが多かった悠也にとっては、まさに『切り札』と呼ぶに相応しい頼れる相棒だったのだ。
そして、その『切り札』は、この転生した世界でも些かも衰えてはいない。
急接近して来る獲物が希少な天馬だと気付いたときは、既に左手でマントを跳ね上げて利き腕で愛用の剣を抜刀した後であり、その刃の切っ先は標的の眼前にまで達していた。
この時点で刃の軌道を変えるなど並の人間ならば到底不可能だが、状況を知覚し脳が指令を発するよりも早く己が動きを制御できるライにとって、その程度の技は然して難しいものではない。
闘気の流れを利き腕へ集中。
二の腕から肘、そして手首の筋肉を総動員させ、ほんの僅かだが、天馬の頭上を刃が通過するように軌道を修正してみせたのである。
(驚かせやがって……感謝しろよ、チビ。こんなサービスは滅多にしないんだぜ)
そんなジョークが脳裏に浮かんだが、間を置かずに獲物を追って飛び出して来た生き物を視認したライは、その禍々しくも異質な姿に吃驚するしかなかった。
成人男性の半身ほどの体躯は大型の猿を想起させるが、全身を覆う漆黒の体毛が不規則に揺らめく様は、とてもではないが、この世のものとは思えなかった。
(黒い体毛? いや、あれは瘴気だ……瘴気を纏った妖か!?)
背筋を駆け抜けた戦慄と悪寒に身体が強張る。
しかし、その停滞を意志の力で捻じ伏せたライは、軌道を修正したばかりの刃で謎の生物を薙ぎ払う。
『シャァ──ッ!』
確かな手応えと共に断末魔の悲鳴が空気を震わせ、漆黒の妖は、自らを形作っていたモノを撒き散らしながら忽然と消え去るのだった。
「一体全体なんだったんだ、あれは? この世界に魔物が実在するなど聞いたこともないが……」
そんな呟きが自然と唇から零れ落ちたが、その疑問への答えをライは持ち合わせてはおらず、暫し茫然と立ち尽くすしかなかったのである。
◇◆◇◆◇
「こら、じっとしていろ。傷の手当てができないだろうが」
「キュゥ~~~」
幸いにも湖の水は飲んでも問題ない程度には上質な代物であり、小さな擦り傷を負った天馬の赤子の手当てに役立った。
とは言え、手持ちの常備薬は基本的に人間が使用することを前提としている。
(神獣に人間用の薬が効くものかね。まぁ、何もないよりはマシだろうが……)
半信半疑ではあったが、慣れた手つきで傷口に軟膏を塗布したライは、真新しい布地を当てて包帯を巻いていく。
人間の言葉を理解できるのかは判断が難しいところだが、軽く叱責されてからの子天馬は、キュイ、キュイ、と小さな鳴き声を漏らしながらもじっとしている。
腕の中の小さな命の温もりに心を癒されて口元を綻ばせるライだったが、完全に陽が沈めば、夜の帳が下りて住処へ帰るのが困難になるだろう。
だから、名残惜しいと思いながらも、穏やかな声で促してやる。
「よし。よく我慢したな……治療は終わったぞ。飛べないほどの重症ではないから、またぞろ、危ない怪物に襲われないうちに住処へ帰りな」
しかし、鳶色の小さな瞳でライを見つめていた子天馬は、飛び立つどころか逆に身体を擦り付けてくる始末。
どうやら家路に就く気は毛ほどもないらしく、ライは苦笑いするしかなかった。
「やれやれ……困ったチビちゃんだ。見知らぬ人に懐いてはいけません、とパパやママから教わらなかったのかい? まぁ『袖振り合うも他生の縁』というからな、一夜の野宿を共にするのも悪くはなかろうさ」
そんな軽口を叩きながら携帯袋を漁るライが上質な干し肉を取り出すや、子天馬は目を輝かせて夢中で食いついて来た。
「そんなに腹が減っていたのか? まだ肉はあるから慌てなくていいぞ」
夢中になって干し肉を咀嚼する子天馬を窘めながら、スキットルボトルに入ったウィスキーを口に含んで風味を楽しむ。
まだ宵の口とはいえ、陽が山陰に沈んだからか、湖面を渡る風もやや熱を失ったかのように感じられる。
しかし、ライは暖を取る為の焚火は使わなかった。
森や湖畔には人が暮らしている形跡はないし、周囲にも人の気配は感じられないとはいえ、王家の直轄地ともなれば警備で巡回している衛兵がいるかもしれない。
見咎められて不審者扱いされては堪らないし、揉め事に巻き込まれるのも真っ平御免だ。
そう思ったからこそ、敢えて火は焚かなかったのである。
ライが一夜の寝床に選んだのは湖の南東側にある岩場の窪地で、人ひとりが寛げる程度のスペースがあり、周囲を囲む岩壁が夜気を防いでくれるため、野宿するには絶好の場所だといえる。
その窪地に腰を下ろし、膝の上で機嫌良さげに食事をする子犬サイズの天馬の頭を撫でてやりながら、一口、また一口とウィスキーを喉に流し込むライは、奇妙な感傷を覚えて短い吐息を漏らした。
(さっき遭遇した得体の知れない妖モドキや、コイツのようなファンタジー小説の生物が実在しているのだから、この世界は前世の地球とは別物だと考えるべきだろうな……)
十年という年月が長いか短いかは人それぞれだろうが、この世界と前世の地球には何かしらの関連があるのではないか、という疑念に明確な結論が出た以上、この先の人生は途方もなく長いものになる……。
そんな諦観にも似た切ない感傷に胸を締め付けられたライは、無性に物寂しくなってスキットルに残る琥珀色の酒精を一気に呷った。
(さて……この世界にしがみ付かなければならない最後の理由もなくなったか)
短絡的で愚かな妄想が心の奥に潜む闇から忍び寄って来る。
そんな負の感傷を頭を振って打ち消すと、久しぶりに口にしたアルコールの所為で酔いが廻ったのか、心地良い眠気に襲われた。
何と言っても、この二週間ほどは揺れる船旅での睡眠を強いられ、挙句に今日は一日中歩き廻ったのだから、如何に強靭な傭兵とはいえ疲れていないわけがない。
ふと見れば、胡坐座になったライの上で身体を小さくした子天馬は、腹がくちて満足したのか気持ち良さげに寝息を立てている。
少々図々しい珍客に苦笑いしながらも、子天馬を抱いたままマントで身体を包んだライは、その小さな温もりに誘われるかのように眠りへ落ちるのだった。