プロローグ
僕じゃない。
僕じゃなかった。
そう伝えても、誰一人として、その言葉を聞いてはくれなかった。
僕じゃない。
僕がやったんじゃない。
どれだけそう訴えても、嘘だ、見たもん! と、投げつけられた否定が選ばれた。
僕じゃない。
本当に僕じゃない。
だけど君、実際これが鞄に入っていたろう。
そう言われてしまえば、僕にはもう、続ける言葉がなくて。
だけど本当に、僕じゃないんだ。
◆◆◆
空は、僕の都合なんてお構いなしだ……。
まとわりつくような霧雨。顔に絶え間なく、霧吹きをかけられているような不快感。
手で拭うと思った以上に濡れていて、払いきれなかった水滴が、顎から喉へと伝っていった。
ほんと……何が悲しくて雨の中、夜のゴミ捨て場にうずくまって、ゴミ袋に擬態しているのか……。
いつまでこうしてるんだろ……。
もう何度目になるかわからない欠伸を噛み殺した時だ。
「冷たっ⁉︎
あーもー……やだー、帰りたいー!」
腹に鋭い爪を引っ掛けられた痛みと声に、つい悲鳴をあげそうになって口を塞いだ。必死で堪えたのに、腹の声は遠慮なく続いて……っ。
「もうやだっ、なんで雨⁉︎ 今日に限ってさぁっ」
ちょっ、騒いだら見つかるっ。
「シーッ、静かにしてくださいっ」
するともぞりと腹が動き、不満たらたらの声。
「君が冷たいことするからじゃんっ」
「悪気は無かったんです!」
ていうか、この状況で僕にそれを言うの? 僕の服の中に丸まって、ぬくぬくしているだけのくせにっ。
そう思うけれど、それを口にはできない。
「ボクは濡れたくないの! ボクといる時はもうちょっと気を使ってくれる⁉︎」
パーカーの内側と喧嘩してるとかほんと不審者だからやめて、お願い!
てか、一滴、二滴の水滴くらい、大目に見てほしいものだよ。僕なんかずぶ濡れなのに。
だけど、かりにも猫だしな……濡れたくないのは本能だろうし……。
彼の気分を害してしまって得することなんてひとつもない。だから僕は、猫撫で声で懐柔作戦に出ることにした。
「以後気をつけます。水滴、落ちないようにしますから……」
「しょうがないなー、ホント気をつけてよ?」
なんで僕が悪いみたいに言われてるんだろう……。
彼の指示でここにしゃがんで早二時間。こんな夜中に待機させられて、その挙句の仕打ちがこれ?
……でも、やっぱりそれも、言えない……。
言えばどんな目に合うか分からない。最悪、死だってあり得る相手だ。
そんなやりとりをしていたら、フッと闇が深くなって、見上げると、部屋の明かりがまたひとつ消えていた。
「やっとかぁ……もう少し待ったら、行くよ」
人が寝静まるのを待って、敷地内に潜入……とは、聞いたけれど、実際のとこ、ここからどうするんだろう……。
小物を回収するって話だったし、人目に触れないで引き取らなきゃならないってことだと思う。けど、こんな時間まで待つっていったい、どんな品なのか。
人の世の理なんて気にしないだろう妖が、人に気を使ってまで回収しなきゃいけない大切なものっていうのが想像つかない。
そんな風に考えていたら、もぞりと腹が動いた。
「そろそろ憑依しとこっか」
そう言うのと一緒に、肩から黒仔猫の首だけが、にゅっと飛び出す。
生後数日しか経過してないくらいの幼気な姿。その中で青灰色の瞳だけが、宝石みたいに煌めいている。
「それ、怖いからやめてくれませんか……」
仔猫の生首が生えてるようにしか見えないんだよ……。
「誰も見てないんだから、細かいことは気にするなって。
それよりも、そろそろ夜目に慣らしておいた方が良いと思う。
ギリギリまで待ってると、また酔っちゃうかもだしさ」
酔う理由の大半は、視界の変化じゃなく、憑依されてることへの違和感や嫌悪感だと思う……。
だって、鼠とか、蜥蜴とかを、面白そう、美味そうって感じる……弄んで、噛み締めたいって生唾を飲み込んだりするんだよ。
もし彼が本能の誘惑に負けたらと思うと凄い怖い……。だって猫はゴキ◯リすら口に含める生き物なんだ。
しかも憑依の仕方がもう、あれだし……。
「なあなあ、君の身体、早く入りたい。なぁ、もうそろそろいいじゃん。なあなあ」
青灰色の瞳に興奮した感情が揺れ、チロチロと燃える……。
「分かりましたからっ……はい、どうぞ」
観念して上を向いて、大きく口を開く。ついでに瞳はぎゅっと閉じた。
間違っても、見ていたくない。気持ち悪さに、逆に吐きそうになってしまう。
すると……。
胸元からするりと何かがすり抜けていく微かな感覚の後、口いっぱいに広がる存在感。口内を喉の奥に向かいグッと押し広げ、空気の塊が通るような圧迫感。
それを必死で嚥下し、胃の中に落ちたと思ったら、全身にブワッと血が広がるような……急に血流が増えたような感覚の後、指先まで神経が行き届いたのが分かる。
すると勝手に瞳が開き、今まで藍色に染まっていた闇夜が、まるで曇り空の日中みたいに見渡せるようになっていて、一瞬の変化に唖然とした。体感するたび、慣れそうにないなと思う。
「要領掴んできたじゃん。今のは上手かったよ」
口が勝手に言葉を紡ぐ。僕じゃない意識が、僕より僕を支配してる。
「ははっ、やっぱ楽しいなぁ。世界が小さくなった。ほんと、面白い」
あの……はしゃいでると見つかるから、もう少しきちんと隠れませんか。
「はいはい、だけどさぁ、もう寝息しか聞こえないよ? 寝てると思うけどな?」
そう言われて耳をすますと、何かざわざわするものがいくつも重なっている感覚。
「どれも規則正しいから、起きてるのって、あのカチャカチャ言ってる四階の窓だけだよ」
いろんな音がありすぎて、正直全然、聞き分けられない……。
「とにかく、もう寝てるよ。だから行こう」
そう言いながらも、僕の制止なんてどうせ聞いていない彼は、さっさと隠れていたゴミ袋の陰から出てしまい、百均の半透明なレインコートを脱ぎ捨てた。
人の身になれば、雨も然程気にならないのか、はたまたもう濡れてるから気にしないのか……。
全身を無個性な黒一色の衣服で固め、黒いマスク。パーカーのフードをまぶかに被り、口元までしっかりチャックを押し上げた僕の服装。なけなしのお金と手持ちの荷物から、精一杯用意した潜入装備。
何重に隠したって不安は拭えない。僕だって痕跡は、絶対に残したくない。
だからこれだけは、しつこいくらいにお願いした。彼が僕に憑依しちゃうと、僕は自分で動けないのだから、彼だけが頼りだった。
「絶対にバレないと思うけどなぁ。瞳孔が縦に長い人間なんて、いやしないんだからさぁ?」
くすくすと笑う僕の瞳は今、青味を増しているうえ、少しの光源で光って見えることだろう。
そして瞳孔は縦長にスッと細まっているはずだけど、光源のない今は、人には無いくらい、丸く大きくなっている。
トントンと、軽くジャンプを繰り返してから、数歩後退し、ちょっとの助走から、ふわりと体が宙に舞う。
ゴミ置き場の高い塀に足を掛け、グッと太腿に力を入れて、さらに跳躍。二階のベランダの縁に手を引っ掛けて、少し足りない高さを腕の力で補い、カエルみたいな体勢で着地。
そうしてベランダ内に降りるのかと思いきや、そのまま細い足場を、背を低くして走り出した。
お尻がスカスカすると感じるのは、憑依している彼の感覚。きっと尻尾が無いせいだ。そのため、猫でいる時よりちょっと、運動音痴になるらしい。
ベランダの端から部屋を繋ぐ渡り廊下へとジャンプ。どうするのだろう? と、思っていたら、エントランスの屋根へと視線が固定された。
そこに何しに行くのだろう?
「え? 雨どいがあるじゃん」
あるけども……って、まさかそこを登る気じゃ⁉︎
むりむりむりむり! そんなチャチな金具、十七歳の体重を支えられるわけないでしょ⁉︎
「登らないよ。ちょっと足場に使うだけだって」
そう言いつつまた廊下の手すり壁に飛び乗って、虚空に向かって跳躍っ⁉︎ ここ二階なんだよ、地面は遥か下なんだよ⁉︎
僕の悲鳴はいっさい無視して、雨どいの支えになっている金具に靴先と手を引っ掛けるように置いたのは一瞬。直ぐにグッと太腿に負荷が掛かり、さらに上へと体をしならせる!
「あれくらい余裕だって分からないかな?」
普通に考えたら飛び移れないの!
言葉を選ぶ余裕もない僕を尻目に、彼はくすくすと笑う。そうする間にも体が三階廊下の手すり壁に近付き、その上にふわりと足を下ろした。
なんの苦もなく、目当ての部屋に到着し、ここまで来ると確かに聞き分けられる、規則正しい息遣い。
そのまま僕の体は、右手を窓へと伸ばした。……開いてる。
部屋に入ると、自然と目が引き寄せられた。
あそこに……何かある。
電球が沢山ついた鏡台の横に、マンション住まいの女の人が個人で持つにしては大きな、キャビネット型ショーケース。その、仕切られた枠のうちの一つに。
虹彩が黄色い目玉が。
「ははは、すっごい絵面。キラキラの中にエッグい!」
心底楽しそうに笑って言った。
でも、普通の人にはそう見えない。
意識して瞳を凝らすと、目玉はぼんやりと、おっきな宝石のついたブローチ状のものに見えた。持ち主にとってこれは、装飾品なんだ。
「どう見たって目玉なのにねぇ? なんでそう見えるんだろう」
そう言いながら彼は、当然のようにその目玉に手を伸ばす。
……え、ちょっと。
回収って、まさか……窃盗?
「見て分かるでしょ」
聞いてない! 大切なものを回収するって言うから、人に見られちゃ駄目だから、こうして来たんじゃないの⁉︎
「そうだよ。これは合法的に買われた品じゃない。市場に出回らない品なんだ」
だからって、盗むだなんて聞いてない!
「これ以外に回収する手段は無いんだよ。これに関してはね」
そんな押し問答をしていたら、もぞりと背後で、動く気配。
心臓が跳ねた。
「うそ……だ、誰⁉︎」
お、起きた⁉︎
僕の顔が見られる。
僕が覚えられてしまう。
僕が特定されてしまったら。
僕……っ。
恐怖で身がすくんだはずなのに、僕の体は宙を舞った。
次の瞬間、身を起こした女の人を跨ぐように立っていて、右足が女性の左肩を踏みつけ、ベッドに押し戻す。
な……何してるの⁉︎
「やぁこんばんは。ボクらのモノを返してもらいに来たと言えば、君には意味が通じるよね?」
グリっと踵に体重を乗せて、恐怖と痛みに表情を歪めた女性を、にんまり笑って見下ろして。
「うん、分かってるよ。君はこれを買っただけって言いたいんだよね?
うん。だから僕もまだ我慢してる。
だけどねぇ……これ、どうして買ったのかって部分だよね?
それで、呪いたい相手が、あそこの写真の子なわけだ?」
視線が動き、壁に貼り付けられた沢山の写真を見た。顔に無数の針を刺された女性が何枚も貼られている。
えぐい……気持ち悪い……平然とそれをしてしまっているこの人の思考が怖い……。
だけどそれにも勝る恐怖は、僕の視線が女性の視線と絡んでいること。
僕の姿が、女性の見開いた瞳に逆さまで映ってる。
まんまるく大きな瞳孔の、アクアマリンのように青く光る瞳がにんまりと、三日月みたいに弧を描く。
「人を呪わば穴二つ……って言うんだよ。自分だけ都合良く、おいしいとこだけが貰えるわけないじゃない。
だけどまぁ、今回は、これを買い取った大金に免じて、一回だけ、見逃してあげる」
僕には理解できない会話。
だけどそこで僕の体はまた、グッと顔を、足下の女性に近づけた。
逃げようと顔を背けた女性の顎を掴んで、無理やりに引き戻す。
爪の食い込んだ頬と、歪められた顎のライン。痛いのか、くぐもった悲鳴をあげる女性。
顔、僕の顔っ、見られちゃう、嫌だ、やめてよ!
「一回だけ。だよ。もう君の、顔も、匂いも、覚えたから。
次が、早くやってくることを願うよ。君はどうせ、また手を出すんでしょう?
別の新しい何かに……。
そうしたら、ボクが君を食べに来て終わりにできる……」
腰を屈め、顔を近付けて僕は、裂けそうなくらい唇を横に開いて笑う。女性をじっと見据えて。
恐怖に引きつった表情をしていたその人は、次の瞬間意白目を剥いて動かなくなってしまった。
「じゃ、おやすみ〜」
寝台から降りた僕は、そのままキャビネットケースの目玉を手に取りベランダへ。
そしてひらりと、飛び降りた。
ご覧いただきありがとうございます。
こちらは6月に開催される、絵師さんとのコラボ制作、たいあっぷコンテスト出品作品です。
とは言えこちらにも最後まで投稿されますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。
現在書かれている場所までは毎日更新で進みますので、楽しんでいただければ幸いです。