75. 見つけた手がかりは
外回りの用事を終わらせてから戻ります、とだけラウラに告げて、セラフィーナは書庫の扉をそっと開けた。
しんと静まり返った空間に、わずかに紙と皮の匂いが漂っている。
ヘレーネは不在らしく、カウンター席はがらんとしている。
(……不審に思われないよう、今のうちに調べてしまいましょう)
セラフィーナは奥の書棚に進み、ローラントと会話した場所に向かう。
彼が触れていた背表紙の本を手に取り、ばらばらと開く。だが、内容はただの旅行記だ。最後まで確認したが、特段おかしなところはない。
(おかしいわ。絶対これだと思ったのに)
自分の直感は間違っていたのだろうか。
落胆が隠せないまま、周辺の本を一冊ずつ手に取る。『辺境の英雄譚』『東方探訪録』『旅人リュカの見聞記』、どれも普通の本だ。証拠の紙片が挟まっていることもなく、ページに書き込みの跡もない。証拠に繫がるものはどこにもない。
(そういえば、『暗号を解き明かして宝物を見つける場面は興奮した』ともおっしゃっていたわ。旅行記でないなら、伝記の棚? 普通の人が手に取らないような題名は……)
伝記が並べられている棚の背表紙をひとつひとつ確認しながら、『風の記憶、影の道』という本を手に取る。重厚な装丁だが、見た目より驚くほど軽かった。
訝しく思いながらページをめくり、目を見張る。もう一度表紙の題名を見返し、先ほど目に入った数字をもう一度じっくりと眺める。
(間違いない、これだわ。違う表紙で偽装されているけれど、中身は別物。決して表舞台には出てこないお金の動きの記録──裏帳簿)
セラフィーナはごくりと息を呑み、帳面に視線を走らせる。
不自然なほど大きな金額のやり取り、見慣れない決算報告、内部通達の写し──。
この帳簿を書いた人物は、異常なまでに几帳面だったらしい。帳簿を二重に操作した痕跡だけでなく、複数の部署に跨がる金の流れが、日付・額面・用途・輸送経路に至るまで詳細に記録されている。
(倉庫修繕費と計上されていた資金が、別部署を経由して、架空名義の商会に移動されているわ。《無登録商会G-5》という符号は確か、ローラント様の文官補佐をしていたときに見たことがある。そのとき、ローラント様からも説明も受けた。……南部の貿易路に関与していた、廃業済みの武器商人の末端、だったわよね?)
さらにページを繰ると、品目記録が出てきた。そこには「鍛造部材」「防具部品」「特殊処理済み鋼材」「携帯食」など、戦場にまつわる物品の名が並ぶ。備考欄には《次回、S.L.-47経由で受取予定》《D.C.ライン通過時に注意》といった注意書きも残されていた。
地名と思われるコードと、物資の内容の記録から考えて、明らかに普通の流通ではないのは明らかだ。
(どうしてこんなものが……。しかも、この出荷先のコード……どこかで……)
疑問は次々と浮かぶが、答えは出ない。
だがこの帳簿に、表では処理できない金と物の流れが記されているのは確かだった。
(ん? 誰かがこちらに向かってる……?)
足音が近づいてくるのがわかり、とっさに本を背中に隠す。
緑の文官服に身を包み、藤色の前髪を目元まで垂らした人物が歩いてきていた。最初に書庫で会ったときは休日だから、人目をそこまで気にしなくてよかったのかもしれないが、今日は眼鏡までかけている。そのせいか、普段よりも年上に見える。
「……ニコラス様」
声を落として呼びかけると、彼は「あったか?」とだけ聞いた。
裏帳簿が入っている本を無言のまま差し出す。本当にあるとは思っていなかったのか、ニコラスは少し意外そうな顔をして受け取った。
ページを繰る音だけが静かに続く。
いつもは気にならない小さな音だが、今日はそのわずかな音でさえ、緊張する。
「まさか、彼が悪事に手を染めていたとは……厄介だな」
「どなたなのですか? わたくしには財務官の誰かということしか、わかりませんでした」
「これを書いたのは、財務官のジョルジュ・サルリマだ。筆跡に見覚えがある。元は優秀な徴税官だった。……皮肉なものだな。裏帳簿まできっちり記録を取るところが、神経質な彼の性格を物語っている。勤務態度は品行方正で、不正を許さない勤勉さが評価を得て昇進したのだが、あれは表の顔だったわけだ。彼が犯人だったのなら、コントゥラ事務次官の失踪も説明がつく」
「どういうことです? お二人は何か関係があるのですか?」
「…………コントゥラ事務次官の元部下がジョルジュだ。おそらく、自首をするように勧めたのではないか? だが、断られた」
「そんな……」
その仮説だと、ローラントは逆恨みで害されたということになる。
自分の罪を逃れるために関係のない人間を誘拐しておきながら、平然と毎日の業務を行っているのだとしたら、その神経が信じられない。
内心でふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じていると、ニコラスがため息をついた。
「問題はそれだけではない。……ここに書かれていることが事実なら、事態はもっと深刻だ」
重く沈んだ声だった。張り詰めた空気を感じ取って、セラフィーナは背筋を正した。
「……というと?」
「何人たりとも聖地を穢すことは禁ずる。さすがに、これは知っているな?」
「ええ。聖地を戦場にし、火の海にすることは禁忌とされています。もし神の怒りに触れた場合、一族郎党とも破滅の道あるのみ。ですから今も、クラッセンコルト公国は不可侵の国として、周辺諸国からも一目置かれています」
「そうだ。公国は常に中立国であり続ける。聖地を守ること、それが大公家に与えられた使命でもある。だが戦をしなければ領地は増えない。それを不満に思う貴族も、ごく少数だがいる」
そこに親の敵でもいるかのように、ニコラスは虚空をにらみつけている。大公家が守り続けてきたものを蝕もうとする存在を決して許さない、とばかりに。
下級女官では知り得ない政治の闇を垣間見てしまった気がして、セラフィーナはおとなしく口を噤んだ。
ニコラスは手元で二本の指をわずかに折りながら、説明を続ける。
「現在の派閥は大きく分けて二つ。保守的な『議会派』、新しい試みを積極的に取り入れる『改革派』。だが表向きは改革派として活動しながら、裏では危険思想を抱いた集団も一部いる。奴らは秘密裏に戦争で国益拡大を狙う過激派──『開戦派』と呼ばれている連中だ」
淡々と語るニコラスの声は、冷たい刃のような鋭さがあった。その言葉のひとつひとつに重みを感じる。
政治の中枢にいなければ、耳にすることもなかったはずの単語だ。
けれど、その存在を知ってしまった今、セラフィーナはすでに無関係ではない。
「……つまり、彼らは改革派を装って活動を?」
「ああ。開戦派は名を口にするだけでも粛正対象だからな。表に出ることはないが、確かに存在する。奴らは、本気でこの聖地を戦場にするつもりだ。この帳簿によると、ジョルジュは開戦派の資金源として動いていた。工作資金を各地に流し、協力者を買収していた形跡もある。よって、彼一人を検挙しても意味がない。開戦派は一人でも取り逃すわけにいかないからな」
「…………」
「しかも、シルキアの武器商人から、武器の密輸も行っているようだ。事は一刻を争う。誰が開戦派か、至急調べなければ」
「……大規模な摘発が必要、ということですか?」
「そのとおりだ。奴らをまとめて捕まえる罠も必要だな。……もしかしたら、ジョルジュは名簿リストを持っているかもしれない。彼の細かすぎる性格なら、リストがあっても不思議ではない」
青紫の瞳が、一点を射抜くように据わった。
(……あの出荷先のコードが指し示すのは、廃業したはずのシルキアの武器商人。シルキア大国の末端だったはずだけど、まだ裏で活動しているのなら捨て置けない)
膨れ上がる不安に胸がざわついたとき、ふとニコラスが机の上で握りしめた拳が小刻みに震えていることに気づいた。
彼が背負っている重い責務と不安が伝わってきて、セラフィーナは深く頷いた。
「それは放ってはおけませんね。そのリストが実在するなら、なんとしてでも手に入れなければ。こちらは誰が開戦派か判別できないのですから」
「コントゥラ事務次官がいれば、もう少し詳しい事情が聞けただろうが……」
セラフィーナは唇を噛みしめ、ニコラスを見上げた。
「サルリマ財務官と取り引きをしませんか? この証拠を渡すから、ローラント様を解放してくださいと。ローラント様が戻れば、一番相手に打撃が強い作戦を練ってくれるでしょう。彼はここで見殺しにしていい人間ではない。そのことはニコラス様が一番よくご存じのはずです」
意外と思いやりがあるニコラスなら必ず頷いてくれる。
けれど、その期待はすぐに裏切られ、冷淡な声が返ってくる。
「これは使えない」
「なっ……なぜです!? ローラント様が残してくれた唯一の手がかりですよ!」
「だからこそだ。これを出せば、相手は確実に食いつく。だがそれで捕まえられるのは、一部の人間だけだ。それでは意味がない。中には逃げ出す奴も出てくるだろう」
「……っ……」
「今は泳がせる。それが最善だ。関係者をすべてあぶり出し、同時に捕らえる必要がある。僕たちがすべきことは、他の証拠を固めることだ。それにもし、この帳簿を囮にすれば、他の証拠も隠滅される危険がある。そうなればローラントも救えない」
ニコラスの言葉は冷静だったが、その表情には焦りと苦悩が滲んでいた。
その気持ちがありありと伝わってきて、セラフィーナは視線を落とす。調査範囲が広がれば、それだけ時間はかかる。しかし今、この瞬間もローラントは命の危険にさらされている。
「時間が必要なのはわかります。ですが、ローラント様を一刻も早く救出しないと……」
だが、ここでいくら説得しても彼は絶対に頷かない。
本当に歯がゆい気持ちでいるのはニコラス自身なのだから。しかし、セラフィーナだって簡単に諦められない。手遅れになる事態だけは、なんとしてでも避けたかった。
(犯人を揺さぶる証拠は手元にあるのに、使えないなんて……。ん? でも、使えるようになればいいのよね?)
そのとき、ふと閃いた。一発逆転の一手を。
「……偽の帳簿を渡す、というのはどうですか?」