Karte.87 ジークの回想、そして、80年越しの約束(前半)
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「に……げろ……」
自分を庇うように立つ、細く華奢な背中が霞んで見える。
「フィー、を……連れ……た、のむ……ッ!」
だんだん意識が落ちていくのが嫌でも分かった。
(頼む、俺はどうなっても構わねえから!)
(フィーを守ってくれ!)
暗闇に向かって叫んだ声が、あの背中に届いたのかは分からなかった。
『お前は本当に妾から産まれたのかえ?なぜ、この程度の文章も読むことができない?』
―――うるせえ……
『文字もまともに書けないだなんて、まるでケダモノですね。お前と血が繋がっていることを恥ずかしく思いますよ』
―――うるせえ……!
『これ以上お前のような出来損ないを城に置いておくことは、王族の恥を無駄に晒すというもの』
ババアにそう言われ俺は城から追い出され、その上、集落に居つくことも許されなかった。
行きついた先は、ヴィザールの森。
森に生息する魔物が増えすぎないよう始末することが、俺に与えられた仕事だった。
ここには俺の他にもエルフがいる。
生まれつき魔法が使えないヤツ。
魔力操作は使えても、加護がないヤツ。
『ティナ・ローゼン精霊国のエルフは全員加護使い』だなんて大嘘だ。
精霊の加護がなかったヤツが、ゴミのように森に捨てられているだけだ。
そんな連中の中でも、俺は特に異質だった。
王族で、水と風の魔法も使える。
なのに、同胞から見放された異物。
ここでも俺は受け入れられず、いつも独りだった。
『……ここ、どこなのでしょうか?』
森で迷子になってベソをかいていた子供は、噂で存在だけは知っていた、俺の妹だった。
メソメソ泣いたガキの相手なんて面倒で仕方がなかったが、泣き声を聞きつけた魔物が無駄に寄ってくるかもしれない。
だから、本当にただ泣き止ませるためだけだった。
『俺はお前の兄だ』と伝えたのは。
なのに。
パァッ―――
『私にはお兄様がいたんですね!』
ついさっきまで泣いていたと思ったら、急に嬉しそうに顔を綻ばせる。
それは、俺なんかにはもったいない、あまりにも眩しい笑顔だった。
妹は、フィーは時々城を抜け出して、俺に会いに来るようになった。
バカみたいに広いこの森でも、フィーが来れば”風”が教えてくれる。
俺がフィーを見失うことはなかった。
『この本、私のお気に入りですの。もしよろしければ、お兄様も読んでみて下さい』
『俺は……いい』
『そうですか?でも、とっても面白くて』
『いいっつてんだろッ!』
『ッ?!』
ハッとしたときには遅かった。
急に大声を出した俺に、フィーは驚いた顔のまま固まっていた。
『……読めねえから』
『え……?』
『俺は……字が、読めねえんだよ』
そう言うと、さらに目を大きく見開いた。
(ああ、どうせコイツも……)
どうせ、あのババアどもと同じだろう。
大の大人が文字も碌に読めないなんて、バカにしてくるに決まっている。
(俺だって……俺だって、読めるようになれるもんならッ!)
『……でしたら、私が読みますわ』
『え……』
予想外の答えに、思わずフィーの顔を見つめた。
『私が声に出して読みますから、お兄様はどうか聞いていただけませんか?』
『な、なんで……』
なんで、俺をバカにしない?
なんで、俺のためにわざわざそんなことをする?
訳が分からず尋ねると、
『だって、お兄様と一緒に読んだ方が、物語がもっと楽しめるでしょうから』
―――そのときの一点の曇りもない笑顔を、俺は今でもハッキリと覚えている。
その日を境に、フィーは俺に本を読んでくれるようになった。
文字が羅列している紙の束なんて、俺には苦痛でしかない。
フィーが読む文字を見ようと思わない。
それでも俺は、生まれて初めて『本を読む』ことが楽しいと感じた。
『素敵ですわねえ、王子様……』
パタンと本を閉じ、フィーはうっとりとため息を漏らした。
ドラゴンに攫われた姫を取り戻すために王子が困難を乗り越え、ドラゴンに打ち勝つという話だった。
『なあ、なんでドラゴンは姫を攫って、さっさと喰わなかったんだろうな。そうすりゃあ、王子に取り戻されることなんてなかったのによ』
『お兄様!そんな恐ろしいことおっしゃらないで下さい!』
俺が素直な感想を言うと、フィーが悲鳴じみた声を上げた。
『ドラゴンは姫を喰らうために攫ったわけではないのです!』
『じゃあ、なんで攫ったんだよ』
『きっと……ドラゴンは姫のことを好きになったのです。けれど、種族の違う者同士だったから、ドラゴンの想いが姫に通じなかったのですわ……』
それも切ないお話ですよね、と目を潤ませながらフィーが話した。
『でもお前は、姫は王子に助けられた方がいいと思ってんだろ?』
『それはそうですわ!素敵な王子様が命を懸けて戦ってくれるなんて、このお姫様は本当に幸せですわ』
フィーはそっと目を逸らした。
『私も……この王子様みたいに、私のために必死になってくれるような人と巡り会えれば、どんなに素敵なのでしょうね……』
そのときフィーはまだ10歳だったが、自分の立場をよく分かっていた。
あのババアが君臨するこの国ではババアの言うことが絶対だ。
ババアの前では、フィーのことなど二の次、三の次になるだろうし、ババアに逆らってまでフィーのために何かをしようなどと思う野郎はこの国にはいないだろう。
そのことを、幼くてもフィーはよく弁えていた。
『……お前なら大丈夫だ』
『え?』
そっとフィーの頭に手を添えた。
『お前ならこの本の姫みたいに、お前のために命を懸けて守ってくれるヤツにだって絶対会えるよ』
『お兄様……』
『まあ、そんなふてえ野郎がいるって考えるだけ腹立つけどよ。それまでは……俺がお前を守ってやるから』
俺の言うことなんて、ただの気休めでしかないことくらい分かっていた。
どれだけ強がったって、俺もババアに逆らえない野郎のうちの一人だと、腹が立つくらい良く分かっていた。
だけど、10歳の妹に、兄として情けないことなんて言えなかった。
何より。
『……はい!』
この笑顔がいつまでも消えないようにしたい。
本気でそう思っていた。
―――本当は、分かっていたんだ。
フィーが俺と会っていることがバレたら、絶対にあのババアはブチ切れることも。
氷魔法を使える『お気に入り』が、俺みたいな『出来損ない』と連むことを許すはずがないことも。
分かっていた、はずなのに。
『出来損ないの分際で、ソフィアナに付け入ろうとするとは』
いつものようにフィーを城の近くまで送ったその帰りだった。
大勢の衛兵に取り囲まれ、逃げる余裕なんてなかった。
そのまま押さえつけられ、縛り付けられ、地下牢にぶち込まれられ。
散々ボコボコにされ、全身傷だらけになったとき、あのババアがやってきた。
ババアの腰巾着のリオディーネと―――フィーを伴って。
真っ青な顔をしたフィーが俺の元へ行かないよう、性悪女が肩を抑えていた。
『あ……お、お兄……様』
『可哀そうなソフィアナ。こやつはお前が次期皇帝の継承者であることを知り、お前を利用しようとしたのだよ』
『そ、そんな……!』
『よく見ているといい。こやつの見た目はエルフだが……その中身は、愚かで小賢しい、ケダモノよ』
『や、どうか……どうかッ』
(見るな……)
『そなたにはこの国を背負う使命がある。例え同じ血を分けた者とはいえ、この国の害となるのであれば、徹底的に罰を与えなければならないのじゃ』
『ガハッ!』
(見るな、フィー!)
『いや……どうか、どうかッお許しください!』
泣きながら懇願するフィーをババアとリオディーネがほくそ笑んでいた。
(ザっけんじゃねえ、このクソ女どもッ!)
コイツらの魂胆には吐き気がする。
俺にはこれ以上フィーに関わらせないように牽制するため、そしてフィーは……
『お願い致します!もうお兄様にはお会いしませんからッ、どうか、どうかお許しください!』
『お前はまだ幼いからある程度自由にさせておいたが、これからは必要以上に城から出ない方がよさそうじゃ……そう思わぬか、ソフィアナ?』
『……承知いたしました。皇帝陛下のご命令以外にはお城から出ません。ですから……どうかッ!』
『リオディーネ。ソフィアナを連れて、先に戻っておれ。これ以上、このような汚らわしい場所に置いておきたくはない』
ババアは性悪女に命じた。
『承知いたしました、陛下』
ババアに一礼し、俺を思い切り見下した目で見た後、フィーを引っ張るようにして出て行った。
―――フィーが俺の方を振り向くことはなかった。
身動きが取れず、地べたに転がることしかできない俺をババアが見下ろす。
『一度しか言わぬから、よく聞け』
城にいたときに散々向けられた、冷たく軽蔑に満ちた眼差し。
『次にソフィアナに近づこうものなら命はないと思え。お前のような汚らわしいゴミが死んだところで、誰も悲しまぬのじゃからな』
ゴガッ―――!
ババアが手に持っていた杖で殴られたところで意識が途切れた。
『こやつの血で汚れたから、今すぐ捨てておけ』
という言葉を遠くで聞きながら。




