Karte.54.5 聖ティファナ修霊院、そして、闇に潜む者
「さあ、これで痛みは楽になるはずです」
穏やかな深みのある声で話しかけながら、初老の男性が、男性の後頭部に手を添え、ゆっくりと液体状の薬を飲ませるのを手伝った。
非常に即効性が高いのか、薬を飲まされた患者の表情は苦痛に歪められたものから、だんだん険が取れて、穏やかになっていく。
「院長先生……ありがとうございます。大分、楽になって……きました」
エヴァミュエル王国王都・エヴァンヌ。
その近郊に、一際目立つ大木があった。
悠久の年月を重ねたのであろう幹は、大の大人が何人も両腕を繋げなければ届かないほど太く、幾多の枝葉が天に伸び、その天辺は青々と繁っていた。
その根元に抱かれるかのように、ひっそりと白い建物が佇んでいた。
聖ティファナ修霊院。
決して治ることのない病魔に冒され、死の恐怖に怯えるだけでなく、周囲からも理不尽な差別を受けて故郷を追われた黒死病患者が行きつく安息の地だ。
ここでは全ての黒死病患者が受け入れられる。
人間も、エルフも、ドワーフも、種族が問われることはない。
残念ながら黒死病を治療することはできない。
しかし、黒死病による苦痛を取り除く特殊な薬剤が使用され、黒死病患者は苦痛から解放された余生を送ることができ、そして安らかな最期を迎えることができる。
「院長先生……」
院長と呼ばれた男性は、患者に目を向けた。
人間やドワーフよりも耳が長く、耳の先がとがっている。
水の精霊と風の精霊の加護を受ける、森の民、エルフの男性だ。
顔の左半分の皮膚は白く透き通っており、品のある顔立ちをしている。
だが、顔の右半分から首にかけて黒く変色した皮膚が覆っており、顔の右側は最早うまく動かすことすらできない。
服で隠れていて分からないが、この患者の右肩や胸部、腹部も黒く変色していることを、院長は知っていた。
「本当に……ありがとう、ございます。黒死病を患い、処刑から逃れるため故郷を離れ、行く宛のない私を……こんなに、温かく迎えて下さって……」
かろうじて開いている左目から涙が止めどなく溢れてくる。
「本当に……本当に、ありがとうございます……ッ!」
病魔に体力を奪われてしまい、上体を動かすことさえできないが、なんとか左手を動かし、院長に感謝を伝えようとした。
院長は穏やかに微笑みながら患者の左手を優しく握りしめ、
「あなたの苦しみが少しでも和らぐことが私の望みです。どうか安らかな時があらんことを……」
「……ああ―――」
変色した顔の右頬を優しく撫で、そして両目の前に優しく手を置く。
―――それが、患者が感じた、最期の温もりだった。
「院長」
ひっそりと後ろに控えていた、院長と同じ白いローブを着た人間の男性がそっと声をかけてきた。
ここで働く者は、『修霊士』と呼ばれている。
その多くが、孤児であったり、黒死病の身内を持ったことで故郷から迫害されたり、みな居場所を無くしてここに行き着いた者達ばかりだ。
「……彼は無事、世界をお守り下さる御霊の元に向かわれました。丁重に弔ってあげなさい」
「かしこまりました」
男性は一礼すると、他の修霊士に声をかけ、まだ体温が残る亡骸を丁寧にシーツにくるまった。
院長はその場を任せて、自室に戻る廊下を歩いていた。
長身ですっきりとした体型に、ロマンスグレーの長い髪を丁寧に纏めて、目じりと口元には人柄を現した柔らかな皺が刻まれている。
眼鏡の奥から覗く眼差しは、春の陽だまりを彷彿するような温かさがあり、全ての黒死病患者に平等に注がれていた。
ロザリー・ガルミエル―――この、聖ティファナ修霊院に助けを求める、全ての迷い子の父である。
自室に戻り一休みするのか―――と思いきや、ロザリーは部屋の壁に付けられている姿見鏡に手をかけた。
すると、驚くことに鏡が押し扉のように開き、その奥には地下に続く階段が伸びていた。
階段の壁際には一つも照明がなく、何も見えない闇が広がるだけだ。
だが、ロザリーは何も灯りを持つことなく、闇に埋もれた階段を踏み外すことなく、しっかりとした足取りで下りて行った。
ポタリ―――
自分の手すら見えない、どこまで続いているのかも分からない、重苦しい常闇の世界だ。
忘れかけた頃に落ちる水滴の反響音から、とても広いが、仕切られた空間であることだけが分かった。
「……興味深いことがあるものだね」
水滴が落ちる場所の近くに的確に歩み寄るものがいた。
それを見つめる姿は、血の気がない白い蠟のような滑らかな肌を纏い、顔立ちは人形のように整っていた。
なにより、長い尖った耳の形から、その者の種族がエルフであることは予想できた。
だが、長い髪は闇のような漆黒であり、瞳は鮮血のように赫く、この世界ではおよそ見ることがない色で染められていた。
「ガルナン首長国。あそこには、実に素晴らしい苗床が2つあったはずなのに。立て続けに反応が消えてしまうとはね」
透き通った耳障りによい声は、若い男性のようにも、女性のハスキーボイスのようにも聞こえる。
だが、歌うような抑揚で話しているせいか、どこか虚ろで、霧の向こう側から話しかけられているようだった。
「……ひょっとして」
ふと、思いついた考えに口角がゆっくり上がっていく。
「ああ……ティナ」
心底愛おしげに、鮮血のように濃く赤く染まった雫に指を伸ばす。
真紅に濡れた指先を、ゆっくりと口に運び、恍惚の表情を浮かべた。
「僕の、愛しの……聖女……!」
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