80. これは業務報告ですので
日常業務に加えて上級女官の補助も終えたセラフィーナは、女子寮へ向かって使用人通路をしずしずと進んだ。定時で上がった同僚たちの姿はどこにもない。
外の通路に出て、日がだいぶ沈んでいるのに気づき、ふと立ち止まった。
(……そういえば、結局どこで報告をすればいいのかしら)
昨日、エディからは「夕方、様子を見に来ます」としか聞いていない。セラフィーナから外出予定を聞き、レクアルに報告するためだ。
けれども、女子寮の前で報告するには人目が多すぎる。
毎日のように会っていたら目撃者は増えるだろうし、嫉妬の対象になるのは避けられない。できれば別の場所がいいが、セラフィーナが騎士団を訪ねるのも噂になる。まず間違いなく。
(困ったわね。気軽に相談しに行くのもできないなんて……)
女子寮が視界に入ったが、近くに騎士の姿は見えない。よく考えれば、下級女官と近衛騎士の仕事時間が被るわけがない。そこで、エディの勤務時間も知らないことにようやく気づく。
今日は仕事が終わるのが自分だけ遅かったから、タイミングが悪かったのだろうか。
(いいえ。もしかしたら、仕事の都合で今日は来られなかっただけ、なのかも)
外せない用事が入ったら来られないのは当然だ。
レクアルのそばに控えるのが彼の仕事なのだから、セラフィーナの予定に合わせるほうが現実的ではなかったのだ。落胆のため息をつきかけたところで、視界の片隅で何かが動いたのを捉えた。
「ん?」
目を凝らす。敷石の向こう、第二資材庫の裏手にある搬入口に、黒い影が立っているのが見えた。庇の奥にいるので一目ではわからなかったが、差し出された手がセラフィーナを招くように小さく動く。
内側が青空の白いマントは近衛騎士の服だ。
目が合ったエディは、口だけで「こちらへ」と言っているように見えた。手で導かれた先は物資の受け渡しに使われる搬入口の軒先だ。昼間は荷車が行き来するものの、日が暮れる頃には静まり返り、ほとんど人通りがなくなる。
力仕事が必要なこの場所には、女官は滅多に足を運ばない。すでに今日の作業は終わっていて、周囲に人気はない。
夜の気配に包まれた中、闇に紛れるようにしてセラフィーナは小走りで近づく。
「ここなら、人目も少なくて話しやすいかと思ったので」
庇の下に身を寄せたエディが、小さく微笑みながら言う。
「体調の変化だけでなく、何か気がかりなことがあれば、どんな小さなことでも教えてくださいね。殿下の命を受けて、私はここにいるのですから」
あまりにも真剣な声音に、セラフィーナは返す言葉を一瞬忘れそうになる。淡い月明かりに照らされたその横顔は、確かな使命感が宿っていた。
「……ありがとうございます。ここは落ち着きますね。雨が降っても大丈夫ですし、いい隠れ場所を教わりました」
小声で言うと、エディが穏やかな顔で頷く。
「今日は体調に変化は? どこか痛みはありませんか?」
「ふふっ。エディ様もノートリア副侍医の経過観察報告書をご覧になったのでしょう? わたくしは元気そのものですよ。火事の後遺症もありません。エディ様こそ、火傷は大丈夫だったのですか?」
「私はこれでも騎士ですから。騎士服を着込んでいましたし、あなたよりずっと軽症でしたよ。数日は喉の調子が悪かったぐらいですかね」
「……それならよかったです」
胸の中にずっとあった懸念が取り払われ、ふっと目元がゆるんだ。
「それで、次に外出するのはいつですか?」
「うーん……。それなのですけれど、本当に毎回ついていらっしゃるのですか? レクアル殿下の護衛任務のほうが重要だと思うのですが」
「ご心配には及びません。レクアル殿下自身のご命令ですから。現にあなたは以前、つきまといをされていましたし。一度あることは二度あると言います。用心するに越したことはありません。特にあなたはコントゥラ事務次官に信頼されていたと聞いています。事務次官を誘拐した犯人が、次にセラフィーナを狙う可能性は否定できません」
すらすらと理由を述べられ、ぐっと言葉に詰まった。反論ができない。
セラフィーナは致し方ないと腹をくくり、口を開いた。
「あの……ひとつだけ、約束してほしいことがあります」
「騎士は約束を違えません。どうぞ、何なりと」
「週末は、ラウラ先輩とアルトさんの隠れ家に行きます。そこで見聞きしたことは他言しないでほしいのです。レクアル様への報告については、アルトさんからの了承を、ラウラ先輩を通じて得ていますので大丈夫です。ただ、それ以外の人には絶対に知られたくないのです」
ラウラとアルトの秘密は誰にも知られるわけにいかない。
(昼休みの合間を縫って、ラウラ先輩に相談したら「彼なら口は堅そうだし、他言しないのであれば大丈夫」と言われているし、念のためアルトさんにも確認を取ってもらった。レクアル様なら胸の内に秘めてくれると確約をもらったけれど……少しでも不安の種は取り除いておきたいわ)
彼らの身の安全が保証されなければ、いくらエディとはいえ、連れてはいけない。彼を信頼していないわけではないが、本人の口からしっかり言質は取っておきたい。
その覚悟が伝わったのか、エディは無言のまま一歩下がり、静かに右手の手袋を外すと懐へと収めた。そして右膝を地面につけ、背筋を正すように左手を添える。右の拳は、迷いなく胸元へと当てられた。
クラッセンコルト公国の騎士が捧げる誓いの所作なのだろう。騎士道の精神が、凜とした動きのひとつひとつに宿っている。
「……セラフィーナのお気持ちはわかりました。お約束します。あなたが口を閉じろとおっしゃるのならば、私は決して口を開きません。誰にも吹聴いたしません。どうぞご安心ください」
胸に当てた拳をゆっくり下ろすと、エディは顔を上げた。
飾り気も冗談も一切ない真剣な眼差しは、どんな言葉より確かな意志が宿っていた。金色の瞳に、射抜かれる。
そのまま動けずにいると、エディは繊細な硝子細工を扱うように、そっとセラフィーナの右手を持ち上げた。指先から手のひらへと、じんわりとした温もりが広がっていく。
(……この感触、どこかで……?)
一瞬、かすかな既視感に眉が動いた。だがセラフィーナは、その感覚をすぐに振り払うように顔を取り繕い、震えかけた唇に力を込めた。
「その言葉を信じます。では、週末の護衛を頼みますね」
「はっ、お任せください」
「……待ち合わせ場所は通用門でいいですか? あまり目立ちたくないので、少し早いですが朝食後に」
「承知しました」
端的な答えに、ひとつ頷く。その動作すら、彼の前ではぎこちなくなってしまう。
(──だめよ、取り乱されないで。自分を強く持つの。わたくしは悪役令嬢セラフィーナ! 自分だけの騎士が誓いを立ててくれたみたい、とか妄想しちゃだめなんだから……! 煩悩は滅却しなさい……っ)
だが心を無にしようとすればするほど、心が波立ってしまう。
視線を合わせるたび、胸の奥がうずく。これ以上見つめられたら、隠してきた感情がぽろりと出てしまいそうな恐怖を感じ、必死に自分を律する。
「……当日は、よろしくお願いいたします」
セラフィーナはそれだけを言い残し、その場から逃げるように離れた。
夜風が熱を帯びた頬を撫でる。遠くの木立の向こうから、か細く澄んださえずりがひとつ響いた。
季節の移ろいが、少しずつ心にも変化をもたらしている。そんな予感が、確かにあった。