そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)5.1 < chapter.5 >
それから数日後、赤ん坊はベイカー男爵領の児童養育施設に引き取られた。この施設には毎年十名前後の乳幼児が入所する。経済的な事情、保護者の入院、死亡、逮捕収監など、入所の理由は様々である。その中に生後半年で保護者のいない赤ん坊が含まれていても、誰も疑問に思わない。赤ん坊の出自を有耶無耶にするには、この上なく都合の良い施設であった。
なにしろ、まだ口も利けない赤ん坊だ。ある程度育ててみないことには、その後の身の振り方も決められない。サティ・ベイカーに関する事案は、判断保留という事で決着した。
キールが引っこ抜いた神の鰓は、ガラス瓶を返却するついでに、魔法学研究所へと持ち込まれた。その際、ベイカーのブーツに絡みついたイネ科植物の断片、グレナシンの髪についていた砂、アル=マハが浴びた泥、ゴヤの服に染みていた海水、ロドニーの靴底に付着していたアンモナイトの殻の欠片も、鰓と一緒に研究所に持ち込まれたのだが――。
「未知の細菌、現生生物には存在しないDNAパターン、なんらかのウイルス由来と思われるRNAと、絶滅したはずの古生物、新種の微生物、その他様々な『ありえないモノ』が発見されました」
「はあ、そうですか……」
研究所からの連絡を受けたベイカーの返事は、たったそれだけだった。
魔法学研究所は、今回採取されたサンプルの培養を行い、最終的には古生物のクローニングに挑戦するつもりだという。神の世界から持ち帰った細胞を培養して、いったい何が生まれるのか。あの魚が蘇れば、それは人が神を作ったことになるのだろうか。それとも神ではない、全く別の何かが誕生してしまうのだろうか。
もしも人為的なクローニングが禁忌だとすれば、創造主は何らかの妨害を行うはずである。が、今のところ、それらしい現象は確認されていない。それどころかこの数カ月、異常なペースで『誰も知らない神』との遭遇が続いている。これが意味するところは何か、考えるほどに、ベイカーの心は暗澹たる思いに囚われていく。
研究所との通話を終え、ベイカーは溜息を溢す。
創造主は自分に、『仲間集め』をさせているのだろうか。はたまたこの世界を終わらせるために、地上の神々を『強制収容』させているのだろうか。内なる神に尋ねても、答えは何も返ってこない。タケミカヅチとは生まれる前、胎児のころからの付き合いだ。こういう反応には覚えがある。
「……神にも分からんことが、俺に分かるはずも無い、か……」
一人きりの隊長室で、天を仰ぐ。
アレックスは資料集めで外出中。ポールはオフィスのほうで仕事をしている。面倒な事務仕事は午前中で終わらせてしまったし、危険な任務に出ている隊員もいない。午後はこのまま、電話番だけこなしていれば良い。
やれやれ、久しぶりにのんびりできるぞ。
そう思ったベイカーの耳に、隊員たちの騒々しい会話が飛び込んできた。
「だぁ~かぁ~らっ! なんでオメエは洗剤に水入れんだよ! 新しいの入れとけって言ったじゃねえか!」
「まだ底のほうにちょっと残ってたんスよ! それに、どうせ水に濡らしたスポンジに洗剤つけるんスよ!? 先に水入れても同じですって!」
「はぁ!? ぜんっぜん違ぇだろ!? 原液のほうがガツンと泡立っていいんだよ!」
「それ洗剤使い過ぎてるだけッス! このくらいの泡でもちゃんと洗えてますから!」
「足りねえよ! たぶん!」
「足りるんス! 給湯室で洗う物なんてマグカップとタンブラーくらいなんスから! 油でギットギトのフライパンとかでなければ、これで十分洗えるんですって!」
「泡が少ねえと、茶渋とか落ちなさそうじゃねえか!」
「それは漂白剤の仕事ッスよ! 洗剤使い過ぎるの、環境に悪いッス!」
「はあ!? 漂白剤のほうが環境に悪いだろ!? 塩素なんだし!」
「毎日使うわけじゃないし、一回の使用量なんてキャップ半分以下ッスよ!? 毎日大量に洗剤垂れ流すほうがヤベエッスよ!」
「んなコトねえだろ! 証拠あんのかよ、証拠!」
「それ先輩だって同じじゃ無いッスか! 漂白剤のほうが有害な証拠出してくださいよ!」
「んだとコラァ!? じゃあどっちが正しいか、隊長に聞いてみようぜ!?」
「いいッスよ!? 俺、絶対間違ってねーッスから!」
タケミカヅチの『耳』を使うまでもない。給湯室は隊長室のすぐ近くだ。ギャアギャア怒鳴り合う声も、カップ類を洗う水音もよく聞こえている。それらを洗い終えたら、ゴヤとロドニーは連れ立って隊長室にやってくるだろう。
ベイカーは力なく机に伏し、タケミカヅチに問う。
「神よ、裁きの時がきた。どちらがどれだけ環境に悪い?」
問われた軍神は、困惑しきった声音で答える。
(いや、その……どちらも、下水処理場で浄化できる範囲内だと思うが……?)
「だよなぁ? だが、このままではまた面倒な論戦が繰り広げられてしまうぞ? さあ、どうする? お前の『器』が大ピンチだ。神なら、少しは人間を助けてくれても良いのではないか?」
(うぅ~む……いや、助け舟を出したいのは山々だが、台所用洗剤の使い方にまで神託を与えねばならんのか? 本当にそれでいいのか、現生人類は……)
「頑張れカミサマ! 応援しているぞ!」
(く……人間なら、少しは神に寄り添ってくれても良いのではないか……?)
「寄り添ったところで、奴らの喧嘩は止まらん!」
(ああ、もう、これだから人間ってヤツは……!)
結局、先日のハンドソープの件は決着がついていない。ベイカーとグレナシンの詰め替え方は衛生的でないとして却下されたが、その他の方法ならば、特にこれといった問題は無いのだ。隊長の立場では、『個人の裁量に委ねる』という、非常に曖昧かつ無責任な通達を出すしかなかったのだが――。
「まさかとは思うが、創造主も、こんな気持ちで『地上の神々』を野放しにしているのではなかろうな……?」
(ああ……まさか、と思いたいが、どうだろうなぁ……?)
各々がてんでバラバラな手法を取っていても、結局最後は『同じこと』になる。誰がどんな方法で詰め替えようと、洗剤は物を洗うことに使われる。地上の神々がどれだけ世界をいじくり回そうと、命は生まれ、進化し、栄えて滅び、また別の種が同じような栄枯盛衰を繰り返す。
結果が同じなら、無用の口出しをせず、個々人の裁量に任せておいたほうが良い。それはある程度以上の集団のリーダーを務めた者なら、実感として理解できることである。
だが、まさか――。
「世界の行く末もハンドソープの詰め替えも、同レベルの問題でしかないのか? そうなのか? おお、神よ! こぉ~たぁ~えぇ~たぁ~まぁ~えぇ~!」
(ヤメテクレ……俺も、本気でそんな気がしてきたじゃないか……)
こちらに近付く二人分の足音、ドンドンとノックされるドア、入室を求めるロドニーの声。
どれだけ問題を解決しようと、次から次に別の問題が持ち込まれ、その都度てんやわんやの大騒動へと発展する。生命の神秘も、世界の未来も、絶滅した古生物の復活も、今のベイカーの眼中にはない。
今為すべきことは、二頭の迷える子羊たちに、非常に残念な託宣を授けることだ。
ベイカーは大きく息を吸い込むと、扉に向かって声を張り上げた。
「貴様らのフリースタイルラップバトルは全て聞こえていた! 台所用洗剤と漂白剤の話だな! 入れ! MCタケミカヅチのクソ有難い神ライムを食らわせてやる!!」
誰がMCだ!?
そんな神の声は完全無視され、今日もまた、新たな事件が巻き起こる。
このあと三人の話は拗れに拗れ、仕舞いには下水処理場に住みついた正体不明のバイオ・モンスターと交戦する事態に発展するのだが、それはまた別の話である。