78. 隠れ家に再び
日中の温度はまだ高く、暑さに息をひそめる街路樹を横目にラウラの後を追う。
家々の軒先には花籠が吊るされ、風に揺れていた。壁際の木製の看板が軋み、左右にぱたぱたと動く。
市場からもれる声と荷馬車の車輪の音が、石畳の路地に反響していた。
しばらく進むと、見覚えのある風景が広がってきた。寂れた灰色の壁に木製の扉。アルトの隠れ家だ。扉の前にやってきて、セラフィーナは今さらながら気づいた。
「えっと、アルトさんがいないと中には入れないのでは……」
「大丈夫よ。合鍵、持っているから。あいつは、もう少ししたら来るんじゃない?」
至極当然のように答えが返ってきて、セラフィーナは苦笑いのまま固まった。
(合鍵を預けるぐらい親密なのに、恋人ではない、のよね? いくら前世の縁があるとはいえ、なんだかアルトさんが不憫すぎるような……。聞いていた通り、ラウラ先輩は手強い相手だわ。どうやったらラウラ先輩を振り向かせられるのでしょう。これは思ったより難問ね。……いえ、今はローラント様のほうが大事。気持ちを切り替えなくちゃ)
ラウラは慣れた手つきで鍵を開け、セラフィーナを通すと、すぐに鍵を閉める。
(そういえば、前に来たときも扉を六回ノックしていたし、徹底しているわよね。隠れ家っていうぐらいだから、これぐらいが普通なのかしら。それとも、シルキアの憲兵を警戒している? 確かに魔女だと疑われたら即連行だものね……)
ラウラが肩にかけていた荷物を丸テーブルの床に置く。
手振りで座るように指示され、セラフィーナもおずおずと向かい側の席に腰かける。クッションつきの椅子の背もたれに身を預けると、ほどよい疲労がじわじわと体に染み込んでくる。部屋を見渡していると、前回来たときとの違いに気がつく。
(そういえば、前に来たときは椅子は二脚だけだったはず。四脚になっているってことは、買い足したのかしら。このクッションもそうだし、ソファも増えているわ。……あれは仮眠用かしら?)
使う頻度が増えたから家具を増やしたのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと玄関から鍵を開ける音がした気がした。
振り返ると、ちょうどアルトが顔を覗かせた。片手で紙袋を抱え、何か企んでいるような笑みで声をかける。
「やっほー。いやあ、今日も暑いね」
「そんな当たり前のことを言わないでくれる? 余計、暑さが増すでしょ」
「ごめんごめん。気分だけでも涼しくしようと思って、買い物をしてきたんだよ」
「また変なものを買ってきたんじゃないでしょうね」
「違うって。ほら見てよ、普通でしょ?」
そう言って、アルトは机の上に紙袋の中身をひとつひとつ取り出した。
よく熟れた黄色いレモンが一個と、摘みたての赤すぐりが一房、木苺が数粒、それに青々としたミントの葉が数枝。
意外な中身に、セラフィーナは小首を傾げた。
「アルトさん、これで何を作るのですか?」
「ふっふっふ……。暑い中を歩き回って疲れたでしょ。ちょっと涼しくなるもの、作ってあげる。すぐ終わるから待っててね」
人差し指を一振りすると、水瓶からひとりでに細い水流が空中に浮かび上がり、柔らかな弧を描いて、水場で待つアルトの手元へ届いた。彼は手早く手を清め、ハンカチで拭う。
驚いたのはセラフィーナだけだったようで、当の本人は慣れた手つきで調理に移る。
レモンは薄くスライスされ、赤すぐりは房から器用に実をもぎ取られて、まな板の上で転がすようにして潰されていく。木苺も軽く潰して香りを立たせ、まとめて涼しげな陶器の器に落とされた。
そこへ水差しで井戸水を注ぎ入れ、木のさじで静かにかき混ぜる。透明だった水は、やがてほんのりと薄紅色に染まっていった。
(うーん。確かに見た目はおしゃれだけど、ぬるいお水だと涼しさが半減するような……)
セラフィーナが疑問に思ったタイミングで、アルトがカップに向かって指先を一回転させる。次の瞬間、陶器の中に氷が二個ずつ、カランと音を立てて出現する。
果実の隙間をすり抜けながら沈んだ氷が、シュウウという音とともに冷気を立ち上らせている。アルトの氷魔法だ。
(本当に息を吸うように魔法を使うわよね……わたくしの感覚がおかしいのでは、と思ってしまうぐらいなのだけど)
彼は残っていた小さいミントの葉を一枚取って、「こうすると香りが立つんだ」とコップの縁にそっと添えた。
「はーい、お二人さん。『夏摘みベリーのレモン水』ができたよ。毎日頑張っているご褒美に、どうぞ召し上がれ」
陶器のカップに注がれた飲み物を、まずラウラに、ついでセラフィーナに差し出す。
そこには細かく砕かれた木苺の果肉が沈み、浮かぶ輪切りのレモンが淡く光を透かして揺れている。ベリーの甘酸っぱい香りがふわりと立ち上り、自然と喉が鳴る。
セラフィーナはラウラと目を合わせてから、そっと一口味わう。
レモンのさっぱりとした酸味が舌先をくすぐり、続いてベリーの濃い甘みがじわりと広がっていく。とろけるような果肉の舌触りが、冷たい飲み口と見事に調和していた。ミントの香りは控えめに、最後にふわりと鼻を抜けていく。
暑さと疲れを一瞬で吹き払ってくれるような、夏にふさわしい特別な一杯だった。
「とても飲みやすいですね。いろんな味が調和されていて、氷があるのでほどよく冷たく美味しいです」
「ええ、味も悪くないわね」
「でしょ〜? 僕、こういうの作るの、得意なんだよね」
アルトは照れ隠しのように笑い、残ったレモン水を自分の分のカップに注ぎながらつぶやいた。
「火も鍋もいらないし、暑い日にぴったり。……はぁ、生き返る」
「あんたはいちいち爺くさいわよねえ」
「爺くさい!? まだ輝かしい二十代ですけど!? ひ、ひどいよ。ラウラと五歳しか違わないのに、悪口はやめてよ。本気で凹むから」
「……ありのままに言っただけなんだけど。別に貶しているわけじゃないわよ。お互い前世の記憶があるからか、たまにおじいちゃんと話している気分になるのよね」
ラウラがしみじみと言うと、アルトがピシリと固まった。衝撃のあまり、口が半開きのまま微動だにしない。
これはまずい、とセラフィーナは慌てて口を開いた。
「アルトさんは年相応のときもありますけどっ! いつもおおらかで、話していて安心できるって意味ですよね……!」
「え、ええ。まあ、そんな感じ……かしらね」
「……僕、おじいちゃんと思われていたの? 今まで、ずっと?」
「ら、ラウラ先輩、アルトさんがいじけちゃっていますよ。なんとかしてください」
「えぇ? なんとかって言われても」
珍しくラウラがまごついている。言い過ぎた自覚はあるようだ。
「こういうときは、アルトさんの格好いいところを言ったらいいと本で読みました!」
「……格好いいところ……」
「何か一つでもいいから、早く言ってあげてください。アルトさんがどんどんしおれていっています。このままじゃ枯れちゃいますよ」
「…………まったく、面倒な男ね。まあ、私もちょっと言い過ぎちゃったけど。もうアルト、そんなにしょげないでよ。こうやって、おしゃれな飲み物を用意してくれるところは、いいなって思ってるから。前から思っていたけど、あんたは相手が喜ぶものを考えるの得意よね。それって相手をそれだけ大事にしている証拠だと思うの」
「…………」
「だ、だから……その。いつも、ありがとう」
セラフィーナが固唾を呑んで見守っていると、干からびた花みたいにぐったりしていたアルトが途端に生気を取り戻す。紺碧の瞳がきらきらと輝き、ぐるんとセラフィーナを見つめた。
「ちょっと、ねえ! 聞いた? ラウラが僕に……感謝をっ! 今日は感謝記念日にしよう!」
「そんなもの作らなくてよろしい」
「ちぇっ」
すぐさま却下されたにもかかわらず、アルトは楽しげに微笑んでいる。
(よかった……本当に。一時はどうなることかと)
さっきまで感じていた疲れが、少しだけ和らぐ。
すっかり、いつも通りの空気に戻っている。もう大丈夫だ。
「はいはい。休憩はこのくらいにして、作業に移りましょう」
ラウラは革鞄から紙束を取り出し、アルトは羽根ペンとインクをテーブルに置く。二人とも目配せもなしに準備を終わらせ、机の上はすぐに記録できるような状態になった。
「まずはこの魔法言語から解析しないといけないわ。アルトと私で書き留めるから、セラフィーナは椅子に座ったままでいてね」
「わかりました。できるだけ動かないほうがいいですよね?」
「……まぁね。けど窮屈になったら、動いてもいいわよ。肩も凝っちゃうだろうし」
その言葉に、緊張していたセラフィーナはふっと肩から力を抜いた。
ラウラが両手を前に突き出し、小さく古語をつぶやく。それが合図だったように、ぶわりと体中が淡い光に包まれた。前回はラウラと手を触れたときに彼女にしか見えなかったそれは、魔力のないセラフィーナにもはっきりと見える。
(やっぱりラウラ先輩ってすごい……今日はわたくしにも見えるようになっている。誰でも見えるように、何か改良を重ねたのかしら。白い文字が金色の光に浮かび上がって、幾重にも重なっているのね。見たことのない記号がたくさん……まるで言葉の蔓のよう……)
複雑に絡み合った魔法言語は、素人のセラフィーナが見ても難解なものに見えた。大魔女の記憶があるラウラでさえ、知らない言語だと言っていた。これをすべて書き留め、未知の言語を解読するのは途方もない作業なのではないだろうか。
一抹の不安を抱えるセラフィーナをよそに、アルトが軽い調子で言う。
「一人だけだと骨が折れるけど、二人が書き留めたものを照合すれば、補完もそれほど難しくないだろう。セラフィーナが疲れる前に、さっさと写してしまおう」
「ええ。でも丁寧にね?」
「わかってるよ」
アルトが苦笑気味に答えながら羽根ペンを取ると、さらさらと滑らかな音が室内に満ちていく。セラフィーナはじっと動かず、集中して書き連ねる二人を静かに見守った。
紙の上に広がっていく文字列や記号は、見慣れないものばかりだ。
(あの文字が自分の体に巻き付いているのよね……? 意味はまったくわからないけれど、戒めの言葉に見えるのは気のせいかしら)
ミントの香りが、胸の奥に芽生えた不安を拭うように、かすかに鼻をくすぐる。
セラフィーナは目を伏せ、重ねた指先をそっと握った。
(悪い方向に考えてもつらくなるだけ。ラウラ先輩もアルトさんも、手がかりを探している。今はできることだけを考えましょう。……前に進むために)
外では午後の陽射しが降り注ぐ。
カーテンから射し込む光が、テーブルの上に置かれた紙の端を優しく照らしていた。
「勘違いだらけの契約婚」という新作を投稿しました。すれ違い契約夫婦のラブコメです。