79. あなたの姿が見えなくて不安でした
西の空が藍色に沈み、まだ夜の帳が完全には下りきっていない時刻。
淡い月明かりが、石畳の継ぎ目をかすかに照らしていたが、その光ではすれ違う人の表情までは読み取れなかった。徐々に暗さが深まる中、セラフィーナは疲れた体を引きずるように、ゆっくりと前へ進んだ。
ラウラとアルトが封印術式の解析に没頭していたため、セラフィーナは一足先に帰路につくことになった。
(わたくしは座っていただけなのに、なぜか体が重だるいわね……)
おそらく、二人に真剣に見つめられて緊張していたせいだ。彼らが見ていたのはセラフィーナ自身ではなく、封印術式だったけれど。それでも自分に熱心に視線が注がれるのを長時間耐え抜くのは、思っていたより精神力を消耗させた。
宮殿の門扉が見えたとき、セラフィーナは体中の力が抜けた気がした。
(今日は早く寝ましょう。明日もお仕事があるんだから)
だが石畳の壁際にじっと佇む黒い影を見つけ、小さく息を呑む。
灯りの届かないその場所は、ちょうどヒューゴが待ち構えていたのと同じ位置だった。自然と足が止まる。喉の奥がきゅっと詰まり、指先がかすかに震える。
(まさか、また……?)
ぴしりと体に緊張が走ったそのとき、影がゆっくりと前に出た。
だが聞こえてきた声は、思いのほか優しく、どこか安堵の色を含んでいた。
「おかえりなさい。ご無事で……本当によかったです」
男性にしては少し高めの声の主は、頭に思い浮かべた人物ではなかった。
夜空を照らす月のような瞳に、翡翠の長い髪をひとつに結った騎士は、ほっとした様子で微笑を浮かべた。
けれど、セラフィーナは驚きのあまりに声が出ない。
その様子を見たエディは、申し訳なさそうに、わずかに目を伏せて続けた。
「すみません。こんなところに立っていて、驚かせたでしょうか。宮殿内にあなたの姿がなくて不安で……。もう少し待ってみて戻られなかったら、探しに行こうかと思っていました」
「…………」
「また、あなたを失うかもしれないと思ったら、いてもたってもいられなくて。私が待つのはご迷惑でしたでしょうか」
「ち、違います。そうではなくて──その、前にヒューゴさんに同じ位置で待ち伏せされたことがあって。ちょっと驚いただけです。迷惑だなんて、そんなこと思うはずがありません。エディ様は心配してくださったのでしょう?」
必死に弁明すると、まるでエディは不意打ちを食らったかのように、呆然と手に口元に添えた。
きっと露ほども想像していなかったのだろう。このことは、誰にも言っていないのだから当然だ。しかし、エディは顔を真っ青にさせて即座に謝罪した。
「す、すみません! まさか、私の行動が怖がらせてしまう要因を作っていたとは思わず……。次から気をつけます」
頭を下げられ、セラフィーナはたじろいだ。
「エディ様は何も悪くありません! わたくしがただ勝手に身構えてしまっただけで……。それに、あの人を追い払ってくれたのはエディ様ではありませんか。わたくしは本当に感謝しているのです。ですから、どうか顔を上げてください」
「…………はい」
「それはそうと、なぜわたくしを探されていたのでしょう? ひょっとして、レクアル様がお呼びだったのでしょうか」
考えられそうな心当たりを述べると、エディの顔色が沈んだ。
それから寂しげな微笑を浮かべる。
「レクアル殿下は関係ありません。私が、心配だったのです。監禁の関係者は現在、謹慎処分を受けていますが、あなたが狙われたという事実は変わりません。もしまた、私の知らないところで、あなたが危機的状況に陥っているかもしれないと思うと……」
「だ、大丈夫ですよ。そんなに何度も危機は訪れませんし、今度はちゃんと助けを呼びますから」
「……セラフィーナ。これは私のわがままです。ですから、あなたには拒否権があります。けれど、どうかお願いです。今後、外出されるときは私の随行を認めてください」
あまりにも切実な響きに、セラフィーナは瞬くことしかできなかった。
嘘でも冗談でもないのは明白だった。だが突拍子もない申し出に、どう返すべきかわからない。言葉を探していると、エディが焦れたように口を開いた。
「もちろん、後ほどレクアル殿下にも理由を説明して許可をいただいてきます。殿下も火災事件以降、セラフィーナを心配しておいででした。きっと許してくださるでしょう」
「…………」
「あなたの身の安全を守るためです。そばに控えさせてください。セラフィーナの邪魔になる行動はいたしませんし、不埒な動機からではありません。……だめ、でしょうか?」
最後の声が弱々しくて、心臓が握りつぶされそうな感覚に陥った。
心なしか、瞳も潤んでいるように見えた。
数分の心の葛藤の末、セラフィーナは根負けするように言葉を絞り出した。
「わ、わかりました。お願いいたしますわ……」
「ありがとうございます! これから、あなたの警護に全力で当たります」
張り詰めた空気が嘘のように、エディの顔がぱっと輝いた。そのあまりの変わりように、先ほどまでの沈痛な表情は見間違いだったのだろうかと首を捻る。
会話はそこでいったん途切れ、少々の気まずさを抱えながら、セラフィーナは女子寮まで送り届けられた。
◇◆◇
その夜。エディは素晴らしい行動力で、レクアルから「身辺警護」の許可を正式に取り付けてきた。火災事件の恐怖がいまだ残る中、事務次官の失踪も重なり、宮殿内の警戒は高まっている──それを建前として、護衛の許可は命令という形で下された。
セラフィーナはしがない下級女官であり、護衛をつけるには主の許しが不可欠だ。けれど、エディはその条件をすべて満たし、嬉々としてセラフィーナに報告した。
(……わたくし、エディ様の行動力を侮っていたかもしれない)
護衛の許可は下りたものの、彼はずっとセラフィーナの隣にいるわけではない。
あくまで、宮殿外に出るときだけの臨時護衛だ。しかし、常に一緒に行動するわけではないため、セラフィーナの予定を彼に伝える手段がない。それを指摘したら、毎日様子を見に来るという話に落ち着いた。
(本当にいいのかしら。エディ様は、レクアル様の近衛騎士なのに……)
ただの下級女官には身に余る特別待遇だ。
けれど、エディは完全なる善意の申し出だったし、女一人でまったく危険がないとは言い切れない。それに何より、揺らめく灯火に照らされて、エディの顔は夜空に浮かぶ星のように輝いていた。
その誇らしげな表情を見て、断るなんて残酷な真似はできない。
夜は静かに更けていく。
月が雲の切れ間から姿を現し、二人の影をゆっくりと重ねていった。まるで、距離を縮めた心が、地面に映し出されたように。