76. あなたの力が必要なんです
「なんだと?」
「彼らはこの裏帳簿を取り返したい。だったら、返せばよいではありませんか。本物は隠しておいて、よく似た帳簿を敵の手に渡すのです。なくなっていた裏帳簿が戻ってくれば、彼らは安堵するでしょう。事件性があると判断されていたら、絶対に手元に戻るはずがないのですから」
「…………。運がよければ、コントゥラ事務次官も解放されるかもしれない、ということか。こちらの思惑通りに事が運んだら時間が稼げるな。泳がせている間に、もっと入念に調べることもできる」
ニコラスが静かに頷き、顎に手を添える。
「今はまだ、敵の全容がつかめていない。奴の近くには手駒がいるはずだ。これは単独で行える規模ではない。まだ手駒に気づかれるわけにはいかない以上、派手な動きは避けるべきだ。連中を一網打尽にするには、さらに証拠を積み上げる必要がある」
「……はい」
「だが、そもそも誰が用意する? 精巧な写本を用意するなんて真似、犯罪すれすれの行為だ。それとも、そういう作業が得意な奴に心当たりがあるのか?」
続けざまに質問され、セラフィーナは口を引き結んだ。
(確かに、ただ数字を写すだけでは簡単に見抜かれてしまう。もともとの紙質や数字の癖、染み、匂い、すべてを本物そっくりに似せなければならない。そんな繊細な作業、普通の文官には無理だわ。もちろん、わたくしにも……)
作戦を思いついても、それを実行できる人がいなければ意味がない。
考えろ。何か突破口があるはずだ。本当にいないのか。この作戦の要である偽造工作ができ、かつセラフィーナが信頼できる人物は。
頭をひねっていると、不意に物音が聞こえた。そして、続く小さな足音。
音の方向に視線をやれば、書庫の奥にある司書室のほうから人影が歩いてくる。スリットの入った文官服を捌き、焦茶色のゆるい三つ編みを垂らした姿を見つけ、セラフィーナはその人物に小走りで駆け寄った。
「ヘレーネさん! あなたの力が必要なんです」
小柄な彼女を抱きしめて懇願すると、「ひゃっ!?」という小さな悲鳴が上がった。セラフィーナは慌てて腕の力を弱め、ヘレーネを解放する。
彼女はずれた眼鏡の位置を直しつつ、小首を傾げた。
「……セラフィーナさん? 一体どうしたの?」
「複製作業は、司書のヘレーネさんしか頼めないんです……! お願いします、手を貸していただけませんか!?」
「え? え? ごめんね、状況がちょっとわからないんだけど」
「あっ、突然すみません。ヘレーネさんは古書の修繕もお得意でしたよね? ラウラ先輩から、筆記も驚くほど早くて正確だと聞いています。いつも丁寧に本と向き合っていて、書庫の本に誰よりも詳しいヘレーネさんだからこそ、お願いしたいのです。……こちらの複製、どうか引き受けていただけませんか?」
セラフィーナの視線を受けてニコラスが持っていた帳簿を、ヘレーネに見えるように向きを変えて差し出す。
ヘレーネはしげしげと見つめ、しばらくすると何かを察したように動きが止まる。それから、ためらいがちにセラフィーナに視線を戻して問い返す。
「…………これって、帳簿だよね? しかも正規ではないほうの」
「はい」
「あのう……まさかとは思いますけど。複製をすることによって、私も処罰の対象になりませんか?」
「君を犯罪者にするつもりはない。この問題が無事片付いたら、偽帳簿は僕が責任を持って始末する。記録上、問題が残らぬように最大限配慮する。ゆえに、君が罪に問われることは決して起きないと、大公家の名にかけて誓おう」
ニコラスの真摯な答えに戸惑いつつ、ヘレーネは手元の帳簿のページをめくっていく。青墨のインク、紙の材質を手で確認しながら口を開く。
「筆跡を真似るのは、たぶんできます。同じ紙を用意するのも問題ありません。本物そっくりに見せるようにわざと少し汚れを足す作業も、本の修繕作業で慣れています。……そうですね。セラフィーナさんの見立て通り、確かに私が適任です」
「では、頼まれてくれるか? 偽帳簿を犯人に渡し、時間を稼ぐ必要があるんだ」
「……わかりました。引き受けます。あ、でも……。うまくできるかは保証できかねるので、あまり期待はしないでくださると助かるのですが」
ヘレーネが自信なげに言うと、ニコラスが呆れたように手を振った。
「安心しろ。素人にそこまでの精度は期待していない。まして、君は諜報員でもないのだからな。いつも通りに作業をしてくれれば、それでいい」
「……では、こちらの原本はしばらく私が預かりますが、構いませんか?」
「ああ。だが厳重に管理してほしい」
「それなら人目に触れないように、奥の司書室で管理するほうがよさそうですね。あちらは持ち出し厳禁の本などを管理するため、複数の鍵を使わないと出入りできませんから。念のため、複製作業もそちらで行わせていただきます」
「頼む」
「確かに承りました。時間は、そうですね。一週間ほどもらえますか? やれるだけやってみます。ちなみにセラフィーナさんはその間、どうするの?」
両者の話の区切りがついたところで、ヘレーネがセラフィーナを見る。
(下級女官のわたくしでは、ニコラス様の近くで捜査のお手伝いはできない。だったらニコラス様が調べられないところを補う形でなら、お役に立てるかもしれない)
セラフィーナは心配そうなヘレーネを安心させるため、微笑を浮かべた。
これまで自分の危機に、必ず手を差し伸べてくれた人がいる。今までのように一人で解決しようとするのではなく、誰かを頼っていいのだと散々教えられた。
「ローラント様の件は、アルトさんが独自で調査していたはずです。何かつかんでいるかもしれません。ラウラ先輩にもずっと隠しておくわけにもいきませんから、二人の協力を仰ごうと思います」
「うん、それがいいと思う。あの二人がいれば、セラフィーナさんが危ない目に遭う可能性はぐっと低くなるもの。……ラウラちゃんは強い子だから、きっと大丈夫だよ。後輩が奔走していて傍観するような人じゃないから」
「……話はついたか? 僕は部下を使って情報を集めてくる。お前たちはそれぞれできることをしろ。一週間後、また様子を見に来る。そのときに情報のすりあわせを行う」
「承知しました」
ニコラスは時間を惜しむように、すぐに踵を返して書庫から出ていく。
残されたセラフィーナとヘレーネはゆっくり視線を交わす。
どんどん話のスケールが大きくなっている。自分が当事者の一員として関わることなんて、誰が予想できただろう。
けれど、ヘレーネに目をつけたのは他でもない自分だ。セラフィーナは素直に謝った。
「ヘレーネさん。ごめんなさい、あなたを巻き込んでしまって……」
「ううん、気にしないで。司書の私でもできることがあるんだと思ったら俄然、やる気が出てきたの。気落ちしているラウラちゃんを見ているのも忍びなかったし。それに、これは私にしかできないこと。ニコラス様には保証はできないって言ったけど、うまくやるから期待していてね!」
「ふふっ、頼りにしています」
「どーんと任せて」
この作戦の肝はヘレーネが握っている。
だったら、彼女にも話の概要を説明しておくべきだろう。セラフィーナはこれまでの事情をかいつまんで説明する。もっと驚くかと思ったが、意外と冷静に耳を傾けていた。数回、質問をされたが、ヘレーネは「うん。だいたいの話はわかったよ」と頷いた。
「話してくれてありがとう。ラウラちゃんの伯父さんを助けるためにも頑張ろうね!」
「はい……っ!」