第40話 初めてのデート
次の日、パトリックが村を去ると、シルヴァーナはいつもの仕事に戻ったが、あまり身が入らず仕事は思ったよりも進まなかった。
夕方になり屋敷に戻っても、口数も少なく考え込む姿に、ベルンハルトは心配げに声を掛けた。
「シルヴァーナ、やっぱり気は進まないか?」
「ベルンハルト……」
暖炉の前に座ってじっと火を見つめていたシルヴァーナは、ベルンハルトに顔を向ける。
「ここで皆に『聖女様』って言われるのも心苦しいのに、外国の王太子様にまでその名を名乗らなくちゃいけないのはちょっとね……」
呟くようにそう言うと、ベルンハルトはそっと手を握り顔を見つめてきた。
「本当に嫌なら、今からでもどうにか断れないか聞いてみるが……」
労わるように言われた優しい言葉に、シルヴァーナは苦笑すると首を弱く振る。
「ごめんなさい、大丈夫よ。本来なら聖女として教会に戻らなくちゃいけないのに、私のわがままでここにいるんだもの、このくらいちゃんとやらなくちゃ」
「絶対シルヴァーナを一人にしない。必ず俺がそばにいるから」
「うん……」
シルヴァーナが微かに笑って頷くと、ベルンハルトも安心したように笑った。
「旦那様、奥様。お茶をどうぞ」
「ありがとう、エルナ」
丁度良いタイミングでエルナが姿を現すと、お茶を持ってきた。手渡されたカップからは甘い匂いの中に、ほんの少しアルコールの匂いがする。
「ブランデーを垂らしてありますので、体が温まりますよ。旦那様も、どうぞ」
「ああ」
「王都には少し早めに行かれてはどうですか?」
「え?」
シルヴァーナが顔を向けると、エルナはにこりと笑顔を返してくる。
「せっかくですから、城下町でお買物でもしてみてはどうかと」
「エルナ、遊びに行くんじゃないんだぞ」
「それはそうですが、奥様は結婚してからずっと働き通しですし、息抜きに1日くらいいいのでは?」
「シルヴァーナはそんな気分じゃ……」
ベルンハルトがちらりと視線を寄越してきて、シルヴァーナは少し考えると小さく頷いた。
「素敵な提案だけど、療養院のこともあるし、ぎりぎりまで働きたいわ」
「そんなことを言っていたらいつまで経っても休めませんよ。王都に行くのは決まっているのですから、仕事は調整しましょう」
きっぱりと発言するエルナに反論しようとするが、エルナは無言で首を振った。
「旦那様、病人の治療は奥様にしかできないことでございますが、奥様が身体を壊しては元も子もありません。ぜひ息抜きを!」
強い口調でエルナに言い寄られ、ベルンハルトがたじたじと後退る姿に、シルヴァーナはつい笑ってしまった。
「シルヴァーナ、笑わないでくれよ」
「ごめんなさい、つい面白くて。分かったわ、エルナ。あなたの言う通りにする。それでいいでしょ?」
「そうこなくては! ではドナートさんに知らせてきますね」
なぜかとても嬉しそうにそう言ったエルナは、いそいそと居間を出て行った。
その後ろ姿を見送って、シルヴァーナはベルンハルトと笑いながら小さく肩を竦めた。
◇◇◇
それから数日、できるだけ病人の治療をし、不在の間の指示を出したシルヴァーナとベルンハルトは、王都へ向けて旅立った。
以前王都に行った時は、絶望的な心持ちで馬車に揺られていたが、今回は気は進まないにしろ、死ぬような危険もなく、それだけで随分前向きな気持ちになれた。
王都にあるタウンハウスに到着すると、すでにドナートたちが出迎える準備をしていてくれて、室内はとても暖かくなっていた。
「はぁ、寒かったわ。王都の方が少し雪が残っているのね。村よりよっぽど寒く感じるわ」
「お疲れ様でございました、旦那様、奥様。間もなく日暮れですので、もうご夕食に致しましょうか?」
「そうしてくれ、ドナート。今日は移動で疲れたし、早く休もう」
「明日はデートですしね、奥様」
シルヴァーナのコートを受け取ったエルナが、明るい声で付け足してくる。なぜか自分たちよりもよっぽど明日のデートを楽しみにしているエルナに、シルヴァーナは「そうね」と笑いながら頷いた。
次の日、予定通り朝食を食べ終わった後、二人は出掛ける準備を済ませると家を出た。
シルヴァーナはよく晴れた青空を見上げ、はぁと息を吐き出す。
「寒くないか? シルヴァーナ」
「平気よ。エルナがあったかい格好にしてくれたから」
「よし。じ、じゃあ、行くか」
久しぶりに少し戸惑った様子を見せたベルンハルトが、ぎこちなく腕を差し出す。その姿に笑いを噛み殺したシルヴァーナは、その腕に自分の腕を絡めた。
「行きましょうか、ベルンハルト」
二人はそうしてゆっくりと歩きだした。道の両脇にある商店はもう開店していて、シルヴァーナは興味があるものの前を通りかかると、その都度足を止めて店に入った。
「シルヴァーナ、さっきから見てばっかりで何も買わないけれど、気に入るものがないのかい?」
帽子屋に入って商品を見ていたシルヴァーナに、ベルンハルトが声を掛ける。顔を上げたシルヴァーナは笑顔で首を振った。
「そんなことないけど、見ているだけで楽しいから」
「遠慮しなくていいんだぞ。王都の店になんてそうそう来られないんだから、好きなものを買うといい」
「うーん……」
ベルンハルトの言葉に困った顔で首を傾げたシルヴァーナは、結局その店では何も買わずに外に出た。
少し不服そうなベルンハルトに、シルヴァーナは笑顔を向ける。
「ベルンハルト、あっちの方のお店も見ましょう、ね?」
「せっかく買い物に来ているのに、何も買わずに終わってしまうよ」
「それでもいいじゃない」
「それじゃあ、買い物の意味がない」
シルヴァーナは歩きだそうとしないベルンハルトの前に立って顔を見上げる。
「何も買わなくてもいいの。あなたと一緒に歩いているだけで楽しいんだから」
「そういうものか?」
「そういうものよ」
笑顔で頷いて見せるが、ベルンハルトはあまり納得していない顔をしている。
シルヴァーナは仕方ないなと苦笑すると、ベルンハルトの手を握った。
「じゃあ、次のお店で、ベルンハルトが私に何かプレゼントを買ってくれる?」
その言葉にベルンハルトがパッと表情を変える。そしてギュッとシルヴァーナの手を握り返した。
「ああ! それならいい。シルヴァーナにぴったりのものを選んであげるよ」
「それは楽しみだわ」
ベルンハルトの嬉しそうな顔を見つめて、シルヴァーナも笑顔で返事をすると、二人はそれから何軒もはしごをして買い物を楽しんだ。
夜になって寝る準備をしていると、寝室にベルンハルトが入ってきた。
「そろそろ寝るかい?」
「ええ、そうね」
シルヴァーナが鏡に向かっているのを見て、そばまで来ると背後に立って鏡越しに視線を合わせる。
「あ、この匂いは……」
「うん。ベルンハルトがプレゼントしてくれた香水を試してみたの。どうかしら?」
ベルンハルトがシルヴァーナにプレゼントしたのはすずらんの匂いのする香水で、爽やかな香りの後に徐々に控えめな甘い香りが広がるものだ。
シルヴァーナは村で仕事をする上で香水なんて付ける意味はないと、今までそれほど気にしたことはなかったが、これはとても良い匂いで毎日つけてもいいと思えた。
ベルンハルトが首筋に顔を近付けると、笑みを深くする。
「……すごくいい。君に似合ってる」
そのまま背中から抱き締められて、シルヴァーナはベルンハルトの腕に手を添えた。
「今日はありがとう、ベルンハルト」
「うん?」
「本当は王都に来るまでかなり緊張していたの。でも今日はずっと楽しくて、明日のことを考える暇もなかった」
「そうか、それは良かった。明日も俺が一緒なんだ。心配することはない」
「そうね。あなたがいてくれたら、とっても頼もしいわ」
そう言うと、ベルンハルトがこめかみにキスをしてくる。シルヴァーナはくすぐったくて肩を竦めると、振り返った。
「あなたがそばにいてくれたら、絶対大丈夫ね」
「シルヴァーナ……」
嬉しそうに微笑んだベルンハルトは、シルヴァーナの頬に手を添えゆっくりと顔を近付ける。
その目を見つめてシルヴァーナも微笑むと、そっと目を閉じ甘いキスを受け止めた。