六話 非行歴
どれくらい経ったろう。
「コタ、お客様だよ」
頬をムニムニと押されて強制的に起こされた。
「んン?引き取りぃ?」
「ちがうよ。いつもの子がウロウロしてる」
いつもの子……。
「部屋分かんないのかな? もう三往復くらい、前をウロウロしてるんだけど……」
三往復?
「コーター、起きないと困るんじゃない? あ、なんか話し掛けられてるよあの子。食べられちゃうかな」
食べられちゃう⁉︎
ガバリと身をおこすと、手だけを僕の顔に飛ばした猫が、ベランダに座って下を見下ろしていた。
ゆらゆらと体が蠢いている、人には見えない、妖の姿。
「今、何……」
「十時過ぎてる」
いや、時間じゃなく。
「あぁ、ほらコタ、あの子連れてかれちゃうかもよ?」
僕に関わろうとする人間なんて、今はもう一人しかいないんだと、そこで気付いた。
慌ててベランダに飛び出し下を覗き込むと、黒い服の人二人に何か言われている心晴さんらしき、ツインテール。
手を引っ張られていて、咄嗟に……。
「ごめん、はーちゃん寝てた!」
大声でそう叫んだ。
びっくりしたのか、階下の三人が僕を見上げる。
「今行く!」
気を引くための咄嗟の言葉だった。
急いで玄関に向かい、靴を引っ掛けて扉を押し開き、階段を駆け下りて、転げそうな勢いで外に飛び出すと……。
「呼唱くんいたー、良かったぁ」
ギクリと身を固めてしまったのは、上からは意識していなかった黒い服の大人が、お巡りさんだったからだ……。
僕を、また……。
あの時みたいに……。と、そう思ったのに、明るい声がその思考を切り離す。
「これ、教室忘れてたから届けにきたよぉ」
そう言って差し出されたのは、僕の、スマホ。
「なんか光ってたし、緊急な連絡だったらと思って。ごめんねぇ、今日カテキョの日だったから、この時間になっちゃった」
「えっ、いや、ありがと……じゃ、なく」
僕の話、聞いてたはずだよね?
「うん、すれ違いかと思った。暗いし、まだバイトかと思ったよぉ。いて良かったぁ」
僕らのやりとりを見ていたお巡りさん二人は、それで何かを理解したのだろう。君たち。と、話し掛けられて、またビクリとしてしまったのだけど。
「夜道は危ないから、あまりうろうろしないようにな」
「家、すぐそこです。見えてますし平気です」
「いやいや、最近物騒だから。女の子は特に」
どうやらマンションの前でウロウロする彼女を、エンコーか何かの人待ちと思って声を掛けたのだろう。
慌てる僕に、でも、彼女は。
「じゃ、もう帰ります。
呼唱くん、またね」
そう言って、横断歩道へと小走りに駆けていった。
青だった信号をそのまま渡り、ふわんふわんとツインテールを揺らしながら、道の対岸を通り抜けざまにまた、満面の笑顔で手を振る。
いつも通りの、明るく分け隔てない、心晴さん。
そうして家の前に着いたら。
「じゃあねぇ、また明日、バス停で!」
そう言ってから、お巡りさんにもご苦労様です!と、一礼。扉の中に消えていく。
「君も、忘れ物、気をつけてな」
「うぁ、はいっ」
軽く敬礼したお巡りさんも帰っていき。ただぽつんとその場に、僕だけが残った。
暫く放心してた。
心晴さんの笑顔が、全く今まで通りで、全然意味が、分からなくて。
「コタ、いつまでそうしてるの?」
彼にそう言われるまで。
「……彼女、聞いてたのに」
「気にならなかったんじゃない?」
気のない様子でそう言って、ほら、入ろうよと促されるまま、僕も部屋に足を向けた。
気にならなかったはずない……。だって、彼女の手は……。
僕に触れた彼女の手は、震えていたんだから。
◆◆◆
もうなんなのこの子……。
どうしてこう、思うようにいかないの……。
やっと、やっと身軽になれたと思ったのに、今度はこの子。
もう無理。もう嫌。もう、どうして良いか、分からない。
私はもう、あんたと暮らすなんて…………。
◆◆◆
今日も猫に起こされた僕は、少しぼーっとする頭でルーティーンをこなして家を出た。
いつものように彼は制服の中のどこかにいる。
昨日は外の仕事は無く、メールに入っていた引き取りの対応で一日の業務が終わって、比較的寝られたはずだったのに……何故か頭が冴えなかった。
色々考えてしまって、なかなか寝付けなかったのも原因だったけど、一番の理由は……。
昨日のことのせいか、嫌な夢を見たからだろう。
僕の、幼い頃の夢を……。
心晴さんのあの震えは……やっぱり僕のせい…………。
「呼唱くんおはよぉ!」
今日も、心晴さんはいつも通り……。昨日のことなど、無かったように。
そりゃ、ミッションがあるから、僕と一緒の方が都合は良いと思う。僕みたいなチビでも、女の子二人だけよりはマシだろうし、だから僕も、昨日のことを見なかったことにして、流してしまえば良いんだと思う。
そうすれば、彼女はきっと今まで通り、こうして普通に接してくれる。
「今日は寝癖、大人しめだねぇ」
「うん。……だからもう、僕に触れなくて良いよ」
そう返事を返したら、彼女の手はぴたりと止まった。
口元に笑みを張り付かせたまま、ペリドットの瞳がビーが玉みたいにまんまるに見開かれ、僕を見る。
流してしまえば、良いんだと思う……。だけど、それがどうせ長く続かないってことを、僕は知ってた。
「僕……に、もう、無理して話しかけなくても良いよ。
芽衣さんのことにはちゃんと協力するし、今まで通りにする。
でも、そこ以外は、いらないから」
一晩考えたけど、心晴さんの手が震えていた理由が、やっぱり他に思い浮かばなかった。
優しいから、彼女はそれを隠そうとしたんだ。急によそよそしくなったら、僕がきっと戸惑うだろうって、きっと、そんな風に考えたんだろう。
だって……誰だって、犯罪者となんて関わりたくない。そう、思うものでしょう?
ずっと前に育児放棄した僕の両親は、あの時も、僕に関わることを拒絶した。
代わりに呼び出された施設の人も、弁明なんてしてくれなかった。
僕ならしでかすだろう。皆が共通でそう認識していて、僕はその期待を裏切らなかったのだと、僕自身も理解してた。
誰も味方なんてしてくれないと、分かっていたから、そのまま受け入れた。
だから、僕にはその非行歴が刻まれている。
身に覚えのない窃盗罪が、僕の鞄に放り込まれたものひとつで決まった。
「朝日さんのお友達の言う通り、僕には万引きの非行歴がついてるし、それが理由で一度退学しました。
怖いと思って当然だし、関わらない方が良いのも、その通りだと思う。
だからもう、こんな風に話しかけなくって良いです。
それを理不尽だとも思いませんから、安心してください。
じゃ……今日まで本当に有難う。お世話になりました」
ご覧いただきありがとうございます。
明日は七話、マーキング となります。