97. この背中が守ってくれる
刃が迫ってくるのが見える。セラフィーナは書類を抱きしめ、立ちすくんだ。
だがその瞬間、天井裏から物音ひとつなく、黒い影が降ってきた。赤銅色の髪がふわりと宙を舞ったかと思えば、着地の音すら立てずにアルトが現れる。
彼はセラフィーナに迫る男の背後を取り、男の肩口に肘鉄を叩き込んだ。続いて膝を払って地面に倒すと、背中に膝を乗せて動きを封じる。そして手首を限界までねじり上げると、男の動きは鈍り、うめき声を上げながら動かなくなった。
「ちょっと寝ててね。いい子でさ」
男が振り返る間も与えずに一人を制圧し、アルトは淡々と言う。無駄のない動きは、研ぎ澄まされた刃そのもの。
さすが騎士だと感心していると、入り口から風を切り裂く音が聞こえた。
視線を向ければ、ラウラが押されていた。いつの間にか、敵は隠し持っていた短剣を取り出し、二本の刃がラウラの喉元に襲いかかっていた。
「ら、ラウラ先輩……ッ!」
セラフィーナが思わず叫んだ、その刹那。
闇を切り裂くように突風が吹いた。その風は意志を持った鋭い刃のように、男の手から武器を弾き飛ばす。遠くでカラン、と剣の落ちる音がした。
(今のは……なに? まるで風が意志を持っていたようだった。もしかして、アルトさんの魔法……?)
助走もなくアルトが高い跳躍で襲撃者との距離を縮め、ラウラを襲う私兵を蹴り上げる。その反動で、男が真横に吹っ飛ぶ。醜いうめき声を最後に、男は白目のまま意識を飛ばした。
「二人とも無事〜?」
息ひとつ乱すことなく笑ってみせるアルトに、ラウラがすぐさま抗議する。
「ちょっとアルト、遅いわよ!」
「ごめんごめん。油断しきった相手の背後から攻撃するほうが、すぐに制圧できるかなと思って。それに、ちゃんと間に合ったでしょ?」
「それは結果論よ」
「こりゃまた厳しいご意見だね。ラウラがこんなところで死ぬわけないでしょ。僕が死なせるわけないし。すぐに助け出さなかったのは信頼の証しだよ?」
「ああ言えばこう言う!」
一見、口論をしているように見えるが、二人とも表情はゆるんでいる。
(……助かった……?)
安堵したそのとき、セラフィーナの足首を誰かがつかんだ。
「きゃっ!?」
アルトによって地面に伏したはずの男が、おそろしい形相でセラフィーナをにらみつけていた。よろよろと体を起こし、片手で転がっていた剣を震える手でつかむ。その刃の先は、明らかにセラフィーナを狙っていた。
恐怖に足がすくみ、助けを呼ぶことすらできない。
だが事態に気づいたアルトより早く駆け出したのは、翡翠の髪をたなびかせたエディだった。
「セラフィーナ!」
切羽詰まった声と同時に、風を裂く音が通路に響いた。
視界の端を、白いマントが弾丸のように駆け抜ける。エディは床を蹴る音すら残さず、一直線に私兵へと飛び込んでいく。
騎士の気迫に気づいた敵は、反射的に全力で刃を振り上げた。狙いは丸腰のセラフィーナだ。目の前できらめく鉄の切っ先が間近に迫る。
その様子が、まるでスローモーションのように見えて。
今度こそ間に合わないと覚悟したとき、甲高い衝突音とともに、白銀の刃が火花を散らす。エディのスモールソードが、弓なりに反った大ぶりの剣を正面から受け止めていた。強い金属音が耳を打つ。
瞬く間も、セラフィーナを背後に守るようにして、エディが戦っていた。
(どうして? どうして、エディ様がわたくしを守ってくれているの……?)
彼はニコラスの護衛をしていたはずだ。それなのに、なぜ。
状況はまったく理解できないが、彼の背中が自分を守っているのは事実だ。
この窮地に、他でもないエディが助けに来てくれた。もう大丈夫。その確信が、静かな波紋のように胸の奥に広がっていく。
けれど、そんな余韻を吹き飛ばすように衝撃波が襲ってくる。鋭く、重く、まるで空気ごと切り裂くような衝撃だ。エディはその一瞬すら無駄にせず、片足で相手の懐に踏み込むことで動揺を誘い、その間に男の膝裏を的確に蹴りを入れる。
体勢を崩した敵が前のめりになった隙を逃がさず、エディは剣の柄を反転させ、こめかみ目がけて容赦なく叩き込んだ。
(……エディ様っ!)
心の叫びが通じたように、敵の動きが止まった。
空気の静けさに気づいたセラフィーナは、無意識に閉じていた目をそっと開ける。
先ほどの男は目を白黒とさせ、そのまま床へ崩れ落ちていた。もう片方の男はアルトが縄で縛り上げていた。
不意打ちで始まった短い戦闘は、ほんの数分だったにもかかわらず、とても長く感じた。
視界の端でアルトに守られていたラウラが、無事を知らせるように軽く手を振ってくれる。セラフィーナも自分の無事を伝えるために小さく振り返した。
(皆、無事だわ。…………よかった)
だが危険は去ったというのに、まだ心臓は激しく脈打っていた。無事だったという実感を噛みしめていると、その音も次第に遠ざかっていく。
エディが男の手首を後ろに回し、きつく縛り上げていく。その様子を眺めながら、セラフィーナは張り詰めていた呼吸をふっと吐き出した。彼の背中がそばにある限り、もう何も怖くない。揺るぎない安心が胸に満ち、ゆっくり目を閉じる。
(リストは無事。敵も制圧された。なら、もう──倒れてもいいわよね?)