第三話 ミソッカス王子 ルディ ②
「実の弟君への余りにも無慈悲な物言い! お取消しください、エドガー殿下!」
鈴の音を思わせる澄み切った美声には似つかわしくない怒気を滲ませた強い叱声を上げたのは、ルディアスの背後に控えていた女性騎士だった。
腰まで伸びた唐紅の長髪を襟首辺りで束ねた美女から燃えるような朱眼で睨みつけられれば、常日頃は王族の権威の上に胡坐を掻いているエドガーも怯まざるを得ず、不快げに顔を歪めて舌を弾くしかない。
なぜならば、この女性はアルテナ・オルトハイネといい、エレンシア王国騎士団長グレアム・オルトハイネの一人娘であると同時に、自身も天馬騎士団の指揮官として上級騎士にも名を連ねている将のひとりであり、その発言力には無視できない影響力があるからだ。
生真面目で融通が利かない娘だと父親を嘆かせてはいるが、強い正義感を信条とした清廉潔白な人柄を信奉する者は多く、王族とはいえ粗略な対応が許される相手ではなかった。
しかし、王の座を手にするか否かの瀬戸際にあるエドガーにしてみれば、そんな重臣の諫言ですら煩わしいものでしかなく、家臣の分際で生意気な、という憤りを抑えられなかったのも無理はないだろう。
「出しゃばるなっ、アルテナ! いかにグレアムの娘とはいえ、王家の正統に関わる大事に口を差し挟むなど不遜であろう! 第一、本当のことを詳らかにしたからといって何が悪い? こ奴が妾腹の出来損ないなのは事実ではないか!」
だから悪びれもせずに侮辱の言葉を重ねたのだが、その愚行はアルテナの反発を買っただけだった。
「敬愛する王家に関わる大事だからこそ意見申し上げているのです! 本来ならば御兄弟で力を合わせなければならぬときにも拘わらず、次期王位を巡って争うだけでも言語道断の愚挙であるのに、その憂さ晴らしに弟君の出自を辱めるなど、人として恥ずべきことだと思わないのですか!」
柳眉を吊り上げて語気を荒げるアルテナが一歩足を踏み出せば、遠慮会釈もない批判を浴びせられて激昂したエドガーも椅子を蹴立てて立ち上がる。
「黙れッ、黙れッ、黙れぇ──ッ! 何も知らぬ小娘の分際でつけあがるのも大概にしろッ! 騎士団を名乗ってはいるが、所詮は支援任務ぐらいでしか役に立たない御飾りのようなものではないか! 偉そうに意見するなど百年早いわッ!」
二人の距離が詰まり、まさにエドガーの右手が帯剣している剣の柄に掛かろうとした瞬間、アルテナを庇うように前に出たルディアスが謝罪の言葉を口にした。
「無礼の段は私が謝罪いたします! ですから、どうか御気を御鎮めください! 一時の怒りで家臣を無礼討ちにしたとあっては、エドガー兄様の御名にも傷がつきましょう!」
こうなっては穏便な話し合いを望むのは不可能だと判断したルディアスの咄嗟の行動だったが、エドガーにとっても、まさに渡りに船の申し出だったといえる。
(腹立たしいが愚弟の言う通りだ。激昂した挙句、家臣を無礼討ちにしたとなればミハイル派からの非難は避けられないだろうし、王座を巡る争いで不利な立場へと追いやられるのは火を見るよりも明らかだ)
となれば残された選択肢は、いかに腹立たしくても我慢するしかない、の一択なのだが、ルディアスが先に頭を下げたことで面子は保てた……。
そう判断したエドガーは、厄介払いをするべく声を荒げた。
「今回だけは見逃してやるが次はないぞ、ルディアス! お情けで与えている食い扶持を失いたくなければ、その無礼な女を連れて、さっさと出ていくがいい!」
しかし、そう吐き捨てて背を向けたエドガーに怒り心頭に発したアルテナは尚も詰め寄ろうとするが、そんな彼女をルディアスが懸命に押し止める。
「落ち着いて、アルテナ! これ以上の説得は無理だ! お願いだから引いて!」
「ですが、こんな理不尽が罷り通るのでは、それこそ王家の行く末が……」
その憤懣やる方ないアルテナの言葉を耳にして表情を歪めたエドガーは、まるで溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように嘲笑の言葉を浴びせた。
「王家の未来などと女の身に余る大層な物言いをしていては、ますます嫁の貰い手がなくなるぞ! もしも行き遅れて焦っているのならば、私の愛妾にしてやってもいいぞ? ただし、もう少し女らしい慎みを身につけたならば、だがな!」
「くっ! 余計な御世話です! は、離して下さい! ルディアス様!!」
「駄目だ、アルテナ! 今は我慢してッ!」
挑発されて激昂するアルテナを懸命に諭すルディアスだったが、騒ぎを聞きつけて飛び込んで来た護衛の騎士らによって部屋の外へと追いやられ、実兄との会談は物別れに終わってしまう。
(海賊討伐の日は間近に迫っているのに……一体全体どうしたらいいんだ……)
暗澹たる未来しか思い描けない現状に、ルディは無力な己を嘆いて打ち拉がれるしかなかったのである。
◇◆◇◆◇
「申し訳ありません……私の所為でルディアス様の努力を無にしてしまい……」
エドガーの私室を追い出されたルディアスとアルテナは、石造りの回廊を抜けて人気のない中庭まで戻ってきていた。
間もなく日付も変わろうかという時刻になっているが、天空の頂から世界を照らしてくれている月光のお陰で、歩くだけならば不自由はしない。
しかし、自らの短気の所為で敬愛する王子に迷惑を掛けてしまったと自責の念に駆られているアルテナにしてみれば、こんな情けない姿を詳らかにしてしまう夜空の女神が恨めしく思えて仕方がなかった。
(エドガー様の侮辱が度を越えていたとはいえ、懸命に耐えて説得なさろうとしておられたルディアス様の邪魔をしてしまうなんて……)
悔やんでも悔やみきれずに臍を噛むしかなかったが、返って来た言葉は落胆する彼女を気遣う温もりに満ちていた。
「私を庇ってくれたのだろう? ならば君が謝罪する必要はないさ。それよりも、嫌な思いをさせてしまったね……よく耐えてくれた……礼を言わせてほしい」
そう言って真摯に頭を下げる第三王子を目の当たりにすれば、アルテナは目頭が熱くなるのを抑えられなくなってしまう。
「も、勿体ない御言葉……」
溢れた感情で言葉を続けられずにいると、ポンポンと軽く背中を叩かれた。
「そんなに畏まらないでおくれ、アルテナ。確かに君は後見役兼護衛武官だけどさ、実の姉に等しい大切な女性だと私は思っているよ……だから泣かないで」
(この御方は、いつだってこうだ……他者への気遣いを忘れず、誰にでも優しい)
アルテナは込み上げて来る感慨で胸が一杯になる気がした。
その想いは側近であるが故の身贔屓などではなく、ルディアスの為人を知る多くの者たちが共通して懐くものに他ならない。
だが悲しいかな、それは誰しもが認める、といったものではないのが実情だ。
兄王子らは元より重臣や貴族らからも『ミソッカス』と嘲られ、王子とは思えない不当な扱いに甘んじているのが、ルディアスにとっての現実なのである。
その事が腹立たしくて仕方がないアルテナは、これまでも幾度となくルディアスを庇っては、他の貴族や官僚らと衝突を繰り返していた。
確かに武術の技量も政治への造詣も二人の兄には遠く及ばないとはいえ、一回りも歳が離れていれば、経験から身に付く能力に差が出るのは当然ではないか。
寧ろ、二十代後半で経験も豊富な兄王子らと、未だ十五歳になったばかりの末弟を比較する方が如何かしているし、その幼い王子が国の将来を憂い、不仲な実兄らの関係を修復せんと懸命に努力している姿は称賛に値する。
そう、アルテナは信じて疑ってはいなかった。
(ならば……これまで以上に身を粉にして御仕えしなければならないわ)
何度も背中を撫でられているうちに落ち着きを取り戻したアルテナは、この優しい王子の為にも、精一杯の忠義と献身を捧げようと誓いを新たにする。
「御見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした……もう大丈夫ですわ」
謝罪して微笑むと、ルディアスは安堵したように息を吐いて破顔した。
だが、すぐに少々困ったかのような不自然な笑みを浮かべたかと思うと、突拍子もない質問をしてアルテナを困惑させるのだった。
「そ、その……アルテナが結婚しないのは、ひょっとして、私の所為なのかな?」