Karte.113 聖ティファナ修霊院、そして、レンジの考え
池の畔で糸を垂らして当たりを待つ小さな背中を見つけた。
深紅のサラサラした髪が水面から反射した日の光で輝いている。
「何か釣れた?」
声をかけると見慣れた美少年(仮)がこちらに顔を向けた。
「ジークが水を操って散々中を掻き回してくれたからな。お陰で魚が寄ってこなくなった」
半分諦めの表情を浮かべているのに、まだ魚を釣ることをやめないのか。
バケツの中を見ても魚は1匹も入っていないから、意地になっているのかもしれない。
「隣座ってもいい?」
「ああ」
彼の左側の縁に座り、キラキラ光る水面を見つめた。
「今日フィーちゃんの黒死病治療後の診察をしたけど、特に明らかな再発もなく、経過は問題なかったよ」
「そうか。それなら、よかった」
レンジ君は穏やかな微笑みを浮かべて私を見た。
「君は本当に素晴らしいな。これで3人の黒死病患者の命を見事に救っているのだから」
「そう言ってくれるのは、本当に嬉しいんだけどね。要するに、これで私は黒死病3症例の治療を成功させたことになるわ」
私もレンジ君に顔を向けた。
「レンジ君だけだったらマグレだと思われるかもしれない。でも、これで3人の黒死病患者を、しかも異なる種族でも治療することができた。もうマグレではなく、れっきとした治療法として発表できる状態よ」
レンジ君の琥珀色の瞳を見据えながら、私はずっと気になっていたことを聞いた。
「単刀直入に聞くけど、レンジ君は私が聖ティファナ修霊院に行きたいって言ったら、どう思うの?」
私の質問にレンジ君は黙ったまま、顔も穏やかなままだ。
ゆっくり糸が垂れている水面に視線を移すと、
「……いつかは考えなければならないとは思っていた」
レンジ君は静かに呟いた。
「君の言い分は正しい。君は僕だけでなく、立て続けに2人も治療を成功させた。間違いなく、君の治療法は他の黒死病患者にも適用できる可能性が十分ある。例えそれが……常識を逸した方法だったとしてもだ」
(やっぱり、そこか)
私は黙ったまま彼の話に耳を傾けた。
「君に協力すると申し出た時から、聖ティファナ修霊院のことは常に念頭にあった。だが、何度も言っているが、君の治療法は大っぴらに行えるようなものではない。治癒魔法によって大半の怪我や病気を治すことができるこの世界では、あまりにもかけ離れた方法だからだ」
釣り糸が垂れる水面を見ながら、レンジ君は淡々と続けた。
「聖ティファナ修霊院に行けば、今のように、誰にも公開せずに治療を完結するということはできないだろう。当たり前だ。今まで誰も達成できなかった黒死病の治療法を、みなが知りたいと望んでいる。だが、君が患者に刃を突き立てた時点で、治療は妨害され、即座に捕縛される可能性が高い。そうなれば君は犯罪者だ」
私を見つめる琥珀色の瞳が真剣な光を帯びている。
「もちろん君とセインが治療に専念している間、僕は命に替えても君達を守るし、君達を守り切る自信は十分ある。君が大勢の前で治療を成功すれば、黒死病を克服する救世主だと認めてくれるだろう。だが失敗すれば……最悪、極刑に処せられる」
「……!」
「僕達が今まで黒死病を見て見ぬふりをしていたツケが、君の身の安全も脅かしている訳だ。黒死病については未知の部分が大きい。君が成功すれば問題ないかもしれないが、君でも対処できない不測の事態が起きた場合、君は大勢の者から責任を追及される可能性が高い。現時点で、君しか黒死病を治療する手立てを持つ者がいないから、そして、君の手法があまりにも僕達の常識からかけ離れたもので共感する部分が少ないからだ」
レンジ君は私から目を逸らす。
「どちらにせよ、聖ティファナ修霊院に行けば、君は今の生活を失う羽目になる。救世主となっても、犯罪者となってもだ」
「レンジ君……」
「君は以前僕にこう言ってくれた。『より良い幸せな人生を送ることが恩返しだ』と」
この村に、レンジ君とともに戻る旅路で言ったことだ。
黒死病の治療に協力してくれるのはありがたかったけど、治療したからといって彼に恩着せがましくするような真似は嫌だったからだ。
「僕は今、幸せな人生を送っていると、自信を持って言える。この村での生活は祖国にいた時よりも遥かに質素で慎ましいものだ。それでも、『出来損ない』と罵られることがないだけで、これほど満ち足りた日々を過ごすことができる。そして、それを知る機会を与えてくれたのが君だ。ユーリ」
ガルナン首長国にいたときに比べ、今の方が遥かに肩の力が抜けて自然体でいることは、ここまでの付き合いではっきり分かる。
「僕自身を苦しめた黒死病のことを突き止めたい、というのは嘘ではない。だが一方で、『君の生活を脅かしてまでしなければならないことなのか』と、そう思っているのも事実だ。少なくとも、これまで黒死病患者と関わってしまったことで、君は大なり小なり生命を脅かされているから、なおさらだ」
「確かに……ドラゴンが彷徨く坑道に閉じこめられて生き埋めになったり、王位継承が絡んだ殺し合いに巻き込まれたりね」
これまでのおよそ穏便とは言い難い出来事を思い出しながらしみじみ呟くと、レンジ君は苦笑した。
「君が関わってきた患者は3人とも非常に特殊な境遇の者ばかりだからな。その治療に携わったばかりに、君にはたくさん怖い思いをさせてしまった」
申し訳無さそうに眉を下げ、
「君は十分過ぎるほど僕達の力になってくれた。だからこそ、これ以上無理を強いるような真似をしたくないんだ。僕は……僕達は、君にも幸せな人生を送ってほしいと望んでいる」
“ユーリさんこそ、ご自分の幸せを第一に考えるべきだと、そう思っておりますから”
フィーちゃんも同じようなことを言っていた。
ひょっとしたら、セインもジークも同じように考えてくれているのかもしれない。
(本当に、私って……恵まれている)
だからこそ、私が決めなければならないのだ。
「レンジ君達がそこまで私のことを気にかけてくれているのなら……」
「私は……やっぱり聖ティファナ修霊院に行かないと」




