そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)5.1 < chapter.1 >
世の中は争いごとで溢れている。
国家間、民族間の紛争ほど大きな問題でなくとも、その場に複数の人間がいれば、いつかは必ず『意見の異なる事象』と出くわすこととなる。
そしてその事象は、まさに今、騎士団本部で発生していた。
「おいゴヤーッ! なくなったら補充しとけっつったじゃねえか! またこれかよ!」
「え? いや、だから、まだ入ってるじゃないッスか! 使い切ってから新しいの入れたほうが良いッスよ!」
「いやいや、入ってねえだろ! ほとんど水じゃねえか! 薄めんなよ!」
「えぇ~!? どうせ濡れた手で使うんスから、同じことじゃないッスかぁ~!」
「違うって! なあ、キールもそう思うだろ!?」
ロドニーに話を振られたキールは、ロドニーの手からハンドソープのボトルを取り上げ、ポンプノズルを外して中身を確認する。
これはトイレの洗面台に置かれていたボトルである。特務部隊オフィスがある事務棟五階は、フロア全域が機密エリアに指定されている。そのため、特務部隊員と情報部員、その他限られた事務職員以外は五階に上がれない。トイレの清掃や消耗品の補充も、すべて自分たちで行う必要があるのだ。
キールはボトルの中身、水で薄めたハンドソープを見て、二人とは異なる意見を口にする。
「中身を使い切ってから新品を補充するのは賛成だが、普通、水は入れないだろう? 最後まで使い切ってから、ボトルをよく洗って、乾かしてから補充だ」
「え!? マジかよ! そんな面倒くせえことしねえって! 少なくなったら足すだけだっつーの!」
「いや、使いきりですって!」
「だからといって水は入れない!」
「だって、どうせボトル洗うんスよね? 内側にくっついてる残りちょっと、もったいないじゃ無いッスか!」
「そんなに気にするほどの量か!?」
「かき集めれば余裕で三プッシュ分くらいあるんスよ!」
「でも薄めんなって! シャバシャバなの出て来ると、なんか嫌じゃねえか!」
「薄めなきゃポンプ押しても出てこないじゃ無いッスかぁ~!」
「そうなったら諦めて洗えばいいだろう?」
「もったいないんですって! 一度の交換で三プッシュ分無駄に流すんスよ!? 十回交換したら三十ッスよ!? 一年分合計したら、詰め替え用一パック以上下水に垂れ流しじゃないッスか! 不経済ッスよ、フケーザイ!」
「えぇ~? どうせ安い洗剤なんだから、いちいち気にしなくても……」
と、キールが言ったとき、話を聞いていたレインが立ち上がった。
「キール先輩! それ、海洋汚染の原因ですからぁーっ!」
レインは海洋種族、シーデビルである。今は人間の姿で陸上生活しているが、基本的には水中生活に適した生物だ。愛する故郷、海の環境問題に関しては、断固として自らの意見を述べる。
「騎士団本部で使用している洗剤は、自然分解可能な果実油由来の製品に限られています! が! それでも! 大量に流せば、下水処理場の浄化能力を超えてしまう可能性があります! 洪水警報レベルの大雨でやむを得ず未処理水の放流を行う場合ならいざ知らず、平常時にまで汚染リスクを高める洗剤の無駄遣いをすることは許せません! 海洋種族を代表して抗議させていただきます!!」
レインのマジギレに、キールは慌てて発言を訂正する。
「すまん! 俺が悪かった! 洗剤はちゃんと最後まで使う! 残り僅かでも、無駄に下水に流さない!」
「分かっていただければ結構です! いきなり大声を出して申し訳ありませんでした!」
ペコリと頭を下げ、レインは再び事務作業に戻る。
想定外の方向からの猛攻を受け、ロドニー、ゴヤ、キールの三人は、幾分か冷静に話し合う空気になった。
「あー……とりあえず、残った洗剤は全部使い切る。それはいいな?」
「そーッスね。ロドニー先輩も、そこはOKッスか?」
「え? 足せば良いんじゃね?」
「使い切ればいいと思うひとー。はーい」
「はーい」
「二対一で使い切りに決定ッス」
「くっ……民主的に意思決定しやがって……!」
多数決によって決まった方針をもとに、三人はハンドソープの補充方法について話し合った。が、このハンドソープを使っているのは特務部隊員全員だ。他の隊員の意見も参考にするべきと考え、三人はひとまず、確実に三人分の意見が聞ける場所へと向かった。
騎士団本部五階、廊下の突き当りに、他の扉と比べて見るからに大きく、重厚な扉がある。そこは特務部隊長、サイト・ベイカーの執務室である。
扉をノックすると、野太く、けれども穏やかな声音で「どうぞ」と言う返事があった。
「失礼しまーす」
扉を開けるとまず目につくのは、入り口横に設置された受付カウンターである。その奥で仕事をしているのが、先ほどの声の主、隊長補佐アレックス・ブルックリンだ。
「おや、皆さんご一緒ですか? どうなさいました?」
サッと立ち上がって歩み寄るアレックスに、ロドニーは真面目な顔で尋ねる。
「ハンドソープが切れそうなとき、アレックスはどうやって補充してる?」
「ハンドソープ、ですか?」
「そう、このハンドソープ」
ロドニーの手の中のボトルを見て、アレックスは、すぐにトイレの洗面台のボトルだと気付いた。
「ああ、詰め替えパックの在庫のお話ですか? トイレの清掃用具入れに入っているはずですが、もしもそこに無いようでしたら、備品倉庫の左端の棚に洗剤類をまとめた箱がありまして……」
「あ、違う違う! そうじゃなくて、使い切ってから補充するか、注ぎ足すか、ボトルを洗うか、みたいな話。そういう細かい『自分ルール』について訊きてぇんだ」
「は……自分ルール、ですか……?」
「おう。実はさぁ……」
ロドニーはここまでの経緯を説明した。するとアレックスは、難しい顔で答える。
「私もロドニーさんと同じく、『薄めた洗剤は嫌』というタイプなのですが……」
「お! アレックスも注ぎ足し派!?」
「いえ、使いきり派です。ただ、ポンプで汲み上げられない『残りちょっと』は、ボトルの蓋を開けて、直に手に出して使っています」
「えっ! なんだよ! また違う派閥が出て来やがった!?」
「もういくら振っても出てこないぞ! となったら、そのまま詰め替え用を注いでいますが……」
「じゃあ、アレちんは洗わない派ッスか!?」
「洗ったほうがスッキリするだろう!?」
「いえ、その……同じメーカーの同じ洗剤ですから、洗う必要は無いかと……」
「な? 洗わねえんだって! 同じ洗剤なんだから!」
「ですが、古いものが相当量残っているところに新しいものを注ぎ足すのは、少々抵抗が……」
「えぇ~!? なんでだよぉ~!?」
大きな声で交わされる会話に、観葉植物と書棚で仕切られた向こう側、特務部隊長の執務机からも意見が飛んでくる。
「俺は水を注ぎ足して使う派で、使い切った時点で、適当に水気を切って中身を入れているが?」
「何!? おい、サイト! ちゃんと乾かさないと洗剤が薄まるだろうが!」
「おいおい、どうしたキール、そんなにムキになることか? 多少水気が残っていても、ほんの数滴なんだ。これまで誰も気付かなかっただろう? 薄まったとしてもその程度だ。何の問題も……」
「異議あり!」
と、力強く声を上げたのは、ベイカーの隣で仕事をしていた隊長補佐、ポール・イースターである。
「生乾きのまま洗剤を入れたら、カビが発生する原因となります! 騎士団で使用する洗剤は環境負荷低減商品に限定されている分、殺菌作用・抗菌作用はそれほど強くありません! 手指を清潔に保つための洗剤がはじめから雑菌に汚染されていたら、何の意味もありませんよ!」
「そうだそうだー! ちゃんと洗って乾かせー!」
「ポールはどっち派ッスか? 最後のちょっとは水で薄める派? 原液派?」
「僕はアレックスと同じく、ボトルから直に出して使う原液派ですね。でも、空っぽになったら洗って乾かして、それから詰め替え用を注いでいますが」
「ハァッ!? また違う意見かよーっ!」
「どうせ洗うんスから、水入れちゃったほうが使いやすいッスよぉ~!」
「いやです。僕、ポンプ押した瞬間に中身がビチャッと出て来るの、本当に嫌いなんで」
「こうなったら、全員分の意見を聞くしかなさそうだな……?」
そう呟くキールの隣に、ベイカーとポールもやってくる。
「よし、俺も同行しよう! 誰が何を主張するか、非常に気になるからな!」
「黒カビの発生を抑制するためにも、正しい知識を啓蒙する必要がありますね!」
斯くして、『ハンドソープの詰め替え方調査隊』が結成された。
張り切って出て行く五人の背中を見送り、隊長室に残されたアレックスは溜息を吐く。
これでまた、いくつもの決済処理が遅れてしまう。ただでさえ人手が足りないのに、一体誰が帳尻を合わせるのか。
「うぅ……胃が痛い……っ!」
奔放な特務部隊員たちの活躍の陰に、真面目な隊長補佐、アレックスの多大な苦労がある。が、それは今回の話に一切関与しない事柄だ。隊長室を出た五人は、意気揚々と、副隊長室へと向かった。