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74. 拒否権はないのですね

 長椅子の影にいたニコラスは、書類を手にしていた。薄暗い室内で、彼の足元には小さな燭台がひとつ、置かれている。その心許ない灯りが周囲を静かに照らしていた。

 淡い光に浮かび上がったのは、濃紺のサテン地に銀糸の刺繍が施された民族衣装だった。肩から斜めにかけられた帯は整ったドレープを描き、レクアルよりもはるかに端整で隙のない印象を与える。

 その姿は、公国の第二公子という彼の身分を体現するようで、セラフィーナは自然と気を引き締める。

 嘘も誤魔化しも許さないとばかりに、厳しい視線が突き刺さる。

 これは逃げられそうにないと覚悟を決め、セラフィーナは顎を引いて、背筋を伸ばした。


「ニコラス様がご在室とは知らず、大変失礼いたしました。わたくしは騎士団より小礼拝堂まで木箱を運んでほしいと頼まれまして、司祭様から控え室の棚に置くように指示を受けました」

「なに?」

「……嘘は申しておりません。お疑いなら、騎士団の受付で確認していただいても構いません。荷物が大量に届いていて右往左往していらっしゃいましたから」


 青紫の瞳が、真実を見極めるかのように、じっとこちらを射抜く。

 セラフィーナも負けじと見つめ返す。そのまま無言の駆け引きが続いたが、やがてニコラスがふっと視線を逸らした。続いて、大きいため息がひとつ。


「まあいい。用が済んだなら早く立ち去るがいい」

「はい、そうさせていただき──あら? 二年前の北部の河川工事に関する予算申請書がなぜこちらに……」


 うっかり心の中の疑問をそのまま口に出してしまい、はっと口に手を当てる。

 だが、動揺していたのはセラフィーナだけではなかった。訝しげに視線を上げ、ニコラスが眉を寄せている。


「お前……」

「も、申し訳ございません! 勝手に盗み見るつもりはなかったのです! 偶然目に入っただけです。わたくしは何も見ておりません。こちらにニコラス様がいらっしゃることも、誰にも吹聴いたしませんので……っ」

「そこは今はどうでもいい。質問に答えろ」

「はい、何なりと!」


 泣き出しそうな気持ちをこらえながら、やけ気味に言葉を返した。

 ニコラスは剣呑な視線を一度ゆるめ、少しだけ哀れむようにセラフィーナを眺める。


「……少し落ち着け。この書類が、なぜ二年前だとすぐに見抜いた?」

「え? 金額欄の記録形式が、旧式の予算分類で統一されていたからです。昨年から形式が変わっているはずなので。その河川工事は、多額のお金が動いていた公共工事です。以前、ローラント様の補佐をしていたときに拝見した予算額とまったく一緒でした。あまりに大きな金額だったのでよく覚えています。それに、決算書を確認する際、資料としてローラント様に提示したのはわたくしです」


 よどみなく答えると、ニコラスの顔から表情がすっと抜け落ちていく。

 まるで幽霊を見たかのような反応をされる理由がわからず、セラフィーナは出入り口を一瞥した。ひとまず回答に満足してもらったなら、できるだけ早くここから立ち去りたい。逃げる一瞬を探っていると、ニコラスが膝の上で両手を組み、にこりと笑った。


「たった今、お前に用ができた。喜べ」


 夜会で振りまく作り笑顔とも違う、まるで捕食者に狙いを定めたような笑みだった。


(こんな状況、どこをどう喜べと……!? わたくしはただ、一刻も早い解放を望んでいるだけなのに……!)


 心の中で叫ぶが、目の前に座るニコラスの目つきは狩人のようだ。絶対に逃がさないという強い意志を感じる。


「……確認するが、コントゥラ事務次官の補佐をしていたのか?」

「数日だけです。文官棟で悪い風邪が流行って、ローラント様以外の欠勤が続いた日がありまして急遽、お声がかかったのです」

「だが、事務次官は有能な人物しか手元に置かない。下級女官のお前が抜擢されたということは、それだけ信頼と実績があったからだろう。無能だと判断されれば、一時間以内に追い出していたはずだからな」

「…………」

「瞬時に内容を把握できる程度には、書類整理には慣れているのだろう? 思ったより記憶力も悪くはなさそうだ。……まったく、事務次官も人が悪い。こんな手駒を隠していたとは。僕が直々に、お前をこき使ってやろう」


 どこかの悪徳商人のような台詞だ。

 長い足を優雅に組み直し、口元に笑みを浮かべているが、漂うオーラが不穏だ。神聖な場所には、あまりにも不釣り合いな会話だと思う。

 しかし、第二公子に目をつけられて、逃げおおせる下級女官はまずいないだろう。退路が断たれたセラフィーナはそっと息をついた。


「つまり……協力してほしい、ということでしょうか?」

「違うな。お前は黙って僕の指示に従えばいい。ちなみに拒否権はない」

「…………。承知しました。わたくしのできる範囲でしたら、お手伝いいたしましょう。ですが、その前にひとつ確認したいことがございます」

「なんだ」


 ニコラスの目が鋭く細められる。


(……ずっと聞きたかったこと、尋ねるなら今が絶好の機会だわ)


 セラフィーナは脈が速くなる胸をなだめるように手を当て、深呼吸をしてから口を開く。


「以前、中庭の片隅でローラント様とお話をされていましたよね? 木陰に隠れるような位置での密談……今回の失踪事件と何か関係があるのではありませんか?」

「──見て、いたのか」


 呆然としたつぶやきに、小さく頷く。


「会話は聞いていません。とても小さな声でしたし、重要な話だろうと思い、すぐにその場から離れましたので」

「…………」

「このことは誰にも話しておりません。お二人が人目を忍ぶように会話をしていたことから推察するに、外部にもれてはいけない話だったのでしょう。わたくしが協力することは構いません。ですが、もしローラント様の行方に心当たりがあるのでしたら、どうか教えていただけませんか? 彼はわたくしの恩人でもありますし、何よりラウラ先輩の大事な伯父様なのです。手がかりがあるなら、ぜひ教えてほしいのです」


 切実に訴えかけると、それまで沈黙を守っていたニコラスが、口元を皮肉げにわずかに歪めた。


「コントゥラ事務次官には、犯人の割り出しと証拠集めをさせていた。あと一歩で全容がつかめるところだったんだ。このタイミングで姿を消したと言うことは十中八九、口封じだろう。僕がもっと慎重になっていれば、あんなことには……」


 その瞳には怒りと後悔が渦巻いていた。誰よりも冷静であるべき立場の人が、自分を責めている。その痛ましさが胸を打つ。

 ニコラスは自分の手をぎゅっと握る。その拳はかすかに震えていた。爪が食い込むほどの強い憤りを感じ取り、セラフィーナは口を開く。


「口封じとは……? 一体、何の証拠を集めていたのですか?」

「脱税・横領に関する証拠だ。複数の部署を跨いで、金の流れが巧妙に隠されている。事務次官はそれを暴こうとしていた」


 ニコラスは重々しい口調で告げた。

 その視線の先には、長椅子の上に広げられた数枚の書類がある。

 沈痛な表情が物語る未来を想像し、セラフィーナは背筋があわ立った。


「で……では、ローラント様は、もう……?」

「いや、まだ殺されてはいない。相手は証拠を回収次第、始末するつもりだろう。彼の死体が見つかっていないのがその証拠だ。事務次官は危機管理能力が非常に高い。あらゆる予測をして、最善手を導き出す頭脳を持っている。……おそらく、今回も危険を予見して先手を打っていたはずだ」

「先手……ですか」


 確かに彼なら十分あり得る話だろう。

 そう納得したとき、何かがふっと脳裏をよぎった。ローラント最後に会ったのは書庫だ。あのとき、彼が残した意味深な一言を思い出し、セラフィーナはつぶやく。


「……『木を隠すなら森の中』……」

「なんだ、それは?」

「書庫でローラント様が言っていたのです。本の返却に来たとおっしゃっていましたが、それなら司書に渡すだけで終わっていたはずです。なのに、ローラント様は書庫の奥にいました。何か思い入れのある本があるのかと思っていたのですが、少し様子が妙で……」

「詳しく話せ。お前はどこに引っかかりを覚えた?」


 そう問われて、セラフィーナは記憶を探った。

 ローラントとは世間話をした。どの本が好きか。この棚の本は全部読んだのか。その会話自体は、特に不自然な箇所はなかったと思う。

 だったら、どこに引っかかったのか。喉元まで出かかっているのに、言葉にならない。そのもどかしさに眉をひそめる。


(あっ……そうだわ。あのとき、革張りの背表紙をローラント様はそっと撫でていた)


 不意に脳裏に蘇った光景を反芻する。

 あれは、ただの癖ではなかったはず。今思えば、何かを示すための行動だったのではないか。セラフィーナに気づいてほしかったのかもしれない。

 高揚感とともに、絡まっていた記憶の糸がするするとほどけていく。それは確信という名の言葉になって、自然と口をついて出た。


「……本です、ニコラス様! 書庫の本に、証拠が隠されている可能性があります」

「それは本当か?」

「直接的な証拠ではないかもしれません。でも手がかりにはなると思います。ローラント様が示していた棚の本を調べてみましょう。何かヒントが残っているかもしれません」

「……なるほど。僕は文官に変装してから行く。お前は先に行け」

「かしこまりました。では」


 そう言って踵を返そうとすると、制止の声がかかる。


「ちょっと待て。下級女官なら疑われる要素は少ないが、警戒は必要だ。……相手は事務次官を人質に取っている。迂闊に動いて相手に勘ぐられれば、お前も狙われるだろう。敵が誰なのかわからない以上、用心するに越したことはない。くれぐれも慎重に動くように」

「承知しました。重々、気をつけます」

「頼む」


 短い言葉だったが、声音には心配の色が混じっていた。

 安心させるべく、セラフィーナはニコラスの目をまっすぐ見つめ返して頷き返した。

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※表紙イラストは雨月ユキ先生に描いていただきました。その他イラストは活動報告をご覧ください。

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