98. 淑女としての意地
緊張していた膝から、ふっと力が抜けた。
体がぐらりと傾き、書棚に向かって反射的に手を伸ばす。だが、指先は届かない。
よろめいた体勢を立て直す間もなく、衝撃に備えてぎゅっと目をつぶった。
しかし、いくら待っても床や物にぶつかる気配はない。
さすがにおかしい。不審に思っておずおずと目を開けると、至近距離にいたエディと視線がぶつかる。そのまま、しばらく見つめ合う。
硬直するセラフィーナを見下ろすエディの表情には、心配と戸惑いが入り交じっていた。
「大丈夫ですか?」
「……え、ええ。なんとか……」
それだけを答えるのがやっとだった。
セラフィーナは視線をゆっくりと動かし、自分の状況を確認する。崩れ落ちそうだった体をしっかりと支えるように、エディの腕が腰に回っており、自分が伸ばした左手には彼の手が添えられている。
(待って、待ってちょうだい。こ、この状況は……まずいわ。前にも似たようなことがあったけれど、あのときは体を支えられていただけで! 手までは握られていなかったわよ……!?)
予想以上の密着状態だ。
腰をつかまれるだけでも、手を引かれるだけでも、キャパオーバーだというのに。
それが同時に起こるなんて聞いていない。気づくのが遅れたのは、目をつぶったことが一番の要因だ。時を戻して、数秒前の自分に「目をつぶってはだめよ!」と抗議したい。
エディの腕の中で固まったセラフィーナは、いっそこのまま気を失えたらどんなにいいかと思ってしまう。だが残念なことに、人生経験だけは豊富なセラフィーナは、すぐに気を失うような柔な性格ではなかった。泣き出したいが、そんなみっともない真似を見せられるわけがない。
(し、仕方ないわ。かくなる上は……!)
悪役令嬢だった頃を思い出せ。何事にも動じない侯爵令嬢だった自分は、こんなことでうろたえるような性格ではなかったはずだ。
セラフィーナはそっと息をつき、優雅に微笑んだ。
「エディ様、もう大丈夫ですわ。ちゃんと自分の足で立てます」
完璧な淑女の笑みに効果があったのか、エディがゆっくりと手と腰を解放する。
自分の足でその場に立っていることを確認し、セラフィーナは心の中で大きく安堵した。これ以上、心臓の音が激しくなっていたら呼吸困難になっていたかもしれない。彼の前でそんな失態を見せずに済んだことにほっとする。
安心していたのもつかの間、エディの様子がおかしいのに気づいた。彼は視線をさまよわせつつ、言葉を選ぶように口を開いた。
「その……大変申し上げにくいのですが、まだ膝が震えているようです。落ち着くまで、せめて手を引かせていただけませんか?」
「………………はい」
蚊の鳴くような声しか出てこなかった。
恥ずかしさを必死にこらえて、差し出される手に、再び手を重ねる。
気を遣ってか、ラウラとアルトが明後日の方向を見ているのもいたたまれない。全身が沸騰しているように体が熱い。特に、顔は真っ赤に近いのではないだろうか。
それなのに、エディは何も言及してこない。
紳士として完璧な対応だ。淑女に対する礼儀を弁え、礼節を重んじる騎士として見なかったことにしてくれるのは大変ありがたい。けれども、どんどん赤くなっていく顔を見られていると思うと、羞恥心でどうにかなりそうだ。
(おおおお、落ち着くのよ、セラフィーナ。……まだ、やるべきことも残っているでしょう。こんなところで動揺している場合じゃないんだから。任務に! 任務に集中するの!)
深呼吸を繰り返し、エディに手を引かれる形で薄暗い階段を一歩ずつ進む。相手は手袋越しなのに、触れた指先が電流を帯びたように熱い。
強すぎず、弱すぎず、絶妙な力加減だ。時折セラフィーナがちゃんとついてきているか、振り向いて確認してくれる。その優しい気遣いが、今は甘い毒にしか見えない。
膝の震えはだいぶマシになってきたが、代わりに心臓の大きな音が耳に反響している。対するエディは自然そのものだ。意識しすぎだとわかっていても、高鳴る鼓動は一向に静まる気配を見せない。
セラフィーナが階段から落ちないように、しっかりと握りしめる彼の手を見つめていると、今まで霧の中に覆われていた夢の光景がふっと蘇った。
あのとき、誰かが、不安に揺れる自分の手を握ってくれた。それに安堵して指を絡めると、相手が動揺していた気もするが、夢だからとあまり気に留めなかった。これは間違いなく夢だと確信し、他にも恥ずかしいことを言った気がする。
(あれは、夢の中の出来事、よね…………?)
今まで何の疑いもしなかった夢への安心感が、足元から崩れていくのを感じる。
まさかとは思うが、先ほど思い出した光景が現実だった可能性はないだろうか。本当に夢だったかと言われると、曖昧な記憶ではどちらが本当かわからない。
(……そういえば。夢の話をしたとき、エディ様の様子が少しおかしかったような)
仮に夢だと思い込んでいたことが、現実だったとしたら。
彼はどう思っただろう。
何を話したかまでは思い出せないが、少なからずショックを受けたに違いない。優しい彼はセラフィーナに合わせて、なかったことにしてくれているようだが、もしもそんな優しい嘘をつかせているのだとしたら。
(ど、どうしましょう。合わせる顔がないわ。……そうだわ、山よ。しばらく人里離れた山奥にこもるのよ。誰にも会わない場所で精神統一を)
現実逃避を始めていると、不意に視界が明るくなった。地上に出たのだ。
日の当たる一階へ戻り、窓際に向かう。
セラフィーナはポケットから細長く折りたたんだ文を取り出し、グレイッシュの足首に慎重に巻き付けた。鳩は身じろぎもせず、おとなしく準備が終わるのを静かに待っている。
「お願いね、グレイッシュ。どうかレクアル様の元へ」
囁くように声をかけると、グレイッシュは一度だけ小さく「クゥルルッ」と鳴いた。なんとなく「任せて」と返事したように思えて小さく笑う。
窓枠を押し開けると、風がひゅっと入り込み、室内の紙がわずかに揺れる。セラフィーナは窓を全開にし、両手を広げて鳩を空へと放つ。
グレイッシュは羽を広げ、ひとたび風をつかむと、しなやかに宙へと舞い上がった。灰色の斑模様の翼が光を受けてきらりと瞬く。軽やかな旋回ののち、目的地を定めたかのように、一筋の軌跡を描いて空へと飛び去っていった。
その姿が小さくなるまで見届けてから、セラフィーナは静かに窓を閉めた。
(行ってしまったわ。……あとは、信じて待つのみね)