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一話 日常

 僕の朝は、フニフニと顔を押されて目が覚める。


「おはよコタ、朝だよ」

「うん……おはよう」


 僕の日常では猫が喋る。いや、普通の猫は喋らないけど、僕の部屋の彼は喋る。

 夜ふかしが日常の僕は朝に弱いから、夜行性の彼がこうして、僕を起こしてくれるんだ。


 ……夜行性? 普通の猫は夜行性であってると思うけど、彼は……。


「コタ、顔洗って起きるのと、ボクの爪で起きるのどっちが良い?」


 そう言われて、二度寝に入りかけていたことに気づいた。いかん、布団を出ないとまた血を見ることになる。

 抗い難い布団の魔力から必死で這い出して、僕は台所に足を向けた。

 玄関前の廊下に、小さな一口コンロとシンクのくっついた調理場が収められていて、朝はいつもここを使う。

 このワンルームマンションの一室が、僕の生活空間。

 冷凍庫から凍った食パンを一枚出す。

 食パンはそのまま冷蔵庫上にあるトースターに入れて、温めている間に着替え。

 三分後にチン! と、トースターが鳴るまでに済ませて、もう一度冷蔵庫へ。牛乳とマーガリンを取り出してから皿にパンを取る。

 マーガリンはたっぷり目に塗る。牛乳はコップ一杯だけ注ぐ。


「いただきます」


 パンと牛乳を流し込む。そして食器をシンクに置き、冷水を使って顔を洗い、今一度眠気を追い払う。

 僕の朝は、ここまでの流れがいつも決まっている。というか。半分寝ててもできる、体に染み付いたルーティーン。

 因みに猫の彼は、朝食なんて食べない。……ていうか、基本は食べない。生き物じゃないから。……でも鶏皮なら食べるんだけどね……好きなんだって。

 本日は燃えるゴミの日だったから、ゴミ箱の袋を外してきて生ゴミを放り込む。

 この部屋にゴミ箱はこの一つしかないから、指定のゴミ袋を直接はめている。そのため、これだけで回収が済むのは楽だった。

 施設にいた時は、集めて回るだけで大変だったから……。


「いってきます」


 誰も残らない部屋に、わざわざそう挨拶するのは、人以外のごちゃごちゃしたものたちに、最低限の礼儀としてだ。けれど、返事が返った試しはない。

 でもこういう礼儀を欠くと、後が怖いしな……それでやってる。


「忘れ物はない?」

「多分……」

「もー、出る前に確認しなよっていつも言ってるのに」

「忘れるんだもん……」


 別に入れたわけでもないのに、猫はいつの間にやら、僕の学ランの内側のどこかに陣取っているらしい。

 張り付いてる感覚はいっさいなくて、服も膨れてない。猫は液体だ……なんて言うけれど、彼の場合は、そういうのでもないと思う。

 僕の着てる、黒というよりは濃灰色(のうかいしょく)のこの制服は、まだ新品同様。

 今年の夏前に、今の高校に編入した僕は、皆より一つ年上だからか、初めからどうにも浮いてしまって、既にもう空気同然。話しかけてくる相手もほぼいなかった。

 ほぼ、なのは。

 一人だけ、気にせず話しかけてくる子がいるせい。

 最寄りの集積所にゴミ袋を置き網をかけてから、すぐ近くにあるバス停前に立つと、ここからはバスが来るまですることが無い。眠い……。

 本当は、ギリギリまで寝ておきたいんだけど、この街のバスは時間にルーズが過ぎる。

 大抵五分くらい遅れて来るのに、たまたま遅く出た時に限って先に走り去ってる。

 下手をしたら、ギリギリ一分前とかに走り去ってる……。

 だからこうして、ちょっと早めにここに来るようにしてた。

 それと……。

 もう一つの理由もある。

 集積所のすぐ向かいの家から、僕の学ランと同じ、濃灰色のブレザー姿で飛び出して来る影。


呼唱(こうた)くんおはよう!」

「お、おはよ……」


 元気よく家から駆けてきて、車道を確認して横断、びっくりするような眩しい笑顔を振りまく彼女。

 目立つ赤毛が、今日も頭の両側で括られてぴこぴこ跳ねている。


「あははぁ、今日は左はねだねぇ!」

「え……」

「そこじゃなくって後ろ側。ほらっ」


 なんの前触れもなく手を握られて、ビクッと肩が跳ねてしまってから、しまったと思った。

 だけど彼女は全く気にしないで僕の手を握ったまま持ち上げ、それを僕の頭に導く。


「うわっ」


 すると手のひらに、想定以上にはね散らかした毛の感触。パッと手を離した彼女は、くすくす笑いながら今度は、その手を自身が持ってた鞄に向けた。


「ほら座って、バス来る前に直しちゃおうよ」

「い、いいよ……学校行ったら、適当に濡らして直すし……」

「でもそこはねてる下は絶壁だもん。正直凄いよぉ?」


 鞄にやってた手を引っ込めてから、スカートのポケットに。

 そこから折りたたみ式の鏡を取り出して、それをパカと開いて僕を写す。


「うわっ、わっ!」

「ね?」


 なんとも形容し難い……はね散らかしの下の絶壁……。


「だから座ってほら、今さら恥ずかしがらないの!」

「い、いやっ……」

「うふふぅ、今日のは強情そうだぁ」


 わきわきと指を蠢かせ嬉しそうにそう言って、鞄から小ぶりなスプレーとブラシを取り出す彼女。


「や、でも、あ、朝日さんが……」


 こんなことしなくても、僕は……!

 だけど彼女はそこで、ぷぅっとむくれた。


「違いますぅ!」

「…………こ、心晴(こはる)さん……」

 ぷいっとそっぽをむかれた。

「…………あの……」

「………………」

「…………」

「……はーちゃん」

「はーいっ」


 元気に返事をすると、ぴょこんと跳ねる赤毛のツインテール。


「はい座って」


 もうさっさと済ませてしまったほうが良い……。

 腹を括って言われた通り、バス停の椅子に座ったら、心晴さんは僕の膝の上に当然みたいに自分の鞄を置いてから、僕の後ろに立った。

 僕ももう無言で、その鞄を僕のリュックと一緒に抱える。


「まぁ男の子って朝に鏡とか見ないよねぇ」


 見ないというか……無いというか……。


「一回濡らして乾かしたらだいたい直るんだけど」


 その時間も惜しいというか……。


「それより寝とく方が優先だよねぇ」


 う……読まれてる……。


「一人暮らしだもんねぇ。バイトもしなきゃだし大変だぁ、偉いよねぇ」


 サッサと髪に寝癖直し用のスプレーを吹きかけて、馴染ませるために指で触る。


「だからまぁ、これくらいは人頼っても良いと思うよぉ?」


 …………。

 後ろにいるから、彼女の表情は見えなかったけれど……。

 彼女がにっこり笑顔なのは、知っていた。

 この朝日心晴(あさひこはる)さんという人は、こうなのだ。

 日本人だけど、赤茶色の髪をしていて、それをいつもツインテールにしている。

 瞳がくりくりとおっきくて、ペリドットみたいな黄緑色で、笑うと八重歯がぴょこりとのぞく。

 この年齢の男としては身長の低い僕よりさらに低くてちっちゃくて、だけど弾けそうなくらいの元気を振りまいている。

 僕だけにじゃなく、誰にだってそう。

 

 バスが来るまでに寝癖が直って、僕らは同じバスに乗り込んだ。

 同じ学校で、同じクラスだからしょうがないよね……もう一つの理由にも関わるし。

 ここの停留所はまだ空席が結構あって、二人掛けの席が空いてたら、そこに引っ張っていかれる。

 それから彼女の取り留めない話を聞き、相槌を打つ時間。正直緊張して眠気は吹っ飛ぶ。

 二つほど停留所を抜けると、そこで彼女は鞄を残したまま、席を立って……。


「おばぁちゃん、おはよぉ!」

「こはちゃんおはようねぇ」


 乗り込んでくる、足腰の弱いお婆ちゃんのお手伝いをする。ちなみにこれは、月曜と木曜限定イベント。

 入り口近くの席にお婆ちゃんを誘導してから、じゃあねって戻ってきて、僕の横にまた座る。

 親戚か何かかと思ってたら、全然知らない他人のお婆ちゃんだった。


「鞄ありがとぉ!」

「う、うん……」


 そこからまた、相槌の時間。

 もう三つ停留所を過ぎると、途端に人が多くなってバスはギチギチ。学生とサラリーマンでひしめき合う。

 今度は僕がそこで立つのだけど……。


「芽衣ちゃんおはよぉ!」

「こはちー、こーたくんおはよー!」


 何食わぬ顔で席をガードしてるうちに、芽衣さんが来て、僕の代わりに座る。

 この人は三年生で、僕らとは学年どころか学校すら違ったけれど、心晴さんの幼なじみだ。

 二人席が無い時は、僕が立っておき、心晴さんが座っていた席を譲るのだけど、これにもちゃんと理由があった。


「こはちー、今日もありがとね」

「なぁんてことないよぅ」

「こーたくんもね?」

「はい……」


 そこからは心晴さんと芽衣さんが話に花を咲かせる。芽衣さんが下りるまで。


「じゃあまた明日ねー」

「うん。またねー」


 芽衣さんは僕らとは違う、この停留所が最寄りの公立高校に通っていた。

 ここでまたごっそり人が減り、二つ先の停留所が僕らの通う高校の最寄り停留所。


「おばあちゃんまたねー」

「はいよー」


 バスを降りる時、まだ乗ってるお婆ちゃんに挨拶してからバスを降り……。


「今日もミッションコンプリート!」


 心晴さんはそこで、快心の笑み。


「呼唱くんありがとね、今日も!」

「うん……」

「もっと根本的になんかできたら良いんだけどねぇ」

「うん……」

「でも、大騒ぎしたくないのも分かるもんねぇ」

「うん……」


 僕をちらりと心晴さんが見るから僕は……。


「あれくらい、髪のお礼だし……」


 そう言うと、心晴さんは、にこぉとまた。八重歯を見せて笑うんだ。

 同じバス停で下りる同じ学校の生徒は、僕らがこうして並んで歩いているのにはもう慣れっこ。

 クラスでも知れ渡っている。

 けれど、朝日心晴さんという人は、こういう人だからと、みんなが諦め半分。


「こはぽん、おはよー」

「さーぽん、おはよぉ」

「こはぽん、おーっす」

「なおぽんおーっす!」


 教室に入ったら、僕は知らんぷりで席に向かった。

 ここからは極力、話しかけないように過ごす。クラスのみんなは心晴さんが僕に話しかけるのは仕方ないと思っているけれど、僕のことは遠巻きにしている。ただ、心晴さんにどれだけ言っても全然彼女は気にしないので、彼女に訴えること自体は無意味と諦めている。

 教室中の子が挨拶のたびにぽんぽん言われる教室が、僕の今の教室。

 だけどそういったことに僕が加わっていないのは、前の教室と同じだった。


 僕だけは、山音呼唱(やまねこうた)という、この名前で呼ばれる。

 

    ◆◆◆

 

 山音呼唱(やまねこうた)十八歳は、去年、前の高校を二年目に、自己都合で退学した……ことになっている。

 でも本当は、学校に辞めるよう仄めかされたから、そうした。校長先生も、担任の先生も、もう抱えきれないって顔だったし。

 僕は昔から存在自体が異質で、人の社会にはお荷物だった。学校も、家族も、施設も、僕を持て余した。

 まぁ、僕自身が僕を持て余していたから、それは仕方がないことだと思う。

 初めは僕も、僕の異質さに気づいてなかったから余計にね、そう思う。

 僕の祖母が死んだ時、それが決定的になった。


 僕は京都の田舎に祖母と両親と妹と……五人で暮らしていた。

 両親は田舎を嫌がって都会に出たがっていたけれど、祖母はそれを断固拒否した。

 僕らだけが都会に行くこともできなかった。

 祖母は歳も歳だったし、周りには痴呆が始まってると思われていたから、祖母を一人ここに残していくのは世間体の悪いことだった。田舎はとくに、そんなのにうるさい。両親はそれにイライラしていたと思う。


 祖母は少し変わった人だった。古い人だから、迷信深すぎるんだって両親は愚痴ってた。

 だけど僕は、祖母の言葉の通りだって知ってたから、両親がそんな風に言うたび気持ちがふさいだ。

 祖母と世界を共有していた僕にとっては、祖母だけが、話の通じる相手だった。

 祖母は僕のことを『蓋が()うて難儀やな』と、哀れんでくれた。

 何が難儀なのかその時は……分からなかったけど……。

 祖母が唐突に他界して、慌ただしく葬儀を済ませた後、それが理解できる日はすぐに来た。

 田舎を離れ、都会に引っ越してきたその日から。

明日も夜八時以降で更新いたします。

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