四話 心晴さん その二
僕の持ち上げた手に体を貫かれた男の子も、ぴたりと動きを止める。
バスの中の、心晴さんに集中していた視線が、全て僕に方向を変えた。
見られるのは嫌いだった。
今まで散々、遠慮のないこんな視線に晒されてきたから。
だけど、その視線を一身に浴びても怯まず、目の前の少女は戦っていたのだと思ったら、僕も踏ん張らなければと思った。
僕ならもう今さら、取り繕うような世間体も人間関係もありはしないんだから、たとえどう脅されようと、怖くない。
「全部これで、撮ってました」
僕の足に重なって立つ男の子が、僕を見てる。
そして、はーちゃん、めーちゃんと、二人を見て呟くから。
「貴方が……めーちゃんにしたこと、はーちゃんに吐いた暴言や態度、今までの一部始終が録画されています」
僕が、二人の知人に見えるように、スマホの画面を見るような視線で、画面越しにサラリーマンと顔を合わせている風を装って。
「駅前の停留所でバスを下りていただけますか。続きは警察でやりましょう。
その時僕も、この証拠を提出します」
バスが停留所に停まった。
この状況に見入っていた人たちが、慌てて下車しようと動き出し、ごった返していた車内が押し合いへし合いし始めた。
その人の波に押されてぐらりと揺れた心晴さんを慌てて受け止めて、体を入れ替え座席に座らせる。
隣の人も席を立ったから。
「あの、ここ!」
めーちゃんと言われていた女性も、隣席に引っ張り込んだ。
注目を集めてしまったし、不快な経験をしたばかりだから、人が体に当たるだけでも恐怖や不快感を与えてしまうだろう。それに、興味本位で二人の顔を覗き込もうとする人々から、極力二人を隠すつもりでそう動いたのだけど。
「こっちはこれから仕事なんだよ!
お前らのおふざけに付き合ってられるか!」
不意にそんな捨て台詞と共に、ボカリ! と、後頭部への結構な衝撃。
「あっ!」
さらに人の流れに押されて体勢を崩した僕に、心晴さんが手を伸ばし。
座席の背もたれに手をついて体を支えようと思ったのに、心晴さんの体が腕の前に飛び出してきたものだから、目算を誤って胸に手をついてしまった。
むににっと手のひらがめり込む、えもいわれぬ感触に、天国と地獄が同時に脳裏をよぎった気がしたよね……。
そしてまた大量の人がバスに乗り込んできて……。人波が落ち着いた頃気づいてみれば、痴漢サラリーマンにも逃げられた後で、残ったのは、僕が心晴さんに痴漢行為を働いたという現実だけ。
で、結局。僕たちも一旦、芽衣さんの最寄り停留所でバスを下りた。
「ご、ごめんなさいっ本当……その、決して、決してわざとじゃなく……!」
痴漢サラリーマンよりも先に、僕が痴漢行為を働いたと引き立てられそうな状況っていう……。
嫌だっ。こんな展開でまた僕に罪状が増えるなんて絶対に嫌だ! なんかそれはあまりにも不幸っていうか、星の巡りが悪すぎると思うんですけど⁉︎
本気で泣きそうだったのだけど。
「気にしてないよぉ。あれは偶然だし、私が動いたからだもん!」
パタパタと手を振って、あっけらかんと心晴さんは言ってくれた。今日一番不運なのは心晴さんだったよね。人助けして怒鳴られた挙句胸触られて散々だよ。
だけど彼女は、それをおくびにも出さずにこりと笑った。
「それに、あの人良く見かけるもん。
連れていかなくても、画像を警察に提出すれば、お巡りさんがきっと見つけ出してくれると思うんだ!」
「あ。それ無理です……」
「え?」
「画像撮ってなくて……」
「撮ったって自信満々言ってたよ?」
「でまかせです」
「…………」
三人で無言、気まずい空間……。
「ふっ、何それすごい!」
だけど心晴さんが吹き出して、それに釣られて僕らも笑うしかなかった。
暫くくつくつくと、笑い合っていたのだけど、そのうちホッと息を吐いて、お互い自己紹介。
「でも……ホッとしたかも。卒業まであと半年だし、正直あまり、騒ぎにしたくなかったから」
高校を出たら就職するのだという芽衣さんは、今丁度難しい時期なのだと話してくれた。
就職活動中だから、こういったことを騒ぎにはしたくないのだと。
「二人には悪いんだけど……このままうやむやにしても良い?
あの人も、もう触ってこないと思うし……」
「それはダメだよぉ!」
「危険だと思います。仕返しなんかがないとも限りませんし」
何もしなければ、またつけあがるかもしれない。
結局話し合いの末、バスに同乗する間、一緒に纏まっていようということになった。
「迷惑じゃない?」
「そんなわけないよぉ! 学校変わってなんとなく疎遠になっちゃってたけど……私は嬉しい。また芽衣ちゃんとお話しできるの」
小学校が一緒で、昔はもう少し近くに住んでいたという二人は幼なじみだった。
だから、ここ最近ずっと芽衣さんの様子がおかしかったことも、気になっていたのだと。
芽衣さんの引っ越しと、心晴さんの進学で何となく疎遠になっていたのだと、そんな風に話してくれたけれど、その疎遠理由に……あの頭の陥没した男の子が関わっているのじゃないかと、なんとなく感じる。
気づけばあの男の子の姿ももうなくなっていて、僕に取り憑こうとするほどの執着は果たされないまま、興味が失せてしまったかのよう。
一度あれほどの執着を見せたのに、その意思を失くした……。
やっぱりあの御霊は、二人を助けたいと思ってたんだろう。そしてその目的は果たされたから……。
そう思ったものの、少し心配になってこっそり小声で聞いてみた。
「まさか食べてないよね……」
「あんなの好き好んで齧らないよ」
僕の質問に耳の後ろに残っていた猫が応え、やれやれと腹に戻っていく。寝直すんだろう。
なんのかんので世話を焼いてくれた彼に、小声でありがとうと伝えていたのだけど……。
「知り合いっぽく振舞っちゃったし、これからのこともあるし、山音くんのこと、呼唱くんって呼ぶね!」
「えっ? あ、はい……」
「こーたくん……今日は本当にありがとうね」
「いえ……」
結局何もしていないも同然っていうか……。
その後、選択授業に二人揃って遅刻していき、二人が並んできたことで教室を驚愕の渦に巻き込んで、それから毎日、僕らは二人揃って登校することが日課になってしまった。
いつもご覧いただきありがとうございます。
明日は、五話 僕の前。二十時以降の更新です。