九話 猫
僕が何をしてるかを説明するために、少し前の話をしようと思う。
僕が、猫と出会って、今の生活に至る話。
ことの始まりは、約一年ほど前のことだった。
僕のいた児童養護施設は、中学校を卒業したら、進学しない者は働いて自立しなければならないという決まりがあった。
万引きの濡れ衣を着せられて、それを受け入れた僕は、高校を中退することも受け入れ、当然それに倣うことになる。
だから僕も、働かないといけない。どちらにしても、十八歳になればここは出なければいけなかったのだから、現状はあまり変わっていないと、そう思うことにして、気持ちをなんとか切り替えようと努力していた。
ただ、働いた経験もなしにいきなり自立は難しいから、色々と今後を考え動く必要がる。世に出てしまえば、それを考えるような生活のゆとりなんて無くなるだろうと、漠然と感じていた。
だから、働きながら生活を整えられるよう、施設に自立援助ホームへの移動手続きを進めてもらって、その間に働き口を見つけて……と、そんな風に考えていたのだけど。
今すぐここを出てほしい。
と、施設長に言われた。
もう面倒見切れないし、今まで大抵の施設は渡り歩き、新たな施設も見つけられないからと。
どうにかして、実家に帰るようにと……。
そんなことできないって、分かってるくせに……。
僕の保護責任を放棄し、今回のことにも関わろうとしなかった両親が、今さら僕を受け入れるはずがない。
だから、そのまま自立して働くと言い、半ば無理やり施設を出た。
補導歴だけでもああだったのに、非行歴までついちゃったし、今回連絡が行ったことで迷惑も掛けたろう。
だから尋ねたとしても、運が良くて門前払い。悪ければ、警察を呼ばれてしまう可能性も捨てきれない。
そろそろ六年、家族とは顔を合わすどころか声すら聞いていない。
小さかった妹も、もう小学校を卒業しようとしている頃だろうし、波風立てたくないはずだ。
だから、こんな外聞の悪い兄は、いない方が良い。
ただ、その場合の問題は。
じゃあ、どこに行けば良いだろう?
ということ……。
そもそもこの世界に、こんな僕がいて良い場所なんて、あるのかな……。
「ねぇ君、それは好んで連れ歩いてるのかな?」
ボストンバックひとつを持って、黄昏時の住宅街をとぼとぼと歩いていた時、そう声を掛けられた。
その声が耳に入ると共に、ゾクリと背筋に悪寒が走って肌が泡立つ。
モノに、明らかな意思がある形で話し掛けられたのは、初めてのことだったんだ。
その声は、幼く可愛くて、鈴を転がすような高音なのに……おどろおどろしい重さがあった。
連れ歩いている……と、表現されたのは、僕に憑依しようと後を追ってくる、このモノたちのことだろう。
まるで電車ごっこのように、序列順に並び、僕の後をついてくる御霊たち。僕が眠り、隙をみせるのを待っている。今日は特に、多い……。
こんな状況では、周りに迷惑しかかけないだろうと思ったから、簡単には下りてこれないような山奥にでも行こうと思って歩いていた。そこで眠れば、山を徘徊するだけで済むだろうと、そんな風に。
なのに歩いていただけで、生涯最悪のモノに遭遇するだなんて。
あぁ。詰んだんだと思った。
一番遭ってはいけない、普通は遭わないはずのモノが、僕を見つけてしまった。
『妖には、関わったらあかんえ。あれらは人の理の外のモノやしな』
ばぁちゃん……僕はとことん、運が無いみたい……。
ばぁちゃんがいなくなってから、僕はほんと、何も得られなかったよ。
『せやけど、どうにも関わらなあかんようになるかもしらん。
覚えとき。妖の、血ぃは言の葉、身は書物やて』
「……好んでは、いません。
ただ、自分ではどうにもできないので、他所様の迷惑にならないところに、行こうと思ってるところで……。
御前をお騒がせしたのならば、申し訳ありません。すぐ退きますのでご容赦ください」
震える唇で、極力丁寧にそう言い、声の主に頭を下げた。すると声の主は、若干機嫌を良くした様子。
「ふーん、でも君さ、それ引っ張られてると思うよ。
他所様の迷惑にならないところがこの先なら、あるのは自殺の名所だもん」
そう言われ、はじめて視線を上げた。自分が引っ張られていることに、今の今まで気付いていなかった。それをこの妖は、敢えて指摘してくれた?
声の主を条件反射で確認したのだけど……。
そこにいたのは、青灰色の瞳をくりくりとさせた、ちっちゃく可愛い黒仔猫。
「おおかた、もう死んでもいっかなって気分になってるんでしょ。
ダメだよぉ、そういうのはさぁ。意識してなくても寄せちゃうんだよねぇ」
声の圧とは裏腹に、それ以外は可愛さしかなかった。
生まれてから、二日三日経ったくらい? ほわほわの産毛にまみれ、ちっちゃすぎる手足を縮めて、毛玉みたいに丸まって。
……手乗りサイズ。
禍々しさしかないのに。
呆然と見入ってると、そのちっちゃなもふもふは座り直すみたいに体を小さく揺らした。
そうして、キラキラと潤んだ青灰色の瞳をキュッと細める。
「でも、もう死んでもいいならさ、その前にちょっとだけ、その体を貸してくれない?」
何気ない口調を装った、欲望の滲む声。
あぁ、やっぱり妖は、妖だ。この悪いモノたちと同じ、結局僕の体が欲しい……。
祖母が言っていた。妖は人の世には関われない決まりができて、領域を現から切り分けたのだって。
だけど妖の存在意義は人との関わりの中にあることが多い。関わらずにはおれない性質でもあるんだって。
だから、確認を取る。
関わって良いかと、聞いてくるのだって……。
ごくりと唾を飲み込んだ。下手に返事したら、僕はきっともう、僕じゃなくなる……。
僕の体はこの仔猫に盗られ、返ってこないだろう。何に使われるか……食われるだけで済めば良いけれど、きっとそうはならない。もっと酷いことをするだろう。
だけど返事をしなくっても同じだ。
視認された以上、逃げることも無理だろう。
どっちにしても、僕は死んで終わるんだ……。
でも……。
誰かの迷惑になる形だけは、いけないと思った。
幼い妹の姿が脳裏にある。ふくふくの柔らかい手。僕を恐れず、触れてくれた手。
もし僕が体を奪われ、この体が妖の好きにされてしまったら……。
「……ちょっと、とは……どれくらいでしょう」
震える声を振り絞って問うた。
この仔猫が怒れば、僕は即座に殺されるだろう。だけど、どう転んでもそうなるなら、足掻くだけ足掻こう。
「具体的に、言ってもらえないと……妖の時間感覚は、千差万別だと聞きました」
「おやおや。見たことない器だと思ってたけど……身内に同類がいるのかな?」
そう言い、スンスンと鼻を鳴らし、似たのを嗅いだ記憶は無いんだけど……と、仔猫。
その隙に尻尾を確認してみたけれど、二股であったりはしない様子。
いや……あれは年老いた猫がなるんだったよな?
でも彼らの形って不特定だって話だし……仔猫に変じるくらいなんともないのかな。
この仔猫はどうみても生後数日。
ギャップ狙いかな? 可愛いのに怖い……。
「うーんそうだね……二、三時間かな?」
そして思った以上に具体的でかつ短い時間が述べられた。
「二、三時間……?」
「うん。それくらいで済むかな。ちょっと小物を回収してくるだけだし」
小物を回収する仔猫……。
妖のイメージと結びつかない。彼らは人の生活様式なんて頓着しないんじゃなかったっけ。
それに、今まで御霊に体を奪われた経験だけは数知れずある。数時間で返してくれた人なんていない……。一度奪われれば、御霊の限界まで連れまわされた。
祖母が関わるなとまで言っていた妖は、御霊以上に危険な存在だと認識している。
でも妖は、言葉が血だと祖母は言った。言ったからには違えない……はずだ。
もう少し、話を進めてみよう。
「あとその……対価は?
妖との約束事には、対価を決める必要があるんですよね?」
そう言うと、仔猫はにまぁと、笑みを浮かべた。笑う仔猫は思った以上に怖い。
「話が早くて助かる」
よく知ってるねぇと、ひきつれを起こしたみたいに暫く笑い……。
「そうさなぁ。じゃあ人間の金銭で五千円と、今夜一晩の宿。それと睡眠時間でどうだ」
「……?」
睡眠時間という、おおよそ妖が口にしなさそうな言葉に眉を寄せると、仔猫は呆れた溜息を吐きつつ、自身の両腕の上に、顎を乗せる。
「だってなぁ、そんなの引き連れて歩いてれば、当然眠れないだろうよ。
どうやら君には蓋が無いようだし、入られ放題でしょ。
だけど僕に体を貸せば、暫くは僕の匂いを身に纏うことになる。
そうすれば一晩くらいは、その連中も寄り付けない」
あと、人の世って今バイトだって時給千円ぐらいなんでしょ? 深夜帯って料金高くなるっていうし、三時間取ったら当然夜中だし、ホテルとか探すの未成年だと厳しそうだし……。と、想像以上に具体的かつ饒舌……。
ただ僕は、その内容よりもこの仔猫が口にした『蓋が無い』という言葉に頭を囚われていた。
祖母も言っていたこと。蓋が無くて難儀って……これの意味を、もしかしてこの仔猫に聞けるのでは?
あの頃は守られていることすら理解できてなくて、疑問も抱けなかった。だけど今なら、どうして僕がこんな風なのか、これが何なのか、分かるかもしれない。
関わっちゃいけないという祖母の言葉より、現状をどうするかの方が、今の僕には重要だと思えた。
だから、どうせ死ぬなら。
「…………分かりました。お貸しします」
「そうこなくっちゃ」
決意して返事をしたけど……ものの二分くらいで大変後悔した。
「あぐぁ、あっ、あアぁぅゔ……っ」
「こら、もっと開いてよ。こんなにちっちゃくなってるのに飲み込めなくてどうする」
よりにもよって、仔猫の踊り食いを要求されたのだ!
人の喉はこんなでかいもの丸飲みするようにはできてないよ! そう言いたいけど、顎が外れそうなほど口を開いているからそれもできない。喉の奥に入ろうとする仔猫が気道に爪を立てる痛みと込み上げてくる吐き気。呼吸もできず、足掻けば足掻くほど、痛みと苦しさが増した。
無理、無理だって。喉が裂ける!
首から胸へと広がっていく圧迫感に、溢れる涙。苦しい、痛い、騙された、酸素が足りない、こんな死に方なんて、あんまりだ。もう、嫌だ、嫌……っ。
唐突に、ストンとそこで、圧迫感が失せる。
それとほぼ同時に、胃の辺りから、ブワッと広がった何か。体全体に波動が広がっていくような感覚とともに、魂を鷲掴みされたとでも言えば良いのか……何かに囚われてしまった違和感。
「ふぁ……君下手くそすぎ。知ってるから慣れてるのかと思ったのにっ。
上向いたら嚥下してよ。僕が自分で入るの大変なんだから!」
自分の口が、勝手に言葉を紡いた。
「ふむ。でもまぁ悪くはないよ。うっわぁ、人の手の指ってこんなに色々動くの?
それに凄っ、世界が縮まった感、凄っ!」
興奮している仔猫の、ワクワクとした高揚感すら伝わってきて、その今までにない感覚に戸惑った。
御霊とは明らかに違った……。
御霊は、こんな風じゃない……。少なくとも、感情まで共有するような経験は、今まで無い。
キャッキャと笑って遊んでいても、そこに喜怒哀楽などの情感は希薄で、彼らはどこか、虚ろだった。そう、刻まれた記憶を再生して、それを遠くから眺めているような……そんな感覚に近い。
だけどこれは。
感情すら共有しているこの感覚は……。
「……あまり、重ねない方が良いと思うよ。
君と御霊はともかく、ボクらは全く別物だからね」
……重ね……?
「君、慣れてないわりに馴染みが良すぎる。
まぁ、ボクも憑依はさほど経験してないし、結局受け売りなんだけどさ、僕らの感覚に添いすぎると、人の部分を磨耗するらしいからね、気をつけた方が良いよ」
ゾクリとした。
人の部分を磨耗する……人らしくあれなくなる。
「ボクらの感覚に、あまり共感しないことだよ。それが君の魂を護ることになる」
そう言って、口角の端を引き上げる自分の体。
「おっといけない……。三時間なんてあっという間だよね。急がないと」
そうしてさらに、後悔することとなった。
でも…………。
結局僕はそれを、受け入れるしかなかったんだ。
本日もご覧いただきありがとうございます。
明日は、十話 妖 です。




