88. 冗談に聞こえませんでした
ニコラスの告げた言葉は、セラフィーナにとっても衝撃だった。
案の定、イネルもどうしていいかわからない、といったように体を縮こめている。
「…………わ……私は」
「優秀な人材をここで手放すのは惜しい。僕を選べ」
「っ……!」
イネルは息を吸い込んだ。しばらく視線をさまよわせた後、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
そして、迷いのない声で言った。
「どうか、ニコラス殿下のもとで働かせてください。腐敗の現場を誰よりも近くで見てきたからこそ、この国をよりよくしていきたい。殿下が目指す未来を、私にも支えさせてください! イネル・トレヴァン、本日より殿下の剣にも盾にもなりましょう。この命、殿下にお預けします」
張り詰めた声だった。けれどもう、その声に震えはない。
彼の真摯な誓いは、セラフィーナの胸にもまっすぐに届いた。
ニコラスは鷹揚に頷く。
「その言葉、確と受け取った。君はこの瞬間から、僕の部下だ。……身の安全は保証しよう。君の忠誠が言葉だけのものではないと、これからの働きで証明してみせてくれ」
小さくも大きくもない、けれどよく通る声だった。ニコラスのすぐ後ろで控えていた文官が、小さく頷いたのが視界の端に映った。
イネルの背筋がすっと伸びる。まるで新しい役割を得たかのように。
(受け入れられたんだわ。きっと、これから彼は新しい道を歩んでいける。新しい上司の下で、明るい未来に向かって)
人知れずセラフィーナが感動していると、ニコラスがヘレーネに向き直る。
「……頼んでいたものはできたか?」
「はい。少々お待ちください」
それまで沈黙を守っていたヘレーネは席を立ち、鍵つきの棚から二冊の冊子を持ってきた。ニコラスの前に一冊ずつ、丁寧に置いていく。
「こちらが原本、左が複製したものです。どうぞご確認ください」
ニコラスがそれぞれの表紙を丹念に見比べ、ゆっくりとページを開いていく。左右の本は同じページにまったく同じものが書かれていた。
インクの色やかすれ具合はもちろん、紙の染みまで完璧に再現されていた。最後のページまで確認し終えたニコラスが感嘆の息をつく。
「…………驚いたな。ここまでの精度とは」
「見た目はまったく同じに見えますが、紙質を変えています。本物は指が引っかからないほど滑らかです。もう一方は、ほんのわずかに繊維が荒くなっており、指先にざらりとした感触が残ります。紙の密度が異なるため、重量にも若干違いがあります」
「なに、紙が違うのか? 言われてみれば多少違うような気もするが、違和感を覚えるほどの違いではないな。専門職でなければ見抜けないのではないか?」
「はい。ちなみに、複製本にはもう一つ仕掛けがあります。裏表紙に、裏から強い光を当てると、鏡文字で『nosfer』と書いてあるはずです。これは古語で『真実に非ず』──偽物であることを示す符号です。偽造防止用の特殊インクを用い、紙の繊維を傷つけず、光に反応する文字を刻印しました」
「……ふむ、鏡文字か。本物と区別がつけるように、か」
ヘレーネからランプを受け取ったニコラスが、裏表紙を透かし、そこに浮かび上がる文字を確かめる。すごいな、という小さなつぶやきがもれた。
「普段は視認できませんが、斜めから強い光を当てると、光の屈折でかすかに文字が浮かび上がる仕組みです。古い技術の再現なので、通常の文官はほぼ見抜けないと思います。できる限り工夫はしたつもりですが、本物だと信じてもらえるでしょうか?」
ヘレーネが自信なげに質問する。
遠目からはよく見えなかったのか、イネルもそわそわと近づいてくる。ニコラスは後ろで帳簿を覗き込んでいた文官二人に手渡しながら、首を振った。
「僕にはどちらが本物か、見分けがつかない。まず大丈夫だろう」
思った以上の高評価に、ヘレーネの頬がゆるんだ。
近くの空きスペースで裏帳簿と偽帳簿を見比べる文官二人は、「なんだこれ、まったく同じものが二冊あるなんて……」「ふむ。この精度は見事ですね。素晴らしい写本技術です」とおのおのが感想をつぶやいている。
「ヘレーネさん、すごいですね! 私にも区別がつきませんよ。しかも、こんな短時間でやってのけちゃうなんて」
セラフィーナが横から褒めると、恥ずかしそうにヘレーネが両頬に手を当てる。
緊張感のある話が一段落ついたことで、ほんの少しだけ場の空気が和らいだ気がした。
「えへへ……。今回は捜査協力でやっているとはいえ、本当は悪いことなのに、ちょっと楽しくなってきちゃって……。私、何かに目覚めちゃうかも……」
「…………」
「じょ、冗談ですよ! そんな、あからさまに困った顔で見つめないでくださいよぅ」
慌てて否定するヘレーネがなんだかおかしくて、つい笑ってしまう。
だが本当に何かに目覚めたらと不安に思っていたのも事実だったので、セラフィーナは安堵の色を滲ませながら言う。
「よかったです。ヘレーネさんが言うと、冗談に聞こえないので」
「そうだな。この技能が知られたら、他国の工作員として引き抜かれる可能性もある。このことは周囲には伏せておいたほうがいい。そのほうが君の安全が守られる」
「……うっ。そ、そんなに危ない橋を渡っていたんですね。気をつけます……」
しゅんとうなだれたヘレーネをしばらく見つめ、ニコラスは少しだけ身を乗り出した。
「悪いんだが、その腕を買って、もう一つ頼みたいことがある」
「……何でしょう?」
先ほどまでのふにゃりとした雰囲気を一変させ、ヘレーネが硬い声で尋ねる。
ニコラスは胸元から白い封書を取り出した。
「この文面をジョルジュ・サルリマの筆跡で書いてほしい。ここのサインも本人に似せてもらいたい。複製に関する君への依頼は、これで最後だ。帳簿複製と手紙複製に関する特別手当ては、僕の個人資産から出すと約束する」
「えっ、そんな報酬だなんて……私は仕事の合間にやっただけですから」
「君の働きには、それだけの価値がある。だったら、正当な対価を受け取るべきだ。実際、君は十分すぎるほどの成果を出した。少なくとも、僕は君の力で救われた」
社交辞令ではないと伝わったのだろう。
ヘレーネは困ったように微笑んだ。封書の中身を確認し、ニコラスに視線を戻す。
「そこまでおっしゃっていただけたら断れませんね。わかりました。この文面の筆跡を真似て書けばいいんですね? 封蝋まではどうにもなりませんが……」
「その点に関しては対策は考えている。君はできるところまでやってくれたら、それでいい。頼めるか?」
「はい。お任せを」
「さて……残る問題は、この偽帳簿を誰が持ち込むか、だな」