ジークの回想、そして、80年越しの約束(後半)
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数日後、ボロ切れのようになった俺をババアの手下が森に放り捨てた。
『ジークフリート=フォン・グリムエル=ティナ・ローゼン。皇帝陛下より、貴様を王族から廃嫡するとのお達しだ。今後死ぬまで我が国の王族を名乗ることを許さぬ』
心底どうでもよかった。
指一本でも動かそうものなら、全身がバラバラになりそうな痛みが走る。
だが、こんな所でいつまでも寝ていれば、魔物どもの恰好のエサだ。
激痛を無理やり無視しながら"風"の力も借りて近くの木によじ登った。
バカでかい木から出る枝は、デカい俺の体を完全に預けても落ちる心配がないくらい太い。
手頃な枝まで辿り着いて、ようやく身の安全を確保した。
すると、今度はこの数日で好き放題に痛めつけられた体の悲鳴がうるさくて堪らない。
『……クソが』
何の前触れもなく、目から頬へ何かが流れていった。
『フィー……ゴメンな』
思い浮かぶのは、俺に向けてくれた輝く笑顔、そして……血の気が失せた、怯えた顔。
(何が……何が『守ってやる』だ。全部、俺のせいじゃねえか……!)
フィーをもっと早く突き放すべきだった。
このまま一緒にいればあの女の怒りに触れて、フィーも酷い目に合わせられることくらい、とっくの昔に分かっていたことだったのに。
本当にフィーを大切に思っているのなら、俺が離れていかなければならなかったのに。
”お兄様!”
どこにも受け入れられず独りだった俺を、『兄』と慕ってくれたことが嬉しくて。
文字が読めない俺をバカにせず、本を読み聞かせしてくれたことが嬉しくて。
俺に向けてくれるあの笑顔が嬉しくて、ずっと見ていたくて―――!
(俺が、フィーの優しさに付け込んだせいだッ!)
結局俺は、自分のわがままを優先させただけだ。
後悔がとめどなくあふれ、冷たく頬を濡らしていく。
王族じゃなくなることなんてどうでもいい。
この体の痛みもどうでもいい。
ただ堪えていることは―――俺はもう二度と妹の笑顔を見ることができないだろう、という現実。
どこまでも俺は自分勝手だ。
そんな自分に、一番反吐が出そうだった。
『おらぁッ!』
『流石だぜ、ジーク!』
初めは俺を遠ざけていた他の連中も、ヴィザールの森で日々魔物と命を懸けて戦い、助け合ったりするうちに、バカ笑いしたり軽口を言い合える間柄になっていた。
少なくとも、城でのウンザリするほどムカつく日々に比べたら、この森での生活の方がはるかに性に合っていた。
だけど。
(……フィー)
ふとした瞬間にあのときのことを思い出すと、後悔で息が詰まりそうになる。
フィーと離れてから80年経っていた。
(もう……俺のことなんざ覚えてねえんだろうな。ひょっとしたら、もうすぐ皇帝になるのかもしれねえ)
俺にはあの城でどうしているのかなんて知る術もない。
ただ不思議なことに、フィーが国民の前に姿を現すこともなく、そんな噂も聞くことはなかった。
―――あの性悪ババアに呼び出されるまでは。
『本当にお前は知能が動物並みに低いこと。あれから80年も経っているというに、品性の欠片もない』
『……そんな下らねえことをわざわざ言うために呼び出しかのかよ』
『まさか。皇帝である妾がお前にチャンスを与えてやろうというのじゃ』
『チャンスだと?』
『そうじゃ……お前が、王族に戻れるチャンスを、な』
二度と見たくなかった冷笑を浮かべながら、ババアは信じられないことを言ってきた。
『ソフィアナが黒死病を発症しておる』
『なッ?!』
『彼奴が黒死病を発症していることが知れ渡ったら、ソフィアナだけでなく、妾達全員が極刑に処せられるのじゃ』
それは、目の前のババアが決めた法律だった。
【黒死病を発症した場合、本人だけでなく、その親兄弟含めて全員処刑とする】
皮肉にも自分で編み出した法律でテメエの首を絞め、しかも胸糞悪いことに、都合が悪ければテメエ自身の手で隠蔽しようとしているのだ。
(それならいっそ、このババアが黒死病になりゃあいいのに!なんで、寄りによってフィーがッ!)
あまりの事実に動揺している俺に、ババアは淡々と続けた。
『お前の任務はソフィアナが黒死病であることを隠したまま、国外、すなわちヴィザールの大森林を抜け……そして、殺すのじゃ』
『っ……?!』
『そうすれば、褒美としてお前を王族に戻してやろう。どうじゃ?』
手のひらに爪が食い込む。
そうでもしなければ、コイツに殴りかかりそうだった。
『ッざけんな!そんなこと、俺がするわけッ』
『ならば、仕方がない』
意外にも、あっさりとババアは引き下がった。
だが。
『面倒じゃが、妾直々に手を下すことにしようかの』
『―――ッ?!』
(コイツは……何を言ってやがる?)
目の前の『母親』だと思っていた存在が一瞬で崩れていく。
(フィーはお前の娘じゃなかったのか?お気に入りじゃなかったのか?なのになんで、『ゴミを片づけるのが面倒だ』なんて感覚で、フィーを殺すことができる?)
頭の中でいくつもの疑問が浮かび、ようやく1つの答えにたどり着いた。
(コイツは、マトモじゃねえんだ……フィーを確実に殺す。それも、何の躊躇いもなく!)
一瞬、差し違えても俺がコイツを殺してやろうかとも思った。
だけど、そんなことをしたって無駄だ。
この国にいる以上、フィーは殺される未来しかないのだから。
『……いいだろう』
『ほお?』
目の前の『母親の形をしたナニカ』を噛みつくように睨みつけた。
『フィーは……ソフィアナは俺が殺す』
(今度こそ、あの約束を守る……!)
“俺がお前を守ってやるから”
『絶対にな』
大人になったフィーは、俺の知る女共の中でも断トツの美女に成長していた。
『フィ……ッ?!』
80年ぶりようやく会えたというのに、ずっと会いたくて堪らなかったというのに。
まるで、人形だ。
ピンク色の瞳には生気が全く感じられず、まるでガラス玉だ。
白銀の長い髪の下の白い顔にも、もう一度見たいと思っていた笑顔の欠片すら残っていない。
そもそも表情というものが完全に抜け落ちている。
まさに、美しい『人形』。
(これが……これがフィー、なのか?)
呆然としている俺をフィーが何の感情も籠らない目で見つめ、そして呟いた。
『お兄様……』
”お兄様!”
『ッ!!』
胸から込み上げてくるものを必死で押しとどめる。
(まだ、俺のことを『兄』だと思ってくれているのか?!俺は……お前のために何もできなかったっていうのにッ!)
『すでにお聞き及びと思いますが、私は黒死病を発症し、皇帝陛下からこの国より亡命するよう命じられております』
何の感情も籠もらない無機質な声だ。
『お兄様にはご迷惑をお掛けしますが、ご同行の程何卒よろしくお願い致します』
深々と頭を下げる白い頭を、やり切れない思いで見つめた。
この80年、フィーは一体どんな目に逢っていたのだろうか。
あの時の笑顔も、拗ねた顔も、御伽噺にうっとりとした顔も。
全部、跡形もなく踏みにじられてしまうような、そんな目に逢っていたのか。
『……ああ』
フィーの前に膝を付いた。
『よろしくな、フィー』
頭にポンと手を置いた。
ピンク色のガラス玉がゆっくりと俺に向けられる。
(ババアにとってフィーがゴミなら、俺はそれ以下だ。どうせ、俺を王族に戻す気なんてサラサラねえんだ)
きっと俺に全部なすりつけるつもりなんだろう。
黒死病のことは伏せて、フィーを殺した罪で俺を処刑する。
それがアイツらの筋書きなんだろう。
(そもそも王族に戻る気なんざさらさらねえし、アイツらと同族になるくらいなら死んだ方がマシだわ)
だから、今度こそ。
(フィーは俺が絶対に守る……命に懸けても!)
近い未来、目の前の妹は黒死病で死んでしまうだろう。
フィーの最期を見届けたその時、俺は―――
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