86. 密告者の接触
その日は朝から本降りだった。
雨の量は夕方にかけてますます強まり、女官たちは仕事を終えると、足早に帰寮していった。セラフィーナはその輪から不自然にならないように抜け、エディとの待ち合わせ場所に向かった。
冷たい雨粒が容赦なく地面を叩きつけている。傘を差していても意味をなさないほどの豪雨だった。滝壺と空とが一続きになったかのような、激しい雨脚だ。
セラフィーナは、物資の受け渡しに使われる裏搬入口の軒下に身を寄せた。屋根の端からは雨が滝のように絶え間なく落ち、足元には小さな水たまりをいくつか作っている。
(傘を差していても、結構濡れちゃったわ。本当は着替えたほうがいいのでしょうけど、この強い雨では、着替えてもすぐに濡れ鼠になるでしょうね……)
ほどなくして、雨避けの黒の外套を肩にまとったエディが現れた。緑の傘を片手に持っているが、翡翠の髪からぽたりぽたりと雫を垂らしている。けれど、彼は気にも留めていない様子で謝罪を始めた。
「遅れてすみません。思ったより雨がひどくて……」
「だ、大丈夫です。わたくしも今、来たところですから。わざわざ、こちらまで足を運んでいただいて恐縮です」
「問題ありません。これも職務のうちですから」
傘を畳み、軒下の奥へと並んで避難する。
靴の中までぐっしょりだ。手早く用件を済ませ、彼を暖かい場所に帰さなければ。
そう思って口を開こうとした矢先、エディの声が一秒先に届いた。
「先日の件、レクアル殿下にお伝えしました。殿下からのお返事もお預かりしています」
「……交換条件の話ですね?」
「ええ。合理的だ、とおっしゃっていました。一方的なお願いではなく、条件を提示するなど度胸があって面白いと。よほど肝が据わっていないと考えつかないだろうと。また、守る価値のある者には、相応の責任を果たすべきだとも」
「それでは、二人の秘密に関しては……」
「殿下の胸に秘めてくれるそうです。緊急時は保護もされますし、今後は『条件付きの協力者』として扱われることになりました。この件に関しては、アルトからラウラさんに直接伝えておくと言われました」
「ありがとうございます、エディ様。わたくしのせいで、もしお二人の立場が悪くなったらと思うと心配だったのです。……レクアル様にも受け入れられて、安心しました」
胸に手を当てていると、エディがわずかに声を硬くした。
「セラフィーナ、ひとつ伺いたいことがあるのです。アルトから聞き出したのですが、コントゥラ事務次官の失踪事件の調査に関わっているようですね」
「…………」
「詳細については、はぐらかされました。知りたいのなら本人から聞くようにと。話せる範囲で構いません。どうか、私にも話していただけませんか?」
「すみません。ここでは、ちょっと……。誰に聞かれているかわかりませんから」
わずかに視線を落とすと、エディが一歩詰めて身を屈めた。
彼の唇がセラフィーナの耳元に近づく。押し殺したような声が、肌に触れるほどの距離で囁かれる。
「この雨音です。会話の内容を聞き取るのは困難ですよ。私はあなたが心配なんです。お願いします」
「…………エディ様を信用していないわけではありません。大変申し訳ないのですが、わたくしの独断で話すわけにはいかないのです。今度、エディ様に伝えてもいいか確認を取って参ります。ですから、しばらくお時間をいただけませんか……っ」
なんとか絞り出した声は語尾がかすれてしまったが、言いたいことは伝わったらしい。
エディは妥協案を探すように宙に視線をさまよわせてから、セラフィーナに視線を戻す。心配そうな表情からは、できれば関わってほしくない、という本音が透けて見えた。
「今のところ、危ないことはないのですね?」
「は、はい。わたくしが直接動くような事態にはなっていませんので……。しばらくは外出も控えるつもりです」
「それを聞いて安心しました。もし何か事態が変わることがあれば、すぐにお知らせください。……明日もまた元気な顔を見せてくださいね」
それ以上追及せずに話を終わらせてくれたのは、守秘義務の重みを理解しているからだろう。もしかしたら、セラフィーナが口を閉ざした相手のことも、ある程度は察しているのかもしれない。
巧みに言葉を重ねてセラフィーナから聞き出すことなど、彼にとっては造作もなかっただろうに。それでもエディは、無理に聞き出そうとはせず、待つことを選んだ。
(本当に……わたくしは甘えてばかりね。この優しさに、どれほど救われてきたのかわからない。いつか、彼にちゃんと打ち明けられる日が来ますように)
セラフィーナは、厚い雨雲の向こうにあるはずの太陽に祈った。
その明るい光が今は遠くても、きっといつか届くと信じて。
◇◆◇
他の下級女官がリネン室に行くところに、たまたま通りがかった文官が「ああ、よかった。誰か頼める人を探していたんだ。これ、書庫まで戻しておいてくれない?」と、一方的に荷物の半分を押しつけて早足で去っていく。
少し離れたところで一部始終を見ていたセラフィーナは、半泣きの下級女官に駆け寄った。寄り道をすれば、リネン室で待っている上級女官に叱られると思っていたに違いない。
彼女の不安を少しでも軽くするように、両手を出して優しく微笑む。
「これから書庫へ行くところだったの。書庫の荷物はわたくしが代わりに持っていくわ。あなたはリネン室に急がないといけないのでしょう? 構わずに行ってきて」
「い……いいの?」
「大丈夫。任せて」
「あ、ありがとう。私、いつもなかなか断れなくて困っていたの。……お願いね」
セラフィーナが荷物を受け取ると、彼女は申し訳なさそうに頭を下げて、ぱたぱたと走っていった。その姿が小さくなるまで見送り、歩き出す。
しかし、思ったよりも荷物が重い。
落とさないように抱え直し、セラフィーナは内心でため息をついた。
(ううん。朝から、誰かに見張られているような気配がするのよね……)
だが、ヒューゴの熱がこもった視線とも違う。
どちらかというと、セラフィーナの動向を探るような、慎重に観察されている気配がする。用事があるなら話しかけてくるはずだ。そう思って放置しているが、ずっと見られているのは実に落ち着かない。気にしないふりをするのも意外と疲れるのだ。
(向こうが来ないなら、いっそこっちから問い詰めてみる? いえ、相手が誰かわからないのに、さすがにそれは危険だわ。ローラント様を誘拐した犯人の可能性も捨てきれないし)
悩んでいる間に中庭を横切り、文官棟の回廊を抜け、書庫へとたどり着いた。
背後の気配もぴったりとついてきていたが、まだセラフィーナに接触する気はないらしい。小さく息を吐き、銀の取っ手に手をかけた。
「あ、セラフィーナさん。待ってたよー」
「こんにちは、ヘレーネさん。これ、文官から頼まれた返却物です。……ところで、例のものはできました?」
「うん。ばっちり! あとで見せるね」
小声で会話していると、誰かが静かに扉を開けて入ってくる。
気配を押し殺すような小さな足音に、文官に扮したニコラスが来たのかと顔を上げたが、入ってきたのは別の人物だった。
同じ文官服を着てはいたが、まだ若い青年だ。びくついた様子できょろきょろと周囲を見渡している。やがてセラフィーナと目が合い、彼はほっとしたように顔をゆるめた。
(淡い亜麻色の髪がもさっとしていて、目元が隠れているから表情がいまいち見えないわね。初めて見る顔だけど……すごく怯えているみたい)
彼は緊張した面持ちで、セラフィーナのほうにゆっくり近づく。
猫のように警戒しながら、声がかろうじて届く距離で足を止めた。その微妙な距離感は、相手との間合いを慎重に測っているような雰囲気があった。
「……あっ、あのっ……せ、セラフィーナさん、ですよね? コントゥラ事務次官が、目をかけている優秀な下級女官がいるって……聞いて……」
「失礼ですが、あなたは?」
「は、はい。……イネル・トレヴァンと申します。サルリマ財務官の補佐官をしております。で、ですがもう、あの方の命令には……し、従えません」
青年は息苦しさを耐えるように、胸元の服をぎゅっと握りしめた。
今にも逃げ出すのではないかと危惧したが、彼は意外にもセラフィーナから目をそらさなかった。ぶ厚い前髪で目の色までは確認できないが、注がれる視線には確かな覚悟を感じ取った。
「不躾を承知でお願いがあります。レクアル殿下か、ニコラス殿下に……お取り次ぎいただけませんか。どうしても伝えたいことが、あるんです……っ」