Karte.100 ジークの過去、そして、諦め?
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先程までの猛り狂うような雨風はすっかり鳴りを潜め、夜空には雲が多いものの、その隙間から星が見え隠れしていた。
だが、月が出ているわけではないので、森の中は自分の足元もよく見えないほど暗い。
そんな中を、なんの迷いもなくジークは全速力で走っていた。
木々の間を最小限の動きで通り抜け、枝と枝を軽やかに飛び移っていく。
長年ヴィザールの大森林を塒に魔物と戦い続けていたジークにとって、魔物がほとんどいない平和で小さな森を高速で移動することなど造作もなかった。
気づいたときには、あの洞穴に着いていた。
黒死病に冒されたフィーを隠していた洞穴だった。
中を覗くと、今夜の暴風雨が吹き込んだせいだろう、中は水浸しでとても入れる状態ではなかった。
だが、
「……"ウォーター"」
洞穴の床や壁が吸い込んだ余分な水を全て手に集め洞穴の外に捨てると、ジークはしっかり乾いた洞穴の中に初めて潜り込んだ。
フィーなら上体を起こして足を伸ばして座ってもまだゆとりがあったが、大柄なジークがその中に入ろうとすれば、抱え込んだ膝に額をつけるほど体を丸めなければならない。
だが、今のジークにとってはその方が都合がよかった。
自分の心に湧き上がる様々な感情が溢れ出ないようにするためには、ひたすら体を縮めて押さえ込むことしか思いつかなかった。
(なんで……なんで、ずっと言ってほしかったことを、あいつが言うんだよ……!)
顔を太ももに押し付け、こみ上げてくるものを必死に止める。
”文字を読める方法を焦らずに一緒に考えていこうよ”
いつか誰かがそう言って、手を差し伸べてくれるのではないか。
それは、淡くて、だが切実なジークの願いだった。
皇帝である母はお世辞にも子供に愛情を持っているようには見えなかった。
むしろ子供は自分にとって都合のよい道具であり、その証拠に、思い通りの結果を出さなければ容赦ない叱責を飛ばした。
それでも、姉であるリオディーネが母に気に入られることに心血を注いでいる姿を見て、幼いジークも姉を見習い、母に気に入られるよう心を砕いていた。
ジークが母に褒められたのは、水と風、両者の属性魔法を扱えることが判明したときだった。
今思えばあの時が、人生で最も母を愛していた瞬間だったかもしれない。
だが、読み書きを学び始めた時から歯車が狂い出す。
ジークが文字をまともに書けない、読めないと知るや否や、母は叱責だけでなく体罰も与えるようになった。
手本の通りに字を書けず、本も読めないジークを、母はもちろん、姉も嬉々として罵倒した。
母の興味がジークに向いていることを快く思っていなかったリオディーネは、ジークをけなすことをむしろ喜んでいた。
叱責や体罰に苦しみながらもジークは必死に訴えた。
自分には文字が逆さまに見えることも、線が歪んで見えることも。
どうすれば文字を『普通』に読むことができるのか、自分には分からないことも。
だが、そんな訴えを聞き入れてくれる者は城にはいなかった。
むしろ、『頭がおかしい』『ふざけた言い訳をしている』とまともに取り合ってはもらえなかった。
そして遂に我慢の限界が訪れる。
歪んだ文字で書かれたジークの名前を見た母によって、その場で何度も鞭で打ち据えられたときだった。
『文字もまともに書けないとは……エルフを名乗る資格すらない、ただの”ケダモノ”じゃな』
『……うるせえ』
『なんじゃと?』
『うるせえって言ってんだよ、ババア!!』
たった一度の反抗の言葉が、母を激怒させ、そして城を追い出されるきっかけとなってしまった。
誰にも分かってもらえず、自分はエルフにすらなれない『ケダモノ』なのだと、そう思うようになっていた。
だからこそ、そんな自分を家族の一人として認めてくれ、しかも、文字を読めないことを打ち明けても馬鹿にせず本を読み聞かせてくれたフィーに、ジークはどれだけ救われたか分からなかった。
それこそ、自分の命に替えても守りたいと思うほどに。
そして、フィーだけでなく、自分のような『ケダモノ』の命をも救ってくれたユーリ達には、どれだけ感謝してもし足りなかった。
これ以上望むわけにはいかなかった。
自分達を何の躊躇いもなく守ってくれた存在に、自分の『下らない悩み』などで手を煩わせるなど許されない。
そう、思っていたのに。
(クソ……クソッ!)
ジークは心の中で何度も自分を罵倒した。
もしも、あれ以上あの場にいたら……きっと自分は、みっともなくユーリに縋りつきたくなってしまう。
まるで、泣いた幼子が母親の温もりを求めるように。
そんな無様な姿を、妹はもちろんユーリ達にも見せたくなかったし、何より一瞬でもそれを望んでしまった自分が許せなかった。
”別に思わないし、むしろ、バカにする理由が分からないんだけど”
(……分かってたけどよ)
自分の恥部を告白しても、笑わずに真剣に考えようとしてくれたユーリを見て、心底嬉しかったと同時に、どこか期待していた。
ユーリこそが、自分の願いを言葉にしてくれる存在なのでは、と。
(もう十分だ)
ユーリは十分過ぎることをしてくれた。
これ以上望むわけにはいかない。
レンジが自分を嫌悪している原因が分かったのだから、必要以上に関わらないようにすることを伝えれば問題ないはずだ。
あのドワーフは自分なんかよりも、はるかに頭のデキが違うのだから。
(……最悪、俺がいなくなればいいことだ)
フィーはユーリ達とともに黒死病の治療に携わりたいと言っていた。
それを兄である自分が邪魔するわけにはいかない。
妹を置いていくのは心残りだが、彼らなら最愛の妹のことも絶対に大切にしてくれるはずだ。
これ以上、自分のせいで彼らが気分を害することは許されない。
(戻って、アイツらに言おう)
『下らないことでレンジと険悪になって悪かった。文字が読めなくても、自分は困っていないから気にするな』
そう押し切ってしまえばーーー
「エルフは木の上にいるのが好きだと思っていたが、意外だな」
「なッ?!」
突如聞こえてきた声に、ジークは驚いて穴の外を見た。
ここまで接近されながら全く気づくことができなかったことにジークは呆然と件の人物を見つめた。
「……どうして」
レンジは黙って義手を掲げた。
くすんだ銀色の人差し指から髪の毛ほどの細い糸が星の光に反射していた。
その糸の先を辿ると、
「いつの間にッ?!」
ジークは左肩に銀色の鉄線がついていたことに驚いた。
「君が診療所を飛び出して行ったときにつけさせてもらった。さすがにこの暗い夜道を、何も目印がない状態で君を追いかけることは現実的ではないからな」
人差し指をクイッと折り曲げ、レンジはジークから鉄線を回収した。
「……何の用だよ」
ジークはプイっとレンジと反対方向に顔を向けた。
少なからずレンジを気に食わないと思っているジークにとっては、自分のこんな弱っている姿を見られるのは非常に居心地が悪かった。
「ジーク」
レンジに呼びかけられ、しぶしぶ彼の方に顔を向けたジークは、すぐに驚きの表情を浮かべた。
「……本当に、申し訳なかった」
深紅の頭が、深々と自分に下げられていた。




