73. 祈りをそっと胸に抱いて
ローラントが行方不明になって早数日が経った。
清々しい朝の空気を浴びながら、セラフィーナはラウラと並んで廊下の窓を拭いていた。硝子にこびりついた汚れを落とすべく、黙々と布を動かす。ひと拭きごとに景色が澄んでいき、遠くに秋の気配がほんのり漂う山の輪郭がはっきりしていく。
ふう、と一息ついたところで、少し焦りを含んだ足音が近づいてきた。セラフィーナが顔を上げると、曲がり角からアルトがまっすぐこちらに向かってくる。
「ラウラ、聞いたよ。伯父さんが行方不明なんだって?」
いつもの明るい雰囲気は鳴りをひそめて、真剣な眼差しでラウラを見つめる。珍しく眉間に皺を寄せたその顔には、隠しきれない心配が滲んでいた。
ラウラは布をぎゅっと握り、視線を落とす。
「ええ……。何か事件に巻き込まれていなければいいんだけど」
「僕も探すよ。君が大切にしてる人なら、僕だって放っておけない。これから街の見回りに行くから、伯父さんの行方についても調べてくる」
「……ありがとう」
ぽつりともれた声には力がなかった。
アルトは口元を引き締め、ラウラに優しく微笑む。
「無理はしないで。僕もできるだけ情報を集めてくるから、君は待ってて」
落ち込むラウラを励ますように、わざと明るい声を出したのがセラフィーナにもわかった。アルトは二人を静かに見守るセラフィーナにちらと視線を向け、小さく頷く。
ラウラを頼むよ、と言われているのだとわかり、セラフィーナも頷き返す。その反応に満足したのか、アルトは足早に去っていった。
ローラントと最後に会ったのは書庫だった。あのときは、彼が行方不明になるだなんて思わなかった。ここ数日、ラウラは食事の量が落ちている。気休めの言葉をかけることもできなくて、セラフィーナは黙ってラウラのそばにいることしかできなかった。
(事件か事故かはまだわからないけれど、どうか早く見つかりますように……)
祈りを込めて、そっと目を伏せる。
ひときわ強い風が吹く。窓の向こうで、飛ばされた葉がくるくると舞っていた。
◇◆◇
それから数日が過ぎ、ほんのわずかに朝晩の風が涼しくなってきた頃。
上級女官から預かった帳簿の束を抱え、セラフィーナは騎士団の受付窓口へ向かった。
建物の前には荷車が数台横付けされており、若い騎士たちが汗ばみながら積み荷を下ろしては、次々と中に運び込んでいた。積まれているのは布で丁寧に包まれた木箱のほか、木枠にしっかり固定された儀式旗を巻いた長い芯棒などもある。どれも祭壇を飾る装飾具や式典で使う道具のようだ。
(なんだか、忙しそう……?)
隣の騎士宿舎とは違い、文官も出入りするこの建物は、宮殿の一角にありながらも実務的で整然としている。入り口からは緑の絨毯がまっすぐ敷かれ、壁には双頭の鷲の紋章が掲げられていた。陽の光を受けて、金糸の刺繍がほのかに輝いている。
「すごい量の荷物ですね」
セラフィーナがそう声をかけると、資料の仕分けをしていた受付係の若い騎士が、顔を上げてこちらを見た。疲れ果てた顔が一瞬固まり、すぐに救世主を得たとばかりに瞳に生気が戻る。
「君、ちょうどいいところに! 見ての通り、今は手が回らなくて……。悪いんだけど、この箱、小礼拝堂まで運んでもらえない? 中は軽いはずだから!」
「え、小礼拝堂……ですか?」
困惑を滲ませるセラフィーナに、騎士は手にした木箱をカウンターに置きながら言う。
「うん。その帳簿は責任もって渡しておくから。代わりにこれ、お願い!」
逃してたまるかとばかりの必死の形相を向けられ、面食らう。
気圧されるようにして、手元の帳簿と差し出された木箱を交換する。
「……わかりました。でもあの、行ったことがなくて……」
「東庭の渡り廊下を抜けた先だよ。白い壁の建物で、青い屋根だからすぐわかると思う。正面入り口から入って大丈夫だから」
説明に頷くと、別の騎士に名前を呼ばれたらしく、彼は「あっ、ごめん! じゃあ、頼んだよ」とだけ言い残し、忙しなく奥へと姿を消した。
セラフィーナは木箱を両手で抱えて、再び青空の下へと戻る。
(うーん。思わず引き受けちゃったけど、これって、わたくしが運んで大丈夫な荷物なのよね……? でも、頼まれちゃったし。ひとまず持っていくしかないわよね)
一抹の不安を抱えながらも、東庭へと向かう通路に足を向けた。
渡り廊下の両脇には、見頃を迎えた花壇が続いていた。淡い紫のクレマチスや白いリナリアが風にそよぎ、ほのかな花の香りが運ばれてくる。磨かれた石畳には木々の影が模様のように映り、足元でさざ波のように揺らめいていた。
やがて廊下の先に、ひときわ目を引く小さな建物が姿を現した。
白く滑らかに磨かれた壁と、深い青の瓦屋根。尖塔の上には小さな鐘楼があり、まるでこの場所だけ時が止まったかのような静けさが漂っていた。
(……あれが小礼拝堂ね)
セラフィーナは足を止め、上部にアーチを描いた木製の扉をそっと押した。
室内はほんのり涼しく、静謐な空気が満ちていた。
宮殿内の施設だけあって、白と金を基調とした荘厳な空間が広がっていた。高い天井には星の意匠が浮かび、壁や柱には金細工の装飾が、流れるような曲線を描いている。銀灰色の月影石を敷き詰めた床には、薔薇窓から射し込む光が万華鏡のようにきらめきを散らし、幻想的な彩りを添えていた。
(なんて綺麗なの、まるで聖なる泉の底を覗いているみたい……)
言葉にできない神聖さに胸を震わせながら、祭壇のほうへと歩を進める。
最奥の祭壇には深紅の布が丁寧に敷かれている。その上方には、鮮やかな薔薇窓を透した淡い色彩が優しく降り注いでいた。
祭壇の手前に立っていたのは、白い祭服を身に纏った年配の司祭だった。祈りの手をそっと下ろすと、気配に気づいたのかセラフィーナへ微笑みかける。
「何かご用でしょうか?」
「あの……騎士団からお預かりした荷物をお持ちしました」
「ああ、ありがとうございます。では、その木箱は左手の控え室の棚へ置いていただけますか? 扉のすぐ手前にありますので」
「かしこまりました。失礼いたします」
軽く頭を下げると、セラフィーナは指示された通りに建物の左側へと向かった。
箱を落とさないように気をつけながら、そっと扉を開ける。木製の棚横に予備の祭服が並び、香炉や花台などが整理されている。その中で祭具を置く棚を見つけ、木箱を空いたスペースに慎重に下ろす。
そのとき、小さな衣擦れの音が聞こえ、びくりと肩が跳ね上がる。
(……え? 誰か、いる……?)
足音を忍ばせて、控え室の奥をそっと覗き込む。
薄暗い室内の壁際にある長椅子の影から、藤色の髪がかすかに揺れた。見覚えのあるその髪色に、セラフィーナは息を呑み、思わず両手で口を覆う。
「に、ニコラス殿下……!?」
その悲鳴めいた声に、ぴくりと反応したのは、片眉をわずかに吊り上げたニコラスだった。
「お前……なぜここにいる?」