91. 騎士失格ですね
「あ、いえ。それはわたくしですね。司書のヘレーネさんは古書の修復が得意だったのを思い出して、ダメ元で声をかけました。そうしたら、筆跡も紙質も本物そっくりの偽帳簿ができあがりまして。ヘレーネさんの技術って本当に素晴らしいのですよ! ヘレーネさんでないと見分けがつかないほどで」
「…………」
「ニコラス様いわく、精巧な写本技術は他国の工作員にスカウトされるほどの腕前なので、公にはしないようにとのことでした。あ、そうそう。サルリマ財務官の補佐官だったイネル・トレヴァンさんが、ニコラス様の味方につきました。実は今朝からずっと誰かに見られている気がしていたのですが、それがイネルさんで……。どうやら、わたくしにレクアル様かニコラス様へ取り次いでほしかったようです」
イネルの必死な顔を頭に思い浮かべる。
きっと藁にも縋る思いで、セラフィーナを頼ったのだろう。
そのとき、無言で話に耳を傾けていたエディの様子が少しおかしいことに気づく。彼の目はかすかに揺れていた。唇がわずかに開くが、すぐに閉じられる。
視線が少し逸れ、言うべきか言わざるべきかを悩んでいるようにも見える。
やがて言葉を探すような間を置いて、エディが口を開いた。
「……それは、また怖い思いをしたということですか?」
「ち、違います。どちらかというと、こちらの動向を探るような視線だったので。でもイネルさんは勇気がある方でしたよ。最初はすごく震えていらっしゃいましたが、上司のサルリマ財務官の罪を告発し、止めてほしいとニコラス様に直訴していましたから。最終的にニコラス様が直々に部下に勧誘し、今は身柄を保護されています。彼の誓いの言葉、聞いているわたくしまで胸が熱くなりました」
この興奮を共感してほしくて熱を込めて言ったのだが、逆効果だったらしい。
エディは眉を下げ、ため息をひとつついた。
「結果的に無事だったからよかったですが、セラフィーナは危機感が足りないのではありませんか……?」
「そ、そんなことはありませんよ。ちゃんと警戒する相手は区別しています。以前のわたくしとは違うのです!」
「本当に? 誰かが困っていたら見捨てるような方には見えませんが」
「む。それを言ったら、エディ様だって同じでしょう? 困っている方がいたら、あなたも手を差し伸べるはずです。同じですよ」
両手を伸ばして抗議すると、ふと左腕をつかまれた。
「セラフィーナ。今の状態で、私の手を振りほどけますか?」
「…………あら? えっ、ちょっと待ってくださいませ。このぐらい──」
ぐっと力を入れて振りほどこうとしたが、びくともしない。エディは大して力を入れた様子ではないのにもかかわらず、硬い岩に阻まれているように動けない。
下級女官として鍛えられたセラフィーナは、貴族女性よりも筋力はあるほうだ。もはや非力な令嬢ではない。けれども、どう頑張っても彼の手を振りほどけない。
だんだんと焦りが募る。
それを見透かしたように、エディが冷静に言葉を続ける。
「抜け出せないでしょう? あなたは男の力を侮っています」
「そ、そんなこと……っ」
「言葉で説明しても伝わりませんか。では、致し方ないですね」
「……えっ……」
質問する暇もなく、ぐいと引き寄せられる。
次の瞬間には、ぽすんとエディの腕の中に収まっていた。淡いラベンダーの芳香に、かすかに混じる森の木の乾いた気配。甘さはなく、ただ静かで穏やかな香りに頭がクラクラする。
(なっ……ななな、何がどうなって……!?)
心臓は暴れっぱなしで脈拍が異常だし、ここまで異性と体を密着させたのは舞踏会のダンス以来ではないだろうか。
混乱の渦に目が回りそうになっていると、エディがかすれた声でつぶやいた。
「私はレクアル殿下の騎士ですが、あなたが警戒すべき男でもあるんですよ。いい加減、自覚してください」
「……へっ、あ、あの……」
「優しい男だから安全だと思ったら大間違いです。現に、あなたはこうして私の腕の中にすっぽり包まれているじゃありませんか。これのどこが警戒しているのですか?」
責めるような、少しいじけたような口調に、開いた口が塞がらない。
(エディ様がわたくしを心配して怒っているのはわかるけど、どうして抱きしめられているの!? この場合、どうするのが正解!? 誰か教えてちょうだい……!)
けれど、心の叫びに答える声などいない。
動揺するセラフィーナに追い打ちをかけるように、エディが抱きしめる腕に少しだけ力を込める。当然、密着度はさらにあがる。
「先ほど、どれほど抵抗しても振り払えなかったでしょう? あなたは非力なご令嬢とは違います。芯も強いですし、機転も利く。けれど、男が本気を出したら絶対に振りほどけません。そのことを忘れないでください」
「…………」
「私はあなたが心配なのです。どうかご自身をもっと大切にしてください。気を抜くと、こんな風に悪い男に捕まってしまいますよ。ところで、この心臓の音はどちらのものでしょうね……?」
まるで恋人に向けるような熱のこもった眼差しとともに、砂糖菓子のような甘い声で囁かれ、セラフィーナの理性は限界点を突破した。
自力で立っているのが困難になり、膝から崩れ落ちる。かと思ったら、エディがすかさず腰に腕を回して、その場にへたり込みそうになっていたセラフィーナの体をいとも簡単に支えた。
「おっと。すみません、ちょっと悪ふざけがすぎました。立てますか?」
「…………腰が、抜けました」
「…………」
屈辱だ。こんな恥ずかしいことを自己申告しなければならないとは。
エディは空気を読むのが得意らしく、余計な言葉は口にせず、すっと顔を逸らした。あまりにも不自然な行動に、セラフィーナは思わず口を挟んだ。
「エディ様? なぜ突然方向転換して窓のほうを見ているのですか? まさか淑女に悪さをしておいて笑っている、なんてこと、ありませんわよね?」
「……申し訳ありません。その……あまりにも愛らしい顔で睨まれるので、つい」
「つい」
「全面的に私が悪いです。反省しております。笑いを堪えることもできないなんて、騎士失格ですね。また、あなたを怖がらせてしまいましたし……」
自分を責めるような響きに気づいて、彼の顔色を窺う。
エディは苦悩を滲ませてうつむく。感情を抑えようとしているのが伝わり、セラフィーナは慌てて反論した。
「驚きはしましたけれど、怖くはなかったですよ。エディ様に触れられるのはドキドキもしますが安心しますし、わたくしにひどいことをなさる人ではありませんもの。先ほどのことだって、本気で危機感を持たせようとしてくださったのでしょう?」
「…………」
「ごめんなさい。わたくし、何か……思い違いをしていましたか?」
彼がずっと口を閉ざしたままなので、どんどん不安が膨れ上がっていく。
上目遣いでエディの判断を仰いでいると、ふっと息を吐く気配がした。
「いえ、セラフィーナは間違っていませんよ。強いて言えば、あなたの純粋さにつけ込んだ私が悪いのです。今回のことで、誘惑に決して折れない鋼の心を手に入れようと強く決意しました」
「……誘惑?」
「はい。無自覚で煽ってくるタイプの女性は、今までの対処法ではどうにもならないと身をもって知りましたから。私もまだまだ修行が足りませんね」
「わたくしには難しくてよくわかりませんが、エディ様は高みを目指しておられるのですね」
「ええ、そうですね。どんな精神攻撃にも耐えうる心が必要です。自分を律するため、山にこもって修行したいくらいですが……今はレクアル殿下のそばを離れるわけにはいきません」
「騎士様の目指す道はなかなかハードなのですね。……あ、ニコラス様から伝言があったのを忘れていました」
エディは不思議そうに目を瞬かせた。
「伝言ですか?」
「ええ。……一斉摘発には人員が必要だということで、レクアル様の力も借りたいそうです。エディ様に話せば、レクアル様に報告がいくだろうから、先に状況の説明をお願いしたいと。三日後の午後、書庫の奥にある司書室で落ち合う予定になっています。そこにレクアル様もお連れしてほしいのです。お願いできますか?」
いつの間にか、子鹿のように頼りなかった膝の震えもすっかり落ち着き、エディに支えられなくても立っていられるようになっていた。
「承知しました。先ほど聞いた件は、すべてレクアル殿下に報告いたしましょう」
「よろしくお願いいたしますね」
護衛の距離に戻ったことで、セラフィーナは爽やかな笑顔を浮かべた。
エディは一瞬言いよどんだが、諦めたように小さな笑みを向ける。わだかまりは無事に解けたようだ。
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