第五話 母と娘 ~アルテナの苦悩~
(無礼にもほどがあるわ……殿下が御優しいのをいいことに、あの無頼漢っ!)
炊き出しの手伝いを終えて屋敷へ帰る道すがらも、アルテナは未だに収まらない怒りを持て余していた。
彼女自身国外へ出た経験は乏しく、精々がオケアヌス連合内の諸国を親善訪問する王族に同行した程度のものだから、報酬と引き換えに戦場で命の奪い合いをする傭兵という人種と相見える機会はなかったが、想像以上に鼻持ちならない存在だと知って憤りは募るばかりだ。
とは言うものの、今宵は年に一度きりの『月下の契り』が執り行われる日であり、気分が悪いからといって、当代の巫女を務めるアルテナが儀式に出ないというわけにもいかない。
(気持ちを落ち着けないと……大切な儀式を台無しにはできないのだから)
昂る感情を顔には出さないようにしながら足を速めたアルテナは、一気に市街地を突っ切るや、内壁の正門を潜った。
城塞都市最奥には、小ぢんまりとしているが最低限の機能を備えた王城と騎士団の詰所、そして爵位を持つ家臣団の屋敷が密集した特別区があり、食料など日常品の搬入以外で平民の出入りは許されてはいない。
オルトハイネ家は家臣団の中では新参に類する家だが、海賊団の討伐で功を成したグレアムが男爵に叙爵され、同時に騎士団長職を拝命したことで地位を確固たるものにした、という経緯がある。
それ故に王族の守護と王都防衛を含む軍務は唯一の常備軍である騎士団の責務であり、危急の時に備えて騎士らの邸宅と詰所は正門の直ぐ傍に置かれていた。
とは言え、長く平穏な時間を享受してきた海洋諸国家に於ける軍事力の優先度は低く、騎士団といっても形骸化している国家が多いのも事実だ。
それはエレンシア王国も例外ではなく、対外的には常備軍だと標榜してはいるが、内情は僅か百名の団員で構成されたものに過ぎず、治安維持のための警察組織と大差ない代物だった。
エレンシア騎士団は正騎士の称号を持つ団員が六十名と準騎士四十名で構成されており、付随する形でアルテナ率いる天馬騎士団三十名を含めて護国の任に就いている。
天馬騎士団は女性騎士のみで編成された珍しい戦力であり、中央大海でも希少なペガサスの生息域であるエレンシア王国でしか見られない特殊部隊だ。
しかし、その機動力を生かした偵察任務や、国事に於ける儀仗隊として重宝される反面、騎士が女性ばかりという所為もあり、お世辞にも戦時の戦力としては期待されていないのが実状だった。
※※※
「お帰りなさいませ、お嬢様。湯浴みの支度は整っております」
帰宅したアルテナを出迎えたのは、侍女のウェンディ・ロンだ。
アルテナの父である当主のグレアムは騎士道を貴ぶ生粋の武人であり、貴族ではあるが華美な生活とは無縁の生き方を貫いている。
然して広くもない二階建ての屋敷で生活しているのは、彼以外は妻と娘、そして十年も前に愛妻のエーディンが保護したウェンディの四人だけだった。
つまり、ウェンディはオルトハイネ家唯一の使用人ということになる。
ウェンディは漁師の一人娘だったが、漁に出た両親を嵐で喪ってからは身寄りのない孤児となり、置き引きやスリで糊口を凌ぐ生活を余儀なくされた不幸な少女だった。
挙句の果てに他国から交易に訪れた商隊の荷を狙うも失敗して捕らえられてしまい、他の浮浪者らへの懲戒にとリンチされそうになったところを、グレアムの妻であり、アルテナの母でもあるエーディンに救われたのである。
それ以降、オルトハイネ家に家人として迎えられたウェンディは心を入れ替えて忠節に励み、今では重い病に臥せっているエーディンの代わりに家事の一切合切を取り仕切るまでになっていた。
「ありがとう。三時間後には出るから礼装の用意もお願いね」
「はい。装飾品に至るまで全て手入れは万全です」
いつもながらに抜かりないウェンディの仕事ぶりに感謝するばかりのアルテナだが、一転して不安げな口調で訊ねる。
「お母様のお加減はどう? 食欲は戻られたのかしら?」
その問い掛けに普段は闊達なウェンディも表情を曇らせるしかなく、左右に小さく首を振って敬愛する主の問いを否定した。
「いえ……頻繁に激しく咳き込まれて、粥やスープでさえ喉を通らないありさまです……お医者様が処方して下さるお薬も効果は薄く……」
そう告げるのが精一杯だったらしく、両手で顔を覆ったウェンディは咽び泣く。
出逢ってから十年、実の妹同然に関係を育んで来た少女が泣き伏す姿は痛々しくて見るに堪えず、アルテナは震える身体を抱き締めてやった。
「あなたにばかり辛い仕事を押し付けて御免なさい……でも、私がお部屋に入ることを、お母様は許しては下さらないから……」
「そんな……勿体ない御言葉……アルテナ様ぁ……」
エーディンが患っているのは現代でいうところの肺結核なのだが、この世界では病気に関する知識も医療技術の発展も遅れおり、死病と称される病は多く存在している。
だから、効用も定かではない怪しい薬を高価で売りつける似非医師は後を絶たないし、挙句の果てには祈祷の類にまで縋らねばならないというのが一般的な医療の現状だった。
その一方で神聖ヴィエーラ教国は奇跡の御業である『治癒魔法』を駆使する術者を多く擁しており、他国からの要請に応じて治療団を派遣してはいるのだが、その対価は余りにも高額で、誰もが恩恵を受けられるというものではなかった。
そんな現実が悔しくて仕方がないが、辺境のエレンシアまで治癒魔法士を招くための高額な対価など一介の騎士に用意できるはずもなく、苦しむ母親になにもしてやれない己の無力さをアルテナは嘆くしかなかったのである。
※※※
敬愛するアルテナの温もりに包まれて落ち着きを取り戻したのか、ウェンディが泣き止んだタイミングで二人は抱擁を解いた。
すると、いかにも申し訳なさそうな顔をしたウェンディが口を開く。
「みっともない真似をして申し訳ありませんでした……直ぐに湯浴みをなさいますか? それとも、なにか軽いお食事でも御用意いたしましょうか?」
「炊き出しで御相伴に与ったから食事はいらないわ。お母様に御挨拶するのが先ね……湯浴みと着替えは、その後でいいわ」
アルテナの言葉に頷いたウェンディは恭しく一礼して立ち去ろうとしたが、『あっ』と小さな声を上げるや、失念していた出来事を報告した。
「丁度お昼ごろでしたが、旦那様が御戻りになられました。ですが、何かお探し物をなされただけのようで、直ぐにお出かけになられました」
「そう……七日ぶりかしら。お母様のお見舞いはなさった?」
苦みを伴う不快な感情を呑み込んだアルテナは、努めて平静を装って訊ねたが、ウェンディは痛苦に満ちた顔を左右に振るのみだ。
王家への忠節心が篤い武骨な父親の性格は分かっているつもりだが、死病に冒されて苦しんでいる妻に対する酷薄な態度に接するたびに、口を衝いて出そうになる恨み言をどれほど吞み込んで来たことか……。
(病床のお母様を気遣う素振りすらないなんて……余りにも冷たすぎるわ)
強い憤懣が胸の奥で渦巻くが、安易に愚痴を零せばウェンディにも辛い思いをさせるだけだ。
それが分かっているだけに、喉まで出掛かった怨嗟の言葉を辛うじて呑み込んだアルテナは、淡々とした口調で告げるのだった。
「ミハイル王子とエドガー王子の遠征が迫っているから御忙しいのよ……いいわ、王城で御会いする機会もあるから、私から話をしておくわ」
敬愛する主の言葉に安堵したのか、一礼して踵を返したウェンディを見送ってから、アルテナは母の寝室へ向かった。
然して広くもない邸宅の一階最奥にある飾り気も何もない木製の扉。
そこが、死病に憑りつかれて余命いくばくもない母親エーディンの寝室だ。
「お母様、アルテナです。炊き出しから戻りました。お加減は如何ですか?」
一拍の間があって返って来たのは記憶にある美しい声ではなく、苦しげな咳と弱々しい掠れ声だった。
「ごほっ、ごほ……お、お帰りなさい……くぅッ……」
「お、お母様ッ!? 大丈夫ですか!?」
「は、入ってはいけません! あなたはルディアス殿下の近習なのですよ」
愛して已まない母親の痛ましさに堪りかねたアルテナは、思わず扉のノブを掴んでいたが、強い叱声に打ち据えられて立ち尽くすしかなかった。
母も嘗てはエレンシアに仕えた一騎当千の天馬騎士だけに、王家に対する忠節には人並み以上のものがある。
それは死の床に伏していても、些かも変わりはしない。
その想いが為せる業なのか、先程までの弱々しさが嘘だったかのような凛とした声に心を打たれたアルテナは、美しい顔を痛苦に歪めて立ち尽くすしかなかった。
「ルディアス様の御命を危うくするような迂闊な真似をしてはいけません」
「で、ですが、お母様!」
尚も愚図る愛娘を諭すかのようにエーディンは言葉を紡ぐ。
「肉親の情に流されて後々に悔いを残すなど騎士のすることではありません。私を気遣ってくれるのは嬉しいわ。でもね、娘の夢を壊したくはないの……後生だから聞き分けてちょうだい」
母として娘に贈る慈愛と、先達が後進へ託していく矜持が宿る言葉。
その必死の想いを無下にはできないアルテナは、悲泣の声を漏らすしかなかったのである。