89. その選択の先に
イネルたちが確認していた帳簿は、ニコラスの手元に再度置かれていた。
二つの帳簿を見下ろして腕を組む横顔は、ひどく険しいものになっている。見かねたセラフィーナは小さく手を挙げた。
「ニコラス様。わたくしが持っていきましょうか? 紛れていた書類を文官にお届けするのは、下級女官ではよくあることですし」
「いや、お前はだめだ」
「なぜです? あ、ローラント様と繋がりがあるわたくしでは、相手に警戒されるからでしょうか?」
「それもある。現にイネルは僕に直接接触するのではなく、お前経由で接触を図ろうとした。下級女官の中で、お前は自分が思っているより注目されている。下手に動き回れば怪しまれる。……そうだろう、イネル」
壁際で、壮年の文官からこちらの事情を聞いていたイネルが「は、はい!」と振り向く。
「僕がセラフィーナさんを頼ろうと思ったのは、彼女がコントゥラ事務次官に認められた下級女官だったからです。彼女の腕は確かですし、普通の文官より仕事が速いということで、文官の手伝いは事務次官経由でないと発注できなくなりました」
「ちょっと待て。それは初耳だぞ」
「……その、ただ働きさせるのは気が引ける人材だそうで。文官が必要なときだけ手を借りるように、事務次官が女官長に話をつけたそうです。事務次官経由での文官仕事には給金に上乗せする形で、報酬を支払うことになったと。過去に文官に勧誘されたとも聞きましたし、レクアル殿下の推薦で下級女官になったとも伺いましたから、頼れるのは彼女しかいないと……」
イネルの言葉がどんどん尻すぼみになっていく。
(ただの下級女官として目立たずに生きてきたつもりだったけれど、わたくしって結構特殊なのかしら。それともイネルさんが情報通なだけ? とはいえ、文官からの頼まれ事も多くなるにつれ、顔見知りも増えてきたのも事実だし……)
ううむと内心唸っていると、ヘレーネが独り言のようにつぶやく。
「神経質な方だったら……帳簿をすり替えたら、すぐ気づかれそうですよね」
「そうだな。もっと大雑把な性格だったら、いくらでもやりようはあっただろうが。イネルにはこれから身を隠してもらうから、君の力を借りるわけにもいかない」
二人の会話を静かに聞いていたイネルが何かに気づいたように、はっとした様子で口を開いた。
「確かに財務官は几帳面な性格です。でも、抜け道はあります。帳簿の搬入時に紛れ込ませたらいいんです」
「どういうことだ?」
「今朝、サルリマ財務官は新しい棚卸帳簿を発注していました。夕方の便で、帳簿の束が文官資材室から財務室に届くはずです。運搬係が財務室に届けた後、財務室の文官は搬出記録に受領印をまとめて押すことになっています。でも、帳簿そのものの確認まではされません」
「つまり、その便に偽帳簿を紛れ込ませれば、自然と財務官の手元まで届くと?」
「はい。裏帳簿の外見を棚卸帳簿のように装っておけば、その場でさっとすり替えるだけで済みます」
思ってもみなかった方法を提示され、セラフィーナは聞き返した。
「そんなに簡単に……すり替えられるものなのですか?」
「できると思います。帳簿の運搬は、文官資材室の係が担当しますから。財務室に運び込まれるまで、財務室前の通路脇の棚に一時的に置かれる決まりです。そのときが狙い目です。人通りも少ないので、不審に思われることもないでしょう。受領印を押す際、文官たちは雑談を交えますから、一分もあればすり替えは可能です」
「なるほど。一冊だけ紛れ込ませるなら、それほど時間はかかりませんね」
同じような見た目なら、まず気づかれないだろう。
セラフィーナが納得した顔を見せると、イネルが説明を続ける。
「財務官の文官たちは他の仕事にかかりきりで、届けられた帳簿の束に目を通すことはありません。ですが、サルリマ財務官は違います。厳格な方ですから、必ず一冊ずつ検分します」
「あっ……! そこで紛れ込んでいた裏帳簿に気づかせる、ってことですか」
「ええ。彼の性格なら、変に騒ぎ立てることはないと思います。裏帳簿が紛失していたことは誰にも教えていないはずですから。この方法ならどこで紛れ込んだかわかりにくく、財務官も秘密裏に裏帳簿が回収できます。お互いにメリットがあります」
苦笑交じりにそう言ったイネルの表情には、かつての尊敬と信頼を裏切られた悔しさが入り交じっていた。
「その案なら、変装した僕の部下に頼んでも支障ないな。よし、それでいこう」
「……ありがとうございます!」
ニコラスの賛同が得られて、イネルが頬を上気させて喜ぶ。
早速、忠誠を誓った相手の役に立ったということが嬉しかったのだろう。
(イネルさんが味方についてくれてよかった。わたくしたちだけでは、こんなにすぐ良案を思いつけたかどうかわからないもの)
セラフィーナが心強い味方を得たと安堵する一方で、目を閉じて思案していたニコラスがふっと目を開け、後ろに控えていた文官を見やる。
「すまないが、イネルの身をしばらく匿ってくれるか。この事件に片がつくまで、身分を隠し、外部との接触を避けるように。何かあれば連絡する」
「かしこまりました。仰せの通りにいたします」
壮年の文官は深く頭を下げた。
彼は腕に持っていた包みを開き、イネルの肩にフード付きの外套をかけた。
頭までフードを被ると、淡い亜麻色の髪も表情もすっかり隠れてしまう。闇に紛れたら、男か女かすらわからない。
「……ニコラス殿下、皆さん。今日はありがとうございました。どうかご無事で」
「イネルさんもお体にお気をつけて」
セラフィーナが言うと、イネルがかすかに笑った気がした。
彼は文官の背中についていき、扉の外へと消えていった。
静寂が戻った部屋で、セラフィーナはほんの一瞬、躊躇してからニコラスのほうへ歩み寄った。
「ニコラス様。……少しだけ、お時間をいただけますか」
「なんだ」
「今回の件で、わたくしが調査に関わっていることを、エディ様にお伝えしてもよろしいでしょうか? ローラント様失踪事件をアルトさんとラウラ先輩が調査されていることで、わたくしの行動もすでに不審に思われています。すべてを伏せたままでは、かえって危険です。……詳細は伏せたままにいたしますので、どうかご許可を」
深く頭を下げると、ニコラスが大げさにため息をついた。
断れる気配を感じて体を縮こめていると、「そこの女官、顔を上げろ」と命令された。おそるおそる視線を上げる。
目が合ったニコラスは、なぜか呆れたような目をしていた。
「エディというと、レクアルの近衛騎士だな? アルトがやる気満々で自主的に調査しているのは知っていたが……ラウラというのはコントゥラ事務次官の姪か。その二人が調査するのは納得できるが、なぜここでエディの名が出てくる?」
「実は……定期的に、レクアル様の代わりにわたくしの様子を見に来てくださっていて。ローラント様の誘拐犯はまだ捕まっておりませんし、どこに危険があるかわからないということで、身を案じてくださっているのです」
一拍置いてから、ニコラスは短く返した。
「なるほどな」
「……あの……?」
「ちょうどいい、そろそろ潮時だとは思っていた」
「……と言いますと?」
「我々だけで一斉摘発は難しい。レクアルの力も借りようと思っていたところだ。エディに話せば、レクアルにも報告が行くのであろう? 先に事のあらましを伝えさせるのも悪くない。僕の協力者として動いていたことも話して構わない。ただし、機密事項も含む内容だから、くれぐれも誰にも聞かれないように注意しろ。どこに開戦派がひそんでいるのか、わからないからな」
「心得ております。ニコラス様、感謝いたします」
セラフィーナが一礼すると、ニコラスは腕を組んで渋面で唸っていた。
何か懸念があるのだろうかと目を瞬いていると、ふと青紫の瞳がこちらに向けられる。
「……偽帳簿の件で、コントゥラ事務次官が本当に解放されるかはまだわからない。すぐかもしれないし、数日後かもしれない。連中も半信半疑だろうからな。その姪には期待させるようなことは言うなよ」
「は、はい」
「ジョルジュがどう動くかは注視するが、奴は用心深い。すぐに行動するとは考えにくい。その間にこちらは一斉摘発の準備に取りかかる。事務次官が戻ってくれれば、秘策を授けてくれるかもしれないが、今は僕たちだけで進めるしかない。お前もそのつもりでいろ。……ジョルジュは数日様子見だ。三日後の午後、またここに来い。そこで詳しい段取りをする」
「ラウラ先輩も連れてきていいですか? 彼女は身内の危機で判断が鈍るような人ではありません。すでにこの事件に関わっていますし、ローラント様の姪という立場から、何か気づくこともあるかもしれません。捜査を攪乱することは絶対にないと断言できます」
はっきりと言い切ると、ニコラスが少し驚いたように目を見開いた。
「お前がそこまで言うのなら、いいだろう。連れてこい。人手は多い方がいいからな。馬車馬のように働いてもらおう」
「かしこまりました。では、お先に失礼させていただきます」
「……ああ」
司書室を後にし、セラフィーナは先に部屋を出ていったイネルに思いを馳せた。
ここに来るまで、彼はどれだけの勇気を振り絞ったのだろう。
上司を裏切り、ニコラスの部下につくと決意するのは大きな決断だったはずだ。けれど、先ほどの晴れやかな顔には一切の後悔の色はなかった。彼は自分の意志で選択し、生涯をかけてニコラスに尽くす決意をした。
(わたくしもいつか……大きな決断をする日が来るのかしら)
最初は震えていたイネルだったが、部屋を出ていくときにはすっかり落ち着いていた。覚悟を決めた人間は、あれほどまでに変わるものなのか。
あのとき、ニコラスに誓ったイネルの姿が、今も目に焼き付いている。