十二話 ちがうよ
えらいことになった……。
「呼唱くんごめんね」
「う、うぅん、大丈夫」
失念していた問題に直面した。
いや、問題ってほどの問題ではない……のかな。だけどうん……うん…………やっぱり僕にはちょっと……。
ちょっと、刺激が、強い。
初日は正直、状況自体の衝撃で意識してなかったのだけど、翌朝。
心晴さんに、絆創膏を貼って欲しいと頼まれて、内心大いに狼狽えてしまった。
「パパとママには内緒にしてて、他に頼める人も、思い浮かばなくて……」
泣きそうな顔でそう言われてしまったら、断るなんてできるはずもない。
下ろされた髪を、両手で掬い上げて後ろを向く心晴さんの、心なしか赤く染まったうなじに、震える手で絆創膏を近づける。
このギョロつく目玉が無かったら、こんな勇気振り絞れなかったろう。毎朝心晴さんが彼氏さんにキスされただろう場所に、触れるだなんて。
なんか妙な背徳感が……いや、これは僕が意識しすぎなのかな? やたら胸が痛むし、なんかもう分かんない……。
「全然消えてくれないんだよね」
「だいぶくっきりついてるから、仕方ない……かな」
あれから三日経つけれど、心晴さんのうなじの鬱血は、全く色を失わなかった。
「絆創膏、お風呂入るとどうしても剥がれちゃうんだ。髪も洗うし……」
お風呂……。
想像しそうになって必死で頭を円周率で埋める。手に胸の感触まで蘇ってきそうになり、慌てて服で拭って誤魔化した。いかん。雑念が酷い。
本当は、彼女の鬱血が治りにくい理由は分かっている。あれがただのキスマークじゃなく、執着心を刻まれた、ある種の呪いだからだ。
猫に食べて貰えば良いのかもしれない。だけど、これは唯一の手がかりでもあるし、消した時相手にそれが伝わる可能性だって捨てきれないし、それにより、心晴さんをより窮地に追いやる可能性だってある……。
だから彼女には申し訳なかったけれど、自然治癒に任せていた。
とにかく彼女から、彼氏さんのことをなんとか、聞き出さなきゃならない。
そう思いながら、たいした成果をあげられず三日目なんだけど……。
「ずっと消えなかったら、どうしよ……」
日を追うごとに、心晴さんは天真爛漫な笑顔を失いつつあった。
今日は特に酷い。怯えているようにすら見えてしまう。そして本当は痣を早く消せるかもしれないという罪悪感も、日増しに募った。
でも……こんな言い方をしてはあれだけど、キスマークというのは、恋人の独占欲の現れだって話だし、好きな人にそれだけ想われているのだから、前向きに考えれば、喜べるくらいのことだと思う……のだけど……違うのかな?
恋人なんて出来たことのない僕には、推し量れない感情なのかもしれないけれど……。
「僕は、これくらいのこと全然、構わないから」
「うん……ありがと」
なんとかそう言った心晴さんと一緒に、今日もバスに乗り込んだ。
そして、お互い話さなくなっちゃったものだから、静かにバスの中で、並んで座しておくだけ。
どこかで切り出さなきゃとは思うんだけどなぁ……。
このバスに乗っている間がチャンスだと分かっているのだけど、心晴さんの彼氏ってどんな人? という、その一言が口から出てこない。というか、タイミングが見つからない。というか……。
心晴さんは今までも、全くそれっぽい話を口にしてこなかった。
僕に気を遣って恋バナ系を話していないというより、興味外といった様子で。
彼女は人気があると思う。
僕みたいなはみ出し者の耳にも、彼女を可愛いと思ってる男性陣がアプローチしている声や、どこそこに呼び出して告白する……なんて話を耳にしたりするのだけど、彼女はそれを意に介さず、サラッと避けてしまうようだった。
同じ中学校から進学してきた子らは、挑戦するだけ無駄だと助言していた。
彼女はそういう事柄に疎くて、異性に対する興味がまだ無いのだと。
実際心晴さんは、男女分け隔てなく優しく、明るく、元気だ。性別に全く頓着しないから、クラスのみんなは助言通りと思っているよう。けれど、それは違うのだろう。
だって彼女には恋人がいる。
強い情念を抱き、うなじにキスマークを刻むような相手が。
だから学校で、その手の話を全てスルーしていたのは、その彼氏さんのためなのだろう。相手が定まっているから、モーションをかけられても応じなかった。
親にも内緒の関係なのかな……。
キスマークをつけられたことを正直に告げられないとしたら、そうなのかもしれない。いや、高校生だしそれはまぁ……ちょっと親には言いにくいかも?
女の子なら当然心配するのじゃないかとも思う。痕をつけられたことに、本人の同意が無い今回の状況ならば特に。
もしくはその……もしかしたら、あくまでもしかしたらだけど、キスマーク以上のこととかも……して、いる……から、言えない、とか?
そう考えると、なんか酷く、こう……精神的にくるものがある。
高校生なのに……と、反発心がむくむくと膨れてしまう。
もしかしたら、相手は年上なのかな。
まだ未成年の高校生に、少し早いんじゃないかというようなことを、無理強いしたりはしてないかな。
それともこれはやっかみなのだろうか?
僕みたいな、人並みな生活すらまともに送れない人間には、到底想像できないような、充実した時間を過ごしているのだろう、見たことすらない相手に対しての……。
……僕、なんで腹が立ってるんだろう。
いや、彼女の意思に反した行いを、年上の分別つけなきゃいけない立場の人が強いている状況に憤慨しているのかな。
いやいや、でもこれ推測だし。実際のところは分からないのに。
分からないのに…………。
不意に心晴さんが席を立ったから、驚いて飛び上がってしまった。
い、いやっ、やましいことは別に考えてなかったと思うけど、つい。
「おばぁちゃん、おはよぉ」
「こはちゃんおはよぅねぇ」
あ。今日はお婆ちゃんイベントの日か。
お手伝いに行く心晴さんを見送って、いつも通り帰ってくるのを迎えた。
また無言で過ごして、沢山の人が乗り込んできて。
「芽衣ちゃんおはよぉ」
「こはちー、こーたくんおはよ……っ。
こはちー、なんか調子悪い? 大丈夫?」
心晴さんの顔を見るなり芽衣さんがそう言い、眉を寄せた。やっぱり今日は特に様子が変だよなと、改めて感じる。
「なんでもないよ」
「なんでもなくないよ。
……ねぇ、何か心配なことでもあるの? それなら話して」
そう言った芽衣さんに、心晴さんはほんとなんでもないよと苦笑い。
結局話すことはなく、それよりもと話題はすり替えられてしまった。
「芽衣ちゃんの進路はどう? 順調?」
「うん……一応。履歴書書くのがちょっと面倒くさいけど」
話したくないのだなということは伝わって、だから彼女もそれ以上は追求せず……。
心配だけど、何か踏み込めない様子が、やはり少し気になった。
最寄りの駅で芽衣さんを見送って、学校に着いて、結局切り出せないままで……。
「コタ……」
「ごめん、なんか切っ掛け掴みづらくて……」
猫にも情報収集してよと怒られた。
まぁ、それでも途中で口を挟まず、やりたいようにやらせてもらえているのは感謝してるんだけどね。
◆◆◆
本日もつつがなく一日が終わってしまった。
心晴さんはクラブがある日で、僕は先に帰宅。携帯を見つつバスに乗って、なんとなくふと、外を眺めたのだけど……。
「あっ……」
バス停に芽衣さんがいて、僕を見つけて軽く手を振ってくれた。
バスに乗り込んできた芽衣さんは、そのまま僕の隣席へ。何気に並んで座ったのは初めてだ。
「帰り一緒なの、珍しいですね」
「うん。ちょっとこーたくんと話したくて」
? 僕?
「こはちー、なんかすごく変だった……。
髪型変えてからずっと変なんだけど、何か知らない?」
探るような視線を向けられ、返答に困ってしまった……。
何も知らなくは、ない……。だけど、彼女の名誉のためにも言えることじゃないと思う。
言い淀んだ僕に、芽衣さんは少し逡巡してから。
「こーたくん、こはちーと付き合ってる?」
「っ、はぁ⁉︎ い、いやっ、そんな畏れ多いっ」
「……やっぱりそっか。そうだよね……。
髪型変えてきたの、こーたくんを意識してるのだと思って初めは、嬉しかったんだけど……。
なんか感じ違うなって……。やっぱりそっか……」
こはちー、やっぱりまだ気にしてるんだろうね……と、言葉が続いた。
その言葉に、どうも僕の知らない、彼女らの昔が関わっているのだと理解したのは……。
またあの男の子が、姿を現したからだ。
僕らの並んで座る席の横、芽衣さんの隣。バスの通路に立つ、季節外れの防寒具に着膨れした姿。左側頭部の陥没した御霊。
真っ黒の空洞みたいな瞳が、芽衣さんを見て、次に僕を見た。
また、僕に入ろうと……?
「……なにか、あったんですか?」
警戒しつつ、そう聞いた。
万が一彼が僕に入ろうとしてきても、日中だし、猫がいるし、大丈夫だとは思う。
だけど、猫に彼を食べられてしまうのも避けたい。彼の未練は、利己的な欲求ではないように思える。
「……こーたくん、ちょっとは聞いてるんでしょ?
私のこと、はじめての時、めーちゃんって言ったもんね」
そう言われて少し困った。
実際は何も聞いてない。この少年がそう呼んでいたから、僕のでまかせが信憑性を帯びるように吐いた嘘に、利用しただけなのだ。
だけど……。
「仲、良かったんですか? 三人は……」
そう、カマをかけた。
「うん……」
それに苦い笑みを浮かべる芽衣さん。
その表情を覗き込む、闇のような瞳の少年……。
「……でも、進歩かな。こはちーが、こーちゃんのこと誰かに話したなんて。
……こーたくんのこと、それだけ特別に思えるようになったんだと思う」
こーちゃん……。
「こーちゃんもね、幼馴染。私たち三人ご近所さんで、昔はよく一緒に遊んでたの。
今はもう、マンションが建っちゃってるところが、私たちの遊び場だった。すぐ後ろに川が流れてて……」
ん? と、思ったのは、僕の住むマンションも、廊下側は川に面していたから。
「そこの工事現場で、よくかくれんぼしてたの。
本当は入っちゃいけなかったんだけど……隠れる場所がいっぱいあったし、なんかこう、ワクワクしたっていうか。
でもそこでこーちゃんは行方不明になってさ……。
私たちは、先に帰ったんだと思って気にしてなくて、翌日に……。
川の下流で、見つかってね……」
沈んだ表情で芽衣さんが語るのを、じっと見つめる少年。
「こはちー、その日こーちゃんと喧嘩してて、見つからないこーちゃんを探さないで帰った。
だからもし、ちゃんと探してたら、こーちゃんは死んでなかったんじゃないかって……」
ちがうよ。
男の子が、僕を見据えてそう言った。
「……川の下流……?」
「うん。冬だったし、多分、雪に滑って落ちたんじゃないかって……」
ちがうよ。
「だけど私たち、音にも気づかなくて。
全然、気づいてあげられなくて……」
ちがうよ。
「なんとなくそのことでお互い、居心地悪くなっちゃってね。少しずつ疎遠になって……」
ちがうよ。
「……こーちゃんね、こはちーのこと好きだったんだ。
それでよくちょっかい出して、喧嘩してた……でも、本当はこはちーもね、悪く思ってなかったと思う。
だから、こーちゃんのことに責任感じてるんだと思う。
だから……」
ちがうよ。
ちがう。ちがうと繰り返す少年の瞳は、ずっと虚ろだった。
その言葉が何を指して囁かれているのか分からず、戸惑うことしかできなかったのだけど。
「……なにが?」
意を決して、そう聞いてみたら……。
いとこ。
違う言葉が返った。
「だからね、こはちーは誰も好きになれない。怖いんだと思う」
ご覧いただきありがとうございます。本日が更新最後となります。
後半は、たいあっぷコンテスト後となりますので、しばらくお待ちいただければ幸いです。




