映らない鏡
鏡に閉じ込められたこるとととるかは双子の幽霊です。
こるとが少しだけお兄ちゃんでとるかが少しだけ弟。
ふたりはいつも一緒でした。
とるかは何でもこるとの真似をしていました。こるともそれを止めようとはしませんでした。
鏡があるのは昔病院だった建物の3階と5階の間。
そこは寂しい所で、味気ないリノリウムの階段が上と下に向かってあるだけ。そりゃそうです、彼らがいるのは階段の踊り場なのですから。
しかも、今は使われていない病院だから脅かす相手もいなければ、交流を深める他の幽霊仲間もいません。先輩幽霊の一人や二人ひょろっと通りがかって、そこを離れられない二人に「やあ」と声を掛けてくれてもいいものですが、しかしこるとが幽霊になったその日からそんな事は一度だってありませんでした。
階段の近くには窓もなく、だから今日が雨なのか、晴れなのか、雪なのか、それから今日は夏なのか春なのか秋なのかもわかりません。こんな古い建物なのにネズミの足音一つせず、階段の中腹では二人の話声だけが今日も反響しているのです。
だから、二人はお互いが唯一の存在なのです。
生を終えた後、新しい存在となり今に至るまで二人はずっと唯一の存在でした。
その男が来るまでは。
男は真っ黒い服を着ていて、それから大きな蝙蝠傘を持った中年の幽霊でした。
何で幽霊だと分かったかと言うと、男の姿は鏡に映らなかったからです。
男はこるとに言いました。
「この場所の工事が決まったんだ。悪霊扱いされたくなかったらさっさとここを出るといい」
こるとは突然の事に驚きながら男に言い返しました。
「でも、僕らここに閉じ込められているんだ。
とるかは鏡から出てこれないんだよ」
鏡の向こうではこるとと同じ顔がそれを肯定するように情けなさそうな表情で男に訴えています。
とるかを置いていくなんて事はこるとには思いつきもしませんでした。
「だから僕らはここから離れる事が出来ないんだ」
男はこるとの言葉に呆れた様子ではあ、と溜息を吐きました。
「何を言っているんだよ、こると。よく見てみろ、それは」
突然、誰かが男の体に手を伸ばすとものすごい勢い力で彼を階段の下へと突き落としました。
「とるか!何をしているんだ!!」
こるとはびっくりしてとるかに詰め寄りました。けれど、とるかは怒られているのにまるで自分のことではないような顔をしています。それどころか、まるでこるとがやったかのようにとるかは言うのです。「こると!何をしているんだ!!」
こるとは急に怖くなりました。
とるかがまるでとるからしくない表情を浮かべ自分を見ているのです。
そこにいるのは、とるかと言うよりは、まるで___
こるとは恐ろしくなって鏡から離れます。
すると、とるかも同じように鏡から離れました。
一歩、二歩、右足と左足。同じように、自分と同じように足を動かし顔を引きつらせて自分を見るその姿にこるとは悲鳴をあげて、階段の上へ、暗闇の中へと姿を消していきました。
そこには割れた照明灯があり、その裂けたガラスから侵食した雨水がぽたりぽたりと静かに真下に置かれた手術台のマットに染みを作っていました。
「おじさん、まだいたんだ」
部屋に入ってきた男を見ずにこるとは言いました。
「いきなり突き飛ばすなんてひどい奴だな、お前の弟は」
「いいんだよ、気を遣わなくて」
男は部屋の隅っこで膝に顔を埋めているこるとの小さな頭を見下ろすと、その隣に腰を下ろしました。
二人はそれからしばらく黙っていました。そうしてこるとが先に口を開きました。
「教えてもらったんだ、誰かに。
幽霊は鏡に映らないって。だったら、__僕は死んでるから、あれは弟なんだって。とるかなんだって思ってた。とるかも死んじゃって、それであいつは鏡に閉じ込められたんだって。
でも、そうじゃないんだよね」
こるとはようやく顔をあげ、男を見ました。
「死んだのは、僕だけだったんだよね」
男はじっと手術台を見つめたまま頷き返しました。
「ねぇ、なんで僕は幽霊なのに鏡に映ったの?」
「たまにはそういう奴もいるさ___お前は特別だったんだ」
白い線が天井からすっと落ちていき視界から消えると手術台の上の水溜まりでぴちゃりと音を立ちました。その線の跡を目で追いながらこるとは独り言のように呟きました。
「今日は雨だったんだね」
男は同じ物を同じように見つめながら返しました。
「そうだよ、今日は一日中雨だったんだ」
夜空に星々が散らばり、月はまるっきり姿を消していました。
廃病院は人里離れた山の中にあったので、地上は真っ暗で星がよく見えます。
「もう俺もここを出るよ」
屋上にぽつんと一人佇む小さな背中に向けて男は言いました。
でも、彼はまるでその声が聞こえていないように鉄柵に両手をかけて呆然と空を見上げています。
その黒い瞳の中には幾つもの星の光が、まるで鏡にでも映されているように輝いています。もしくは星自身が閉じ込められていたのかもしれません。
「あの子が悪いんだよ」
虚ろな表情で星を見上げる彼は空に向かって語り掛けているかのように言いました。
「あの子が悪いんだ。僕に気づかないんだもの」
いつだってこるとは双子の弟の事ばかり。
「毎日毎日泣いてばっか。僕らに毎日なんて言葉おかしいかもしれないけど本当にずっと泣いてばっかり。僕、もう泣いてるのは飽きちゃった」
だから嘘をついたんだ__どこか寂しげな表情を浮かべる彼に掛けられる言葉などありませんでした。
彼はここから動く事のできない幽霊なのだと男には分かっていたからです。だから男はずっと黙って彼の話を聞いていました。
「最初はちっぽけな事だと思っていた。でも、いつからか僕は嘘を守るようになっていた。
何十年も騙し続けていた。いつか嘘が消えるぐらい長い年月が経てばって自分自身を偽って。
____でも、僕はとるかじゃない。
とるかは嘘なんかついたことなくて、正直で真っすぐで、ちょっと頼りない__そんな、大切な弟なんだもの」
言葉が途切れ、その隙間を埋める様に星がまた一段と光り輝きます。男もそれを見上げふと、昔聞いた話を思い出しました。隣り合う星もまた、何光年という距離を隔てている決して交わることのない関係なのだと。それはまるで人と幽霊の関係のようだ、と。「じゃあ、ずっと歩き続けたらいいの?」話を中断させた幼い子供は重ね重ね尋ねます「なんこうねんという長さを歩いて行ったらいつか会えるの?」語り手はきょとんとした顔をして、それから彼に必要な昔話の教訓を与えたのでした。
男が星から目を離すと、少年の方も星を見ていませんでした。
「僕は君が嫌いだ。僕をまた一人にした。
どこへでも好きなように行ける君が。
僕が欲しいものを持っている君が」
彼の体が一瞬確かに揺らいで、風景に透けた後少年は初めて男と目を合わせました。頬に笑みを浮かべて。「嫌われたくないんだ。約束、守ってね」
透けた細い子供の腕が夜空に向けて伸ばされ、届かない星の一つに触れた途端、それはあるべき場所からころりと零れ落ちました。途端に均衡が崩れたように星達はばらばらと不規則に滑り出し、それは先程降りやんだはずの雨によく似ていて、少年の耳には星が落ちていく音が聞こえました。黒い空に幾つものひっかき傷がやたらめたらと遺され、真新しい傷跡からは光る血液がさっと滲みでて、でもそれもすぐさま再生した細胞たちに飲み込まれて行きます。それらが幽世の存在である少年の濡れた黒い瞳の上でも繰り返されました。少年の幽霊が吸い込まれるようにその様を見つめていました。
光の一つがその場を去るのが耐えがたいように長くゆっくりと白い肌の上を滑り、やがて地面に音を立てて落ちるのを男は見ました。
白い息が、少年が生きていればその温かい肺から出たであろう空気が彼の漏らした声と共に出ていくのも男は見たような気がしました。
少年の幽霊はもう男を見てはいません。
何かを振り切るように夢中になって柵から身を乗り出し、降り落ちていく星々をその小さな両手で掬い上げようと手を伸ばしていました。
「ありがとう」
男は言いました。
「ずっとそばにいてくれてありがとう」
朝露が草を濡らし、霧が視界を遮りましたが、二人の下山者には関係ありませんでした。
その服は濡れる事も無ければ、体が冷える事もありませんし、視界の先に崖があろうと二人が死の脅威にさらされることはもはやないのですから。
「住処を追い出したんだ。ちゃんと気が済むまで付き合うさ」
黒い蝙蝠傘を杖代わりにびっこを引いて歩く男は隣を往くこるとの機嫌をとるように言いました。
そんな男をこるとは胡散臭そうに横目で見ます。
今更になって、この男を信じてもいいものかと心配になってきたのです。
「気が済むまでって僕が消えるまでってこと?
おじさん、それまで現世にのこれるの?」
「俺はこう見えて幽霊になったばかりなんだよ」
こるとは信じられないように目を見開いて、男の老けた顔をじろじろと見ました。余所見をしていたせいで木の幹にぶつかって、けどそのまま何事もないようにすり抜けていきます。
「とはいえ生きていた年齢で言えばこるとよりも俺の方が上だ。
これでも俺は名のある霊媒師だったんだ。色々経験したもんさ。大船に乗った気でいろよ」
「本当に?とてもそうは見えないけど」
「まあ幽霊は見えなかったけど」
「やっぱり」
「そんな事よりも、これから長い旅路になるんだ。何かやりたいこととか見たいこととかないのか?おじさんが叶えてやるぞ」
唐突にどうしたんだろう、この幽霊は。と訝しみながらもこるとは少し考えてそれから言いました。
「じゃあ、弟に会いたい」
「置いていった恨みでも晴らしたいのか?」
「別に、そういう訳じゃないよ。
ただ、話がしてみたんだ。話すのは無理でも姿を見てみたい。どんな顔をしているのか。僕がいなくなった後、どんな風に過ごしてたのか。ちゃんと今笑えてるのか、とか」
こるとは言葉を切ると、無意識のうちに自分の腕に両手を回していたことに気づいてそれからぶるりと肩を震わせました。
「___なんか外って寒いね」
「幽霊に寒さなんか感じないだろ」
「うん、けどやっぱり寒いや」
フクロウの鳴き声が、ネズミが慌てて巣穴に逃げ込む音が、枯れ葉の合間を這う蛇の脈動が霧が薄くなるにつれて、森のざわめきが聞こえてくるようになりました。
黙り込んだ連れの様子に男は口を開きました。
「まあ、世の中狭いようで案外広い。
どうせ先は長い事だ。旅のお供に俺の話でも聞かせてやるよ。
なんて言ったって俺は日本で十本の指に入る霊媒師だったからな」
「見えないのに」
ぼそりと呟くこるとのぼやきに中年の男の幽霊はびっこをひきつつ語り始めました。
それはこれからこるとが何度も聞くはめになる男の逃げ口上でもあります。
「まあまあ、そう言わずに__ところで、これは俺が生前に経験した幽霊譚なんだがね」
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笹平川の大規模整備の施行 市と住民との軋轢
長知民報.20××-08-04,朝刊,p.12.
__18日、長知県笹平川の治水対策の計画の一部である歳本埜山の吹付工事が無事完了したことが歳本埜市が開いた会見にて発表された。
この計画は去年7月に発生した線状降水帯による豪雨にて笹平川氾濫の被害から今年の春に着工されたものである。歳本埜山は笹平川に面した位置にあり、被災当時山の崖崩れは川の氾濫の一端ともなり、人家の倒壊、農作物の著しい被害を及ぼすに至った。
しかし、今回の工事に関しては地元住民たちからは反対の声も上がっている。歳本埜山にはかつて伝染病院として運用されていた旧白里病院跡地があり、住民の多くは伝染病患者だった親族を持つ。
伝染病の歴史に関する研究をしている南東大学原野忠司教授によると、当時伝染患者に対する迷信的差別行為の横行や劣悪な医療体制が取られていた中、旧白里病院は回復を目的とした治療が行われた数少ない施設の一つであった。病院創始者による白里大五郎氏の方針により差別の撤廃が推進され、隔離病棟である第二棟と医療者の居住区である第一棟の間の一部にはガラスの板が嵌め込まれ、患者と家族との面会に使われたという。
同施設は感染流行の鎮圧に伴い隔離病棟を廃止し、一般患者の受け入れを始め白里総合病院として運用されていたが、市の人口減少により経営が悪化し13年に閉鎖。5年前には治安維持や倒壊の危険性の為建物自体の建て壊しがされたが、その際にも地元住民による抗議活動が行われていた。
歳本埜市の佐藤孝雄市長は「市民の命や資産を守る為、住民の方々の理解を得て更に整備を進めていきたい」と会見で述べた。