Karte.44
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すっかり温くなったお茶をレンジはぼんやりと見つめていた。
『出来損ない』
『なり損ない』
そう蔑まれ続け、それでも都合のいい時だけ太子としての責務を押し付けられていた。
そのことを自覚しつつも、両親や兄達がいつかは同じ王族として……家族として自分を認めてくれるのでは。
それだけを夢見ていた。
だが、黒死病を発症しそんな日は永遠に来ないのだと残酷にも思い知らされたのだった。
それならいっそのこと、『ドワーフのなり損ない太子』としてではなく、ただの『レンジ』として最期を過ごしたかった。
―――もう『出来損ない』と呼ばれたくない!
―――自分を『太子』から解放してほしい!
その本心に気づいたのは、皮肉にも、騎士団長である実の兄が自分の太子剥奪を宣言したときだった。
「君は本当に不思議な人間だな……ユーリ」
―――ユーリ・セト。
一人の少女に出会ってから、レンジは自分の運命が大きく、それも良い方向へ変わっていったことを自覚せざるを得なかった。
彼女のお陰で黒死病を克服でき、宿敵であったドラゴンを倒すことができ、しかも、これ以上望めないだろうという条件で太子の地位から解放されることができたのだ。
彼女からすれば、自分のすべきことに則って行動しただけなのかもしれない。
だがレンジにとって、ユーリは恩人以外の何者でもなかった。
黒死病を治療してくれたことは云うまでもない。
だがそれ以上に。
瓦礫の下で生き埋めになりながらも最後まで見捨てず懸命に自分を救おうとしてくれたこと。
ドラゴンとの戦いをレンジ一人に負わせるのではなく、共に戦ってくれたこと。
実の家族さえもここまで自分のために献身的になってはくれなかった。
そんなレンジにとって、ユーリという人間は、自分が培ってきた技術や知識の全てを差し出してもその恩に報いたいと、そう思わせる存在だった。
それだけのはずだった―――のに。
「……ッ、参ったな」
目に込み上げていくものを咄嗟に右手で隠す。
だがそれは、かつて祖国で幾度も流したものとはかけ離れた、驚くほど温かく、そして優しいものだった。
レンジが恩を返したいと思っていることがユーリ達に気づかれるのは想定内のことであり、むしろその方が堂々と2人の力になれると考えていた。
だがユーリは、その意図を汲んだ上でレンジが思いも寄らなかったことを言ってきた。
―――レンジの心の赴くまま、幸せに生きること
―――それこそが、ユーリ達への恩返しだと
まるで、親が子に優しく諭すように言い聞かせてきたのだ。
「どうして……どうして、君はそんなことを言うんだ……?」
”貴様のような出来損ない、生かしてやっただけ有難いと思え”
「幸せに生きてほしい、だなんて……そんなこと……!」
”お前を産んだことは私の人生最大の汚点です。産まれてきたことを少しでも申し訳なく思うのならば、この国のために身命を捧げて償いなさい”
「そんなことッ……親ですら、願ってくれたことなど、なかった……のに……ッ!」
右手で受けきれなかった温かいものが次々と頬を伝っていく。
かつての自分ならすぐにでも止めようとしていただろう。
泣いても誰も慰めてはくれない。
むしろ周りから冷笑されるか、罵倒されるだけだったからだ。
(だけど今は違う……違うんだ……!)
ここはレンジを冷遇していた祖国ではない。
自分を『出来損ない』と呼ぶ者もいない。
『太子』という理不尽な重圧も消え去った。
何より―――自分が幸せに生きることを望む人がいてくれる。
自分を雁字搦めにしていたものが、涙とともに次々と流れ落ちていく。
レンジの心は、その柔らかい余韻にただただ包まれていた。
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