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87. イネル・トレヴァン

 セラフィーナとヘレーネが顔を見合わせていると、二人組の来訪者が現れた。

 藤色の髪をたなびかせた文官はニコラスだ。変装のためか、今日も眼鏡をかけている。そのすぐ後ろには、落ち着いた雰囲気の壮年の文官が控えていた。温和な表情と丁寧な所作が、熟練の執事を彷彿とさせる。


(そういえば以前、公務中のニコラス様のそばにいたのを見た気がするわ。遠目で見ただけだから確信はないけど……。でも今、ニコラス様が連れ歩いているということは、それだけ信頼の厚い側近なのでしょうね)


 後ろの文官が、セラフィーナの視線に気づいて穏やかな眼差しを返してきた。その目は相手に安心感を与える落ち着きがあった。

 三人の視線が自分に注がれていることに気づいたニコラスは、不機嫌そうに顔をしかめた。


「……一体、何だ?」


 小さくぼやくように言った後、ニコラスに睨まれる。

 説明を求められていると悟ったセラフィーナは、ニコラスの耳元に近づき、事のあらましを簡潔に報告した。しばらく耳を傾けていたニコラスは、ゆっくりイネルに視線を移す。

 上から下まで無言で観察した後、考え込むように顎に手を添える。


(どうしましょう。イネルさんがあからさまに青ざめて、怯えてしまっているわ。おそらくニコラス様は敵のスパイじゃないかどうか、判断しているだけだと思うのだけど……)


 イネルは裁判官の判決を待つ囚人のように体を硬直させ、肩を小刻みに震わせている。ニコラスの容赦ない視線をまともに浴び、さらに萎縮しているようだった。

 もしも、これが演技だとしたら、相当な役者だと思う。

 悲痛な表情で立ち尽くす様子は、見ているこちらまで胸が苦しくなってくる。ちらりとニコラスに目をやると、彼は顎にやっていた手をそっと下ろした。


「イネル・トレヴァンと言ったか」

「は……はいっ」

「話はまとめて奥で聞く。ついてこい」


 ニコラスはヘレーネに視線を投げる。それだけで意図が伝わったようで、ヘレーネは司書室の鍵の束を持って先導する。セラフィーナとイネルも後に続いた。ニコラスの文官も無言でその後を追う。

 司書室は、壁一面の書棚と同じ色に塗られ、まるで壁の一部のように自然と溶け込んでいた。一見しただけでは、そこに部屋があるとは気づけない造りだ。

 ヘレーネが鍵穴に差し込んで解錠の音がしたが、扉はすぐに開かない。

 彼女は続けて鍵束から一本を選び出した。細く湾曲していて、先端が針のように尖っている。一目で普通の鍵ではないとわかる。ヘレーネは扉の隙間にそれを差し込み、慎重に手を動かす。金属が擦れる、小さな音が断続的に響いた。

 右に二度、左に一度。軽く戻してから、また半回転。

 セラフィーナには何の意味があるのか、まるでわからない。ただ、中には特殊な解除機構が仕込まれていることだけはわかる。誰かが不用意に開けようとしても、そう簡単に開かない造りなのだろう。

 やがてカチリと乾いた音がして、扉はひらりと開いた。


(本当に厳重に管理されているのね……。それだけ貴重な書物を保管している部屋なのでしょうけど。でも逆に言えば、人目を忍んで会話するには、これ以上ない部屋だわ)


 扉が閉じると、外の空気がすっと遠のいた。

 司書室の中はひんやりとしていて、わずかなインクと古紙の匂いが鼻をかすめる。ヘレーネがランプに火を灯していき、室内の様子が徐々に鮮明になっていく。

 壁一面を埋める書架には、革張りの記録簿や金文字の背表紙が整然と並び、いくつかの棚には鍵がかかっていた。足元の石畳には埃ひとつなく、会話ひとつするのも憚れるような、静謐な空気に満ちている。


「ニコラス殿下。こちらにどうぞ」


 ヘレーネがためらいのない足取りで北側の大きな机へ向かい、一番奥の椅子を静かに引く。ニコラスがそこに着席し、セラフィーナたちもニコラスの近くの席につく。壮年の文官はニコラスの後ろに影のように控えた。

 イネルだけは、ニコラスの正面にあたる一番遠い席へ、おずおずと腰を下ろした。


「それでは……イネル・トレヴァン。僕に伝えたいこととは?」


 ニコラスは机に両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せた。

 その真向かいに座るイネルは背筋をまっすぐに伸ばす。緊張のせいか、浅い呼吸を繰り返していたが、意を決したように顎を引く。


「サルリマ財務官は不正を行っています。奥様との離婚を機に、彼の様子は徐々におかしくなりました。周囲の声に耳を貸さず、口答えする者や逆らう者は次々と辞めさせられました。今、残っているのは他に行き場のない文官ばかりです」

「……ふむ」

「かつては実直な方で、不正を決して許さない姿勢を尊敬していました。ですが、今の財務官はもう別人です。歪んだ数字を正しいものとし、自己顕示のために職権を振るう人に、私はもう手を貸せません……。情けない話ですが、財務官を止められる者はもういないのです。元上司だったコントゥラ事務次官でさえ、行方不明になりました。消息を絶つ前日、私の机まで言い争う声が届いていました。きっと、財務官が手を回したのだと思います」


 その言葉に、ニコラスの眉がわずかに動いた。


「……コントゥラ事務次官の居場所を知っているのか?」

「いえ。財務官が私兵を雇っていることぐらいしか知りません。彼は財務官という立場を悪用し、ありもしない数字をでっちあげて、お金をばらまいて開戦派の勢力拡大を狙っています」

「やはりそうか。妻に捨てられたのが、彼の大きな転機となったのは間違いないな。犯行動機は憂さ晴らしか? ジョルジュは普段、どんな言動だった? 気が大きくなって口を滑らすことはなかったか?」

「そう、ですね……」


 イネルはそっと視線を落とし、虚空を見つめた。遠い記憶をたぐり寄せるように。

 その横顔を見て、セラフィーナの胸がわずかに軋んだ。今もなお、心の奥に消えぬ何かを抱えているのが伝わってくる。おそらく、思い出したくない過去なのだろう。

 それでもイネルは、余計な感情を切り離すように顔を上げ、淡々と語り始めた。


「お酒の席で奥様の愚痴を散々言った後、『金は腐るほどある。だから必要な奴に分けただけだ。俺に価値がないわけじゃない。どうせ誰も俺を止められないんだから』……そんなことを言っていました」


 ニコラスは頭が痛いというように額に手を当てて、吐き捨てるように言った。


「もはや救いようのないところまで墜ちているな。開戦派を思うがまま動かすことで、虚しい自己肯定に浸っていたのか。そんなもの、ただの錯覚だというのに。話を聞く限り、もはや正気とは言えないな」

「ええ。自暴自棄のように見えました。開戦派を煽ることで、この国の命運を握っているような振る舞いが、もう見ていられなくて……。このままでは補佐官である私も、財務官と運命を共にし、命を散らすだけでしょう。私の罪は消えませんが、どうかこれ以上、罪を重ねる前に殿下に止めていただきたきたいのです……!」


 切実な思いがこもった言葉に、セラフィーナは両手を重ね合わせた。


(ニコラス様は、どうなさるのかしら。彼の言葉を信じて手を差し伸べるのか、それとも……)


 固唾を呑んで成りゆきを守るしかないのも、なかなかもどかしい。

 けれど、ここで発言権があるのはニコラスとイネルのみだ。

 沈黙したまま、ニコラスはイネルをまっすぐに見つめた。その無表情からは、彼が何を考えているか、まったく読めない。

 イネルは窮状を訴える民のように、両手を広げて切々と語る。


「資料こそ持ち出せませんでしたが、ある程度の情報は頭に入っています。裏帳簿の記録は財務官自ら行い、決して他人には任せようとはしませんでした。ですが、財務官はシルキアの武器商人と繫がっています。武器の密輸を行い、反旗を翻す日のため着々と備えています。このまま放置していれば、公国は……戦場にされてしまいます。私にできることなら、なんでもします。お願いします!」


 必死の訴えのあと、イネルがバッと頭を下げる。反動で机が少し揺れた。 

 部屋に、再び静寂が戻る。

 重い沈黙を切り裂いたのは、ニコラスの低い声だった。


「イネル、よく話してくれた。君の覚悟が本物であることも、よくわかった。……政務学院を飛び級し、なおかつ首席で卒業したと聞いたが、これは事実か?」

「はい、間違いありません」


 即答する声に、セラフィーナははっとした。


(ニコラス様はきっと、ジョルジュの補佐官のことも調べていたのね。その中で、イネルさんの才能に気づいた。けれど敵か味方かわからない以上、こちらの陣営に引き込むのは難しい。悔しい思いを抱えたまま断念していたのなら……彼が今回密告したことは、ニコラス様にとってこれ以上にない好機だわ)


 ジョルジュのせいで潰れるには惜しい才能だ。

 文官にしては若いが、経験を積めば、きっと彼は即戦力になる。


「本来ならば、君は他の文官と同様に、相応の処分を受けることになる。だが、ここで僕の部下になると誓えば、助けてやる。ただし僕は第二公子とはいえ、継承権は第三位という微妙な立場だ。よく考えた上で返答してほしい」

「…………」

「僕の配下に加わる覚悟があるのなら、便宜を図ろう。……選べ、イネル。ここで僕につくか、それとも他の文官と同じ末路をたどるか」

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※表紙イラストは雨月ユキ先生に描いていただきました。その他イラストは活動報告をご覧ください。

▶【登場人物紹介のページ】はこちら
▶【作品紹介動画】はYouTubeで公開中

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