第四話 運命との邂逅 ③
久藤悠也として生きた前世にも、我欲にまみれた碌でもない権力者は掃いて捨てるほどいたし、そんな輩を上司にもった部下の悲哀は、誰よりも身に染みて知っているつもりだった。
しかし、支配者層にとって都合の良い階級制度に縛られたこの転生世界の腐敗ぶりは前世の比ではなく、その理不尽さに憤慨し、何度痛哭の涙を流したことか。
『強欲で無能、そして慈悲の心を持たない王族や貴族らが民を殺す』
そう嘆いていたのは、この世界で父親として縁を結んだ人だ。
その言葉を自らへの戒めとして胸に刻んでいるからこそ、譬え相手が未熟な少年だとはいえ、胸の奥底から込み上げて来た苦い想いを抑えられなかったのかもしれない。
だから、微かに口元を歪めたライは、如何にも人の好さそうな王子へ皮肉交じりの嘲弄を浴びせたのである。
「王子様御自ら給仕をして悦に入っているようでは、この国の先行きが案じられますな。王族ならば、もっと他に為すべきことがあるでしょうに……政は遊びではない。その程度のことも分からないのならば、いっそ何もしない方が、民にとっては幸せかもしれませんぞ」
叩きつけた言葉の威力は絶大であり、周囲の空気が凍りついたかのような重苦しいものへと変貌する。
当然だが、臣下である騎士らにとって得体の知れぬ余所者から主が侮辱されるなど到底赦せるものではないし、その想いはルディアスを慕っている民衆たちも同じだった。
だから、護衛の騎士らは元より、シスターや近くに居た領民たちまでもが、怨嗟を滲ませた険しい視線をライへと向けたのである。
(これは……思ったよりも、この王子様は慕われているようだな……)
純粋な怒りの熱量を肌で感じたライは『大人げない真似をしたか』と自省したが、今更謝罪して無かったことには出来そうにもない。
そして、その杞憂は直ぐに現実のものになった。
「卑しき流れ者風情が何たる口の利き方か! 王子殿下に対する無礼な振る舞い、断じて赦すわけにはいかない!」
真っ先に叱声を上げたのは、側近らしき赤い騎士服を着た女騎士だ。
真紅の瞳には激しい怒りが燃え盛っており、乗馬服由来の騎士服姿と相俟って、まるで歌劇の舞台から抜け出て来た男装の麗人を想起させたが、その隙のない所作から、剣の腕前も相当なものだとライは看破する。
すると、流麗な動作で抜剣した女騎士殿が、鋭い切っ先を突き付けて来た。
(細剣……レイピアよりも刀身が厚いな。軽量のロングソードか……油断していると串刺しにされかねないが……さて、どうするか……)
挑発的な物言いをした己に非があるのはライも分かっていたが、黙って斬られてやる義理もない。
況してや、幾ら腕が立ちそうだといっても、所詮は女の細腕だ。
贔屓目に見ても、自分が劣るとは思えなかった。
となれば、これ以上騒動を大きくするのは拙いと思い、まずは穏便に事態を収めるべくライは口を開いた。
「確かに私の言い方も悪かったが、だからといって、そう殺気立つこともないだろう。民衆の上に立つ為政者が、大切なことを履き違えた粗忽者では国家が亡ぶ……私は、そう言いたかっただけだ」
ライ自身は丁寧に説明したつもりだったのだろうが、その軽口ともとれる物言いでは、却って火に油を注ぐ結果となってしまう。
「お、おのれッ! この痴れ者めが! 重ね重ねの無礼っ! 赦さんッ!」
激昂した女騎士が不埒者を串刺しにせんとした瞬間だった。
「待って! アルテナ! 子供たちも見ているんだ。剣を収めてくれ!」
凛とした声で静止の命を下したのは、他ならぬルディアスだった。
◇◆◇◆◇
『王族ならば、もっと他に為すべきことがあるだろうに』
金髪碧眼の美青年が発した言葉が胸に突き刺さる。
それは、ルディアスが探し続けている答えに繋がる問い掛けだったから。
民の困窮を目の当たりにしながらも、有益な打開策のひとつも持たない己の無力さを嘆くばかりの日々。
申し訳なくて、苦しくて、いっそ平民に身を落とせればどれほど楽か、などと益体もないことを考えながら、何度眠れない夜を過ごしたことか。
懊悩する中で藁にも縋りたいほどに切羽詰まっていたからこそ、もしかしたら、切望して已まない解決策の手掛かりを得られるのではないか……。
そうルディアスは思ったのだ。
他人はそれを甘い幻想だと嗤うだろうが、どんな些細なことでも良いから光明を得るための切っ掛けが欲しい……。
それが、偽らざるルディアスの渇望だったのである。
だから……。
「待って! アルテナ! 子供たちも見ているんだ。剣を収めてくれ!」
大声で信頼厚き騎士団長を制したルディアスは、戸惑うアルテナの前へ歩み出るや、意外そうな顔をしている青年と向き合うのだった。
※※※
「連れの者らの失礼な言は、どうか私に免じて御許しいただきたい。私はこの国の第三王子 ルディアス・エレンシアと申します」
自ら名乗りを上げたルディアスは、腰を折って深々と頭を垂れた。
末弟とはいえ、一国の王子が流浪の無頼漢に頭を下げるなど有ってはならないことだが、まさに『藁にも縋る思い』のルディアスに、体裁を気にしている余裕などないに等しい。
血相を変えたアルテナや配下の女騎士たちからは『お止めください!』と諫められ、炊き出しに集っている民衆の響動めきが重く圧し掛かっては来たが、それでもルディアスは下げた頭を上げようとはしなかった。
そして、切望する想いの丈を喉から絞り出したのである。
「初対面にも拘わらず、このような不躾な申し出は御迷惑と思いますが、是非とも御指南頂きたいのです。今の私が為すべきこととは……どうか、どうか!」
この思いもよらぬ展開にライは面食らうしかなかったが、頑なに頭を下げ続ける王子から伝わって来る、切羽詰まった想いだけは朧げながらも感じ取れた。
同時に、このルディアスと名乗った王子が、貧苦に喘ぐ領民を救いたいと本気で切望しているのだと理解する。
(下賤な傭兵に頭を下げる王子様など前代未聞だが……どうやら、見る目がなかったのは俺の方だったようだな)
世間知らずのボンボンの道楽だと早合点した自分にも非がある。
そう認めたライは、素早く跪拝した。
「どうか顔をお上げください。王子殿下から過分な礼を尽くされるなど、裏世界の住人には少々荷が重うございます。さぁ……」
努めて穏やかな声音で促すと、恐る恐るといった風情で王子が顔を上げた。
「御無礼をいたしました。私は傭兵稼業を生業としている……ライと申します」
「ライ……殿?」
「敬称は不要ですよ、殿下。ただのライ……それだけです」
どこか含みのある台詞に引っ掛かるものを感じたが、今のルディアスに漠然とした疑問を気にする余裕はなかった。
だから、ライに触れんばかりに距離を縮め、葛藤する想いに急かされるままに懇願したのである。
「どうか御教授いただきたい! 王家末弟とはいえ、私が民のために為すべきこととは? どうすれば民を幸せに出来るのでしょうか?」
だが、返って来た言葉は、微かな希望に水を差すだけの素っ気ないものだった。
「さて……傭兵ごときにはどうにも荷が重い御下問ですな。私は今日この国へ来たばかりの身ですから、中央大海の世情や御国の事情には疎く、とてもではありませんが、殿下の御希望に添える答えを持ち合わせてはおりません」
「そうですか……」
その力のない言葉がルディアスの落胆の大きさを表しており、悄然と肩を落とす姿は酷く哀れに見える。
(おいおい……これでは、まるで俺が悪者じゃないか……)
予期せぬ罪悪感に見舞われたライは大いに閉口したが、このまま知らぬ顔をして立ち去るのも憚られてしまう。
だから……。
「殿下……人間は誰もが為すべきことを成す責任があるのです。炊き出しの賄いなどは傭兵の私にでも出来ましょう。ですが、貴方様には、もっと大きな事を成せる力がある……それを忘れないでください」
「私に……無力な私に、そのような力があるとは……」
「今はまだ殿下の理想は遠く彼方にあって影すら見えないのかもしれない。でも、一途に努力を続ければ……民を想う気持ちさえ忘れなければ、きっと届きますよ。殿下が渇望して已まない御自身に」
そう告げたライは、手にしていた小袋をルディアスへ手渡した。
「こ、これは……」
その貨幣特有の金属が擦れる音と重みにルディアスが戸惑っていると、いつの間にか立ち上がったライは、柔らかい笑みと言葉を残して踵を返す。
「難しく考えることはありませんよ……何が一番大切なのか、それさえ間違えなければいいのです。それでは、私はこれで。そいつの処分は御任せいたしますので、どうか、よしなに……」
その言葉を最後にライは振り返りもせずに歩き去って行った。
「ルディアス王子……何事もございませんでしたか?」
憂い顔のアルテナが気遣うが、ライから手渡された色褪せた小袋を見つめているルディアスは無言のままだ。
しかし、ほんの数秒もしないうちに顔を上げるや、シスターアンジェリカに歩み寄り、預かった小袋を差し出す。
「アンジェリカ。これは、炊き出しや孤児らを養う資金の足しにさせてもらおう」
思ってもみなかった提案に敬虔なシスターの表情が嫌悪に歪んだが、ルディアスは委細かまわずに言葉を続ける。
「聖職者である貴女方からみれば、これは他人の血で汚れた不浄の塊なのかもしれない……でも、同時にあの傭兵が己の命を懸けて勝ち取った貴重な財貨でもあるんだ。それを困窮している人々のために無償で差し出したのだ……その尊い気持ちを無にするのは忍びない……どうか私に免じて受け取っては貰えないかい?」
王子自らの懇願とあっては拒絶することなどできない。
不承不承ながらも、アンジェリカはルディアスの言葉に頷くのだった。
(また会えるかな……うん。きっと会える……そんな気がする)
すでに小さくなったライの背中を見つめながら、根拠もない予感に胸を弾ませるルディアスだった。