Karte.56 レンジの1日、そして、時々追憶(後編)
食後のお茶を飲み終え、後片付けをすると、レンジはセインに礼を言って、家を出た。
ちなみに、後片付けはユーリの担当だが、浄化魔法で一瞬で食器が綺麗になるので、ユーリとレンジは食器を棚に戻すだけだ。
封魔石を入れたカバンを家に置き、レンジはトーマスの家に向かった。
「レンジ先生!」
家に着く前に、レンジはトーマスに声をかけられた。
「問題ないようだな」
「はい、今ちょうどその辺を走ってきたところです!」
顔を綻ばせながらトーマスは馬から軽やかに降り立ち、馬を引きながらレンジと並んで歩いた。
「先生のおかげで、以前と変わらず動くことができていますよ。職場とも相談して、明日から復帰できそうです!」
「それなら安心だ」
厩に馬を繋いだトーマスに案内され、レンジはトーマスの家に入った。
「……筋肉の付き具合も問題ないな。義足と接触する部分の皮膚も、特に異常はなさそうだ」
義足を外したトーマスの足を注意深く見た後、義足の状態もじっくり観察する。
「職場復帰したら、この村にはどのくらいの頻度で帰ってくる予定だ?」
「復帰してから3か月くらいは、この村の近辺の配達だけにしてもらっているので、毎日帰ってこれます。そのあとは、遠方にも派遣されることもあると思うので、そうすると……1週間に1度、でしょうか?」
レンジは頷くと、
「念のため、復帰後1週間は毎日足の状態を見るが、その後は徐々に間隔を開けていく方針で良いだろう」
「分かりました」
そして、レンジは懐から何かを取り出した。
「これは?」
トーマスの手に乗せられたのは、浄化の封魔石だ。
黒い革紐を通して首から提げられるように細工してある。
「快気祝い、兼、復職祝いだ」
「ええっ?!そ、そんなッ!」
トーマスは慌てるが、浄化の封魔石は落とさないように大事に手の中に抱えている。
「今後義足で気をつけなければならないのは、義足の手入れだ。汚れをそのままにしておくと錆びや可動不良の原因となる。この封魔石を使えば、仕事中に付着した汚れを一瞬で落としてくれる。使ってくれ」
「そッ、そんな大層な物、頂けません!」
「それはユーリが毎日大量に生産しているものの1つに過ぎない。しばらくすれば、この村でも普及するだろう。前倒しで渡しただけだ」
トーマスはジッと手の中の封魔石を見つめて、
「……本当に先生には、何から何までお世話になって……なのに俺は、一体どう恩を返せば……っ」
”それでも恩を返したいって言ってくれるのなら、レンジ君がこれからの人生をより良いものにして、幸せに生きてくれることかな”
(残念ながら、僕はそんな口幅ったいことを言うことはできんな)
フッと口元を緩めると、
「僕をここに連れてきてくれたのは、セインとユーリだ。あの2人には、返しきれないほどの大恩がある」
トーマスはレンジに目を向けた。
「僕に恩を感じてくれているのであれば、それはあの2人に返してくれ。それが僕の望みだ」
今後もユーリが黒死病患者を治療したとき、糾弾される可能性は十分考えられる。
(その時に、味方は1人でも多い方がいい)
トーマスはもう一度手の中の六角水晶を眺めて、
「……俺みたいな、しがないクーリエじゃあ何もお役に立てないかもしれません。ですが」
レンジを真っ直ぐ見つめる。
「もし先生たちに何かあれば、何が何でもお力になります。俺だけは、あなた方の味方でい続けますから……!」
「……ああ、よろしく頼む」
トーマスの家を出ると、
「レンジ兄ちゃん!」
トーマスの息子、釣り竿を持ったティムと出くわした。
「今帰ってきたところか?」
「うん!今日はけっこう捕れたんだ~!」
嬉しそうにバケツの中身を見せてきた。
中には、3匹の川魚がバケツの中をグルグル泳いでいる。
「ほお、大したものだな」
「だろ!母ちゃんに焼いてもらうんだ!」
「僕も君くらい釣れるようになりたいものだ」
「だったら、この後もう一度釣りに行かない?今日行ったところ、まだ魚がいたから」
「いいのか?」
「兄ちゃんの家の前通るから、待ってるよ!」
ティムと一緒に家まで戻ると、レンジはすぐに釣竿を取って、村の近くの小川にやってきた。
「あれ?」
ティムが対岸の何かに気づいて、レンジもその方を向いた。
「村長のじいちゃんところのチビだ」
「村長のお孫さんか?」
「うん。アンナおばちゃんとこの」
村長の娘のアンナには、2人子供がいる。
下の子はユーリとセインが帝王切開術で取り上げた赤ん坊だが、上の子は2歳くらいの女の子で好奇心旺盛な年頃だ。
現に今も、流れる水の中を熱心に見つめている。
「近くに親御さんはいないのか?」
レンジは辺りを見回すと、
「ああ!そんなところにいたの?!」
「うわあっ!」
突然後ろから大声が上がり、ティムがその場で飛び上がった。
「あ、アンナおばちゃん?!」
「ああ!ティム君、レンジ先生、ごめんなさいね驚かせて!あの子、昼寝から起きてこないと思っていたら、いつの間にか家を抜け出していたのよ!」
あちこち探し回っていたのだろう、後ろに赤ん坊を背負ったアンナが、息を切らせて立っていた。
すると、対岸の女の子は母親の姿に気がつき、顔を輝かせながら母親の方に向かってきた。
目の前が―――川であることを忘れて。
バシャァーーーン!
「ああっ!!」
「チビ!!」
アンナが口を押え、ティムは釣り竿とバケツを放り投げて川に走り寄った。
そのとき―――
「”アルケミル”」
レンジの左腕の鎧部分が一瞬で、しなる細くロープのように変形し、
―――ギュルルル!
勢いよく少女の方に向かって伸びた。
「レンジ兄ちゃん?!」
「任せろ」
手応えを感じたかと思うと、ロープは勢いよくレンジの方に巻き戻り、
「ミアッ!」
ロープの先に捉えた幼い少女を、アンナが両腕を広げて受け止めた。
「怪我はないか?」
ロープの形状から一瞬で甲冑に戻したレンジ君は少女を気遣った。
「もうっ、心配させて!!」
アンナは半泣きしながら娘を抱きしめる。
ミアは全身ずぶ濡れだが、キャッキャッと嬉しそうに喜んでいた。
「レンジ兄ちゃん、スゲエ!」
ティムはキラキラと目を輝かせながらレンジを見た。
「念のため、セインに診てもらった方がいいな」
「ええ!ありがとうございます、レンジ先生!」
レンジはティムを見て、
「僕達も付き添おう。この辺りの魚はもう逃げてしまっただろうし」
「うん、そうだね」
ティムも頷いた。
「特に問題はないですね。呼吸状態も問題ないですし」
「はぁ……よかったです」
セインの診察で、アンナは安堵の溜め息を漏らした。
「レンジさんがすぐに助けて下さったおかげですね」
「ええ、本当に!ありがとうございました!」
アンナ達は部屋の隅で様子を見守っていたレンジの方を向いた。
「ホント、凄かったよ!左腕がヒモみたいに伸びて、チビを掴んだから!」
とティムは興奮気味に話したが、
「でもさレンジ兄ちゃん。あんなことができるなら、わざわざ釣りしなくても魚捕まえられるんじゃない?」
と聞くと、
「おいティム、それは愚問だろう?僕は魚の方から食いついて来るのを待つことも含めて楽しんでいるんだ。自分から捕まえにいっても、仕方がないだろう」
とレンジにしては珍しく熱く反論した。
すると、
「フフフッ」
セインが楽しそうに笑い、ティムに向かって、
「レンジさんは今までとてもお忙しい方でしたからね。のんびり待つのもきっと楽しいんですよ」
「ふーん?」
とイマイチ分かってないような口調でティムは返事をした。
「ああ、そうだ。残りの封魔石が出来たのですが、今お渡しした方がよろしいですか?それとも、後ほど伺いますか?」
「そうだな……一旦釣り道具を置いてくるから、用意しておいてくれないか?」
「分かりました」
「すまないが、ティム。釣りはまた明日でもいいか?」
「うん、分かった!」
「ゴメンなさいね、釣りの邪魔をしちゃって。でも、2人のおかげでこの子が助かったわ!本当にありがとう!」
とアンナは改めて礼を言った。
「えっ、オレは別に何もしてないよ。チビを助けたのも、全部レンジ兄ちゃんが……」
「いや、そんなことはないぞ?ティム」
とレンジは遮った。
「あの場所に誘ってくれたのは君だ。もし、君が言い出さなければ、今頃取り返しのつかないことになっていたかもしれない」
「レンジ兄ちゃん……」
「君も立派な功労者だ。胸を張っていい」
「……うん!」
ティムがニッコリ笑う顔を微笑ましく思いながら、レンジはティムと別れて自宅に戻った。
「あら、レンジ先生!」
夕食を食べに『憩いの木馬亭』に行くと、トーマスの妻であるマリーが出迎えてくれた。
「お陰様で、明日からあの人も仕事に戻れるわぁ。本当に、先生様々だよ!」
「彼は真面目にリハビリに取り組んでいたからな。当然の結果だろう」
「先生は相変わらずだねえ。今日は何にします?」
「今日はラザニアと……ブドウの果実水をもらおう」
「はいよ!……いつもゴメンね」
マリーが謝る理由ーーーそれは、母親が働く店にちょくちょく顔を出すティムが、レンジと同じものを飲みたがるからだ。
そのため、この店で食事をするときは、必然的にレンジは酒を飲めないことになる。
仮にも一国の王族である高貴な出自のレンジが、平民の、しかもただの子供相手に、そこまで気を使うなど馬鹿げたことなのかもしれない。
実の兄達が知れば、『平民の子供に媚びを売るなど、これだから出来損ないは』と、こぞって嘲るだろう。
それでも、
「レンジ兄ちゃん!」
レンジを見つけて、嬉しそうな顔をする者など祖国にはいなかった。
向けられるのは、刃のように突き刺さる侮蔑と蔑みの視線で、何度体を貫かれても膝を付くことすら許されなかった。
だから、ティムの向けてくれる屈託のない笑顔をいつまでも見ていたいと思い、その顔が曇るような真似はできるだけ避けたかった。
「果実水だ。君も飲むか?」
「うん!」
『憩いの木馬亭』を出たレンジはゆっくりと家路についた。
夜空を見上げると、祖国より標高が低いせいか、星の輝きには鮮明さがなく、どこか柔らかな光だ。
その時、唐突に思った。
(ひょっとして僕は、この夜空を見るために太子の地位を放棄したのではないか……なんてな)
フッと、笑みがこぼれる。
普段の自分らしからぬ、脈絡もない、突拍子もない考え方だ。
にもかかわらず、何故か自分の中で驚くほどしっくり嵌まっていた。
「あ、レンジ君!」
診療所の前では、ユーリがドアに『休診』の看板をつけていた。
「もう夕ご飯食べたの?」
「ああ、食べてきた」
「じゃあさ……どう?」
茶目っ気たっぷりの笑みでグラスを傾ける仕草に、肩を竦めながら足は自宅ではなく、ユーリの方へ向かう。
「君こそ、あまり飲み過ぎるなよ?」
ーーーかつての祖国とはかけ離れた、今の日常。
そのせいか、レンジの中では、祖国で受けた冷遇も理不尽な差別も、遠い幻のように朧気だ。
ちょうど、この村の夜空を彩る角の取れた淡い星のように。
(だが、それでいい)
レンジは、一度も『出来損ない』と呼ばれることのないこの日常が、ただただ愛おしかった。
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