8. 急いては事をし損じる
「ちょっと、セラフィーナ? 難しい顔をしてどうかした?」
現実に引き戻す声にハッとすると、心配そうな顔で見てくるラウラと目が合った。
「い、いえ……」
「とにかく、魔力が多いってことは隠しておきなさい。この国は魔女には寛容だけど、ふとしたことがきっかけで巻き込まれる可能性もゼロではないわ。穏やかな人生を送りたいなら、用心するに越したことはないでしょう」
「そ、そうですね……」
「私は掛け布団を用意してくるから、あなたは自分の荷物を運んでおきなさいね」
ベッドから降りて、ラウラはすでにドアの取っ手に手をかけていた。
「あ、あの……っ」
セラフィーナは立ち上がり、自分のワンピースの裾をつかんだ。
何かを言わなければ。けれど、何を言えばいい?
(実は人生をループしているから助けてください……とか? いいえ、そんなことを言ったら、絶対変に思われる。いきなり言って、すぐに信じてもらえるわけがない)
ここで言葉選びを間違ったら身の破滅だ。
彼女はようやく会えた貴重な魔女。今、感情のままに訴えて拒まれたら元も子もない。ラウラとは出会ったばかりで、まだ信頼関係も築けていないのだから。
(し、慎重にならなければ……)
焦りは禁物。そう自分を戒めていると、ラウラが体の向きを直す。真正面に立ち、話を聞く態勢になる。
「何か質問があるなら聞くわよ?」
「……いえ。……なんでも、ありません」
「そう? あ、私の部屋は真向かいの部屋だから。何か話したくなったら訪ねてきて」
ドアの向こうに消えていく背中を見送り、セラフィーナはその場に立ち尽くした。
◇◆◇
下級女官の仕事は上級女官の手伝いが主だと思っていたが、宮殿の清掃や井戸とリネン室との往復、果ては文官たちから頼まれた雑務もあり、毎日が怒濤のように過ぎていく。
急ぎの用事を言いつけられることも珍しくなく、どうにか区切りをつけて昼食の時間を作らないと食べる暇すらなくなる。与えられた仕事を日々こなしていくのが精一杯で、職場の同僚と打ち解ける暇もないまま、気づけば日が傾いている。
(今日もラウラ先輩に話せなかった……というよりも、話しかけるタイミングがわからない)
仕事の疑問なら聞きに行けるが、自分以上に忙しそうにしているのを見てしまうと、雑談を挟む勇気はなかった。わざわざ足を止めさせるのも悪い気がして、姿を見かけてもそのまま見送ることが大半だ。
誰もいない白い回廊の柱に背を預け、セラフィーナは吐息をこぼす。西日で柱の影が長く伸び、自分の影も飲み込まれた。まるで、自分の存在が曖昧になっていくような心地になる。
後ろで束ねたアッシュベージュの髪が、さわさわと左右に揺れる。どうやらこの回廊は風の通り道らしい。
「やはり、下級女官の仕事は苦痛ですか……?」
「……っ……」
男性にしては少し高めの声に、びくりと肩が跳ねた。
ぎこちない動きで首を巡らすと、白い騎士服が目に入った。今日は翡翠の髪は青のリボンでくくられている。金色の双眸は穏やかな光を宿し、大人の余裕を感じさせる。
「すみません、驚かせたようですね。私です。エディです。レクアル殿下つきの護衛をしていた騎士ですよ」
忘れられるはずがない。
婚約破棄の後、木登りをしていたことを見られたばかりか、足元に跪き、ヒールを履かせてくれた美しい騎士。
「エディ様……どうしてこちらに?」
「殿下から様子を見てくるように頼まれまして。仕事を始めてちょうど一週間ですし、そろそろ現実に苦しんでいる頃合いではないかと。侯爵令嬢が下級女官の仕事なんて、荷が重いのでは?」
「いえ、仕事は……ラウラ先輩が懇切丁寧に指導してくれますし、こう見えて雑用は得意なのです。それに、わたくしはもう侯爵令嬢ではありませんし、このくらいで音を上げたりはしません」
強がりだと思われているのか、エディは心配そうな表情のままだ。
説明が足りなかったのかもしれない。そう思ったセラフィーナは言葉を重ねる。
「仕事は大変ですけど、やりがいも大きいのです。生きていると実感できて……」
分刻みのスケジュールで管理された妃教育は義務感のほうが強かった。
それに比べて、今はこまごまとした雑用ばかりで目が回りそうになる反面、仕事をこなせばこなすだけ周りの評価が上がっていく。
できて当たり前だった侯爵令嬢とは違い、新人なのに仕事が早いと褒められる。
複数の用事をまとめて言われても、メモを取っておけば忘れる心配もない。優先順位の付け方も平民の下積み時代の経験が役に立っている。掃除の技術もこれまでのループ人生で培ってきたもので、人生何がどう役に立つかわからない。
エディは少し驚いたように瞬いていたが、ひとまず納得したように頷いた。
「そうですか……でも、あまり無理はしないでくださいね。適度に手を抜いて、楽できるところは楽しちゃえばいいんですよ」
「え……」
「すみません。私の勝手な推測ですが、あなたはなんでも完璧を目指そうとしているように見受けられましたので」
言われたことはその通りだったので、心を覗かれてしまったような気まずさが先に立つ。未来の皇太子妃として内面を隠すことは得意だと思っていたのは、もしや勘違いだったのだろうか。
「わたくしは……そんなにわかりやすいのでしょうか?」
「うーん。頑張り屋だということは、話していると伝わってきます。慣れない異国での生活に馴染むだけでも大変でしょう。常に気を張っていたら体がもちません。何事もメリハリが大事ですよ」
それはかつて誰かに言われた言葉と同じもので、セラフィーナは記憶を思い返す。
(誰だっけ……ああ、そうだわ。郵便工房の上司に言われたんだったわ……)
すべてを全力でやるのではなく、手を抜くところは抜けばいいという考え方は郵便工房で働いていたときに言われたことだ。繁忙期の乗り切り方として授けてもらった助言でもある。
(だけど、エディ様もそんな風に考えているなんて……なんだか意外だわ)
彼は職務に忠実で、どちらかというと同類の考え方だと思っていた。同じ側の人間だと勝手に思っていただけに、驚きのほうが上回る。
「エディ様も気を抜くときがあるのですか……?」
「護衛中はさすがに周囲を警戒していますよ。ただ、職業病みたいなものでしょうか。日常動作として染みついているというか、昔から気配には敏感な方でして。仕事以外でも誰が来たかわかってしまうぐらいなのです。普段からこの通りなので、それほど疲れはしません。……なので、緊急時以外は適度にリラックスしていますよ。周囲がピリピリしていると、殿下も心が安まるときがありませんからね」
セラフィーナは慣れない仕事が続いているせいで、心身ともに疲労が蓄積している。身体の使い方にまだ無駄が多いのだろう。
一方、エディの顔は涼しげだ。疲労が積み重なる夕方なのに、体力も半分以上、温存しているような余裕がある。
「すごい……プロなのですね。さすがです」
素直な賞賛を口にすると、エディは居心地が悪くなったように視線をそらした。
「そ、そんなに褒められるようなことではないのですが……」
「いいえ。もっと誇ってもいいくらいです。護衛任務を息を吸うようにこなし、常に職務を全うしておられるエディ様は、本当に立派です」
「……あまり褒められ慣れていないので、なんだか気恥ずかしいですね」
「そうなのですか?」
意外な思いで見つめると、照れたような笑いが返ってくる。
エディは片手を後頭部にやり、眉尻を下げた。
「護衛の仕事は表立って活躍することはほとんどありません。護衛の評価がされるのは何か問題が起きたときです。主をいかに守れるか、終わった後、いかに何もなかったように振る舞えるか、そういう部分が評価されます」
「大変なお仕事なのですね。責任も大きいでしょうし」
「主の憂いは先に払うのが務め。そういう意味では、あなたの存在はとてもイレギュラーです。第二妃を辞退し、女官として働くなんて……普通の女性では考えられないことです」
今度はセラフィーナが目を背ける番だった。
自分にはどうしても変えたい未来がある。定められた運命だと諦めるのではなく、あがいてみたい。この命が尽き果てる、そのときまで。
「エディ様……わたくしはただ守られるだけの女でいたくはないのです。自分の人生ですもの。後悔のないように生きたいと思っています」
待っているだけでは運命は変えられない。もし運命の糸が赤色だとしたら、青色に塗り替えるぐらいの気概でいないと、きっと今までと同じ結末になるだろう。
(なんとしてでも、魔女として断罪される運命から逃げ延びてみせるわ……!)
諦めたらそれでおしまいだ。
セラフィーナの揺るぎない思いが伝わったのか、エディがまぶしいものを見るように目を細めた。
「レクアル殿下があなたを特別視する意味が、今ならわかった気がします。あなたは籠の中の鳥ではないのですね。自由に空を羽ばたける翼を持っている」
「……それは買いかぶりすぎですわ。今のわたくしには、力も権限も、何ひとつ残されておりません」
「そうでしょうか。私には、あなたは望んだところへ行ける力を持っているように感じます。そして、あなたには下級女官ではなく、もっとふさわしい場所がある」
確信を帯びたような声色に、セラフィーナは頭を振った。
「いいえ……いいえ、エディ様。わたくしは下級女官でよいのです。無理に高望みしてしまったら、足をすくわれるでしょう。働く場所も寝る場所もちゃんとあって……今の地位で充分なのです。わたくしは自分のできることをこなすだけです」
「ぶれないのですね。よほど、強い望みがあるということでしょうか」
「ふふ、ご想像にお任せしますわ」
社交用の笑みをはりつけていると、エディが肩をすくめた。
「殿下にはお元気そうだったとお伝えします。……また来ます。お仕事、どうか頑張ってください」
「ありがとうございます。エディ様もお元気で」
踵を返す彼の背中を見送る。コツンコツンと軍靴の音が回廊に響いた。