七話 マーキング
春の終わりの編入で、初日から教室で浮いてた僕に、彼女は真っ先に話しかけてくれた。
「ねぇ! 朝バス一緒だったよねぇ、うちのクラスだったんだね!」
満面の笑顔だったし、あまりに当然のように話し掛けられて、固まってしまった僕を前に、彼女は「朝日心晴って言うの、よろしくねぇ!」と、八重歯を見せて笑ってくれた。
確かにバスで見かけた当初、目立つ赤毛のツインテールで、とても派手だったから、不良かもと思ってた。
だけどその子は、座ってた席からわざわざ立って、バスに乗ろうとしたお婆ちゃんを手助けしてて……それを笑顔で、楽しんでいる風だったから、僕は……。
正面から見た彼女の瞳がペリドットみたいに綺麗な黄緑色の虹彩で、彼女の髪も、地毛なんだなって、理解した。
翌朝から、毎日挨拶してくれて、ご近所のあれこれを教えてくれて、美味しい食パンのパン屋さんを、教えてくれて、寝癖まで直してくれて……。
だから、もうそろそろ離れなければと思ってたんだ。
僕と人との縁は、半年も保たない。
だんだんと、僕のおかしさに皆が気づくから。僕に近づいたら近づいただけ、僕と時間を共有するだけ、僕の奇行に触れる可能性が増えてしまうから。
だからもう、潮時だと……。そんな風に思いを巡らせていたら、唐突に。
「どうして?」
…………?
「万引きしたのは、どうして?」
真っ直ぐに瞳を見返して、そう問われた。
どうして……って、理由なんて……。
万引きする人は、どんな理由でそれをするんだっけ?
欲しいから? スリルのため? いたずら目的? 嫌がらせ?
でも、僕がそうした理由……理由……。
「してないのに、分からないよねぇ」
そう……っ⁉︎
誘導されるような思考に頷きかけて、慌てて視線を上げたら、心晴さんはいたずらっ子みたいな瞳で、僕を見上げていた。そして急に真顔になって。
「僕は万引きの非行歴がある!……ってね、そんな言い方、本当にしてたらしないんじゃないかな」
真面目な声音でそう言われて、口を塞がれた心地だった。
「芽衣ちゃんのこともそう。
犯罪がバレて困るって思う人は、今まで通り協力するなんて、言ってくれないと思う。
今まで有難うなんて、お世話になりましたなんて、言わないよ」
心晴さんは、僕の本心を見透かすような視線で僕を見たまま、言葉を続けてくれた。
「悪いことした人は、警察になんて関わりたくないって、そんな風に思うんじゃないかな。
だから、見ないふりをして、やり過ごすと思う。
でも呼唱くんは、そんなことしなかったよ。
昨日だって、叫んで、慌てて駆けてきてくれたのは、私のこと助けに来てくれたんでしょう?」
そう言った彼女は、ぐいとまた一歩距離を詰めて、僕の眼前に、顔を近付ける。
「私ね、その人がどんな人かを見るのは、結構得意な方だと思ってる」
語尾の跳ねたり伸びたりする、のんびりした口調じゃなく、誰にでも優しい、柔らかいだけのそれじゃなく、どこか芯の通った声音で、彼女はそう言った。
「だからね、昨日聞いたことも、呼唱くんが言ったことも、私は私で判断するね。
気を使ってくれたのは有難う。でも私は、呼唱くんのことをもっと知らないと分からない。まだ判断できないから、その件は保留にします。
本当に呼唱くんが関わらない方が良い人だと思った時、そうする。
でも、今はそう思わないから。
……ハイっ、じゃぁ、座って! バス来ちゃう前に済まそう!」
手を掴まれて、引っ張られて、強引に座らされた。
僕の膝の上にどん! と、鞄が置かれて、心晴さんは中を漁り出す。いつもの寝癖直しセットを取り出すために。
そしてその時、見えてしまった。
心晴さんのうなじ付近に、張り付く目玉。
息を呑んだのは、その目玉が僕をじっと見ていたこと。
僕には、人に見えないモノたちがちょっとだけ見えた。祖母はそれを、御霊とか、妖とか呼んでいて、僕のことを、難儀やなと哀れんで、彼らと交わるうえでの重要な約束事を、丹念に教えてくれた。
何が難儀なのか、その時は分からなかったよ。
祖母は僕よりよっぽど見えている人で、そのことは皆には内緒だった。
僕も人に見えないモノのことは、言っちゃいけないのだって理解してたから、両親にも妹にも言わなかった。
だから、僕がおかしくなった時も、その理由を誰も理解できなかったし、僕も周りも、それをどうすることもできなかった。
僕が望んでこう生まれたんじゃない……。
でも僕の両親だって、こんな僕を望んで生んだんじゃないんだ。
生まれてみたら、こんなだった。だからそれは、仕方のないことだ。
僕に見えるものが、他の皆には見えない。だから、僕がどれだけ、あの時の僕が僕じゃないと訴えても、伝わらなかった。
東京に来るまで、それがなかったのはきっと……。
ばあちゃんが、守ってくれていたんだ。
蓋の無い難儀な僕を、哀れんで……。
だけど僕の両親はそれを知らず、言ったとしても、理解できる人じゃなかったから……。
あんたと暮らすなんて無理。
僕の延ばした手を震える手で振り払った母さんは、泣きながらそう言った。言わせてしまった。
だから僕は、十二歳から施設に入って、そこから両親との接触は無い。
施設でもやっぱり奇行は続いて、病院に連れて行かれたり、別の施設に回されたりして十七まで過ごした。
そのうち僕は、地域でも有名になってしまって、いじめやからかいの対象になった。
こんなだから僕は、人間関係を作っていけない。
だから切らなきゃ、彼女を解放しなきゃと思ったのに。
「……私ねぇ、嬉しかったよ、あの時。
私、髪色がこんなだから、よく勘違いされるの。遊んでるんだと思われちゃう。
呼唱くんも自己紹介の時、ものすごく驚いてたから、きっとそう見えたんだろうなぁって、思ってたの。
なのに、あの怖いおじさんの前に、手を……他人のフリだってできたのに、庇ってくれた。
その時だけじゃなくて、その後も、ずっと毎日……助けてくれてる」
芽衣ちゃんだけじゃなくて、私のことも庇ってくれてると、そう……。
「それにねぇ、呼唱くん私にハーフなのとか、本当の親子なのとかって、聞かなかったでしょ。
私の両親と私の色が違うのも、知ってるのにね」
そう言いながら、心晴さんは顔を上げて僕を見て、柔らかい笑みを浮かべた。
そこで僕の視線が、心晴さんの表情を見ていないと、気付いたのだろう。ぎくりと固まってしまったけれど。
「……あ……えと」
聞いて、良いのか?
でも……うなじのあの目玉はよくないものだ。
彼女への強い執着を感じる。あれは……。
マーキングだ。
「左の首元……」
それだけで彼女は、バッと手を、目玉に被せてしまった。
そこに何があるか、知っている動き方だった。
それまでの溌剌さも何もかも吹き飛んで、怯えきった瞳が、僕を見る。
「な、なんでも……あっ、虫刺され! そう、季節外れのがねっ、うちに出たのっ。
殺虫剤なくって、蚊って殺すの、怖いよね、血が出るんだもん!」
急に早口になった彼女がまくし立てる言い訳。瞳を泳がせて、泣きそうなほどに怯えて、必死で取り繕う。
つまり、身に覚えがある……。そこにキスマークが付くようなことをされたと、自覚してるってこと。
でも、彼女は見える人じゃない。
まだ……彼女に関わらなきゃいけない理由が、見つかった。
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明日は、八話 彼氏の影。