72. 繰り返される未来
陽射しの角度がわずかに変わり、季節が静かに歩を進める頃。
宮殿内の洗濯物が集まる洗濯場は、いつもと変わらず賑わっていた。
桶の中で石鹸の泡が弾ける音と、足踏みの水音が交互に響く。大きな洗濯場の一角では、数人の女官たちが足でシーツを踏みながら、小鳥のように歌い合っていた。
「♪たくさんの 泡の花を せっせと踏んで〜」
「♪白くなぁれ 雪のように ごしごし踏んで〜」
「♪もこもこ泡が くるくる舞って いいにおい〜」
息を合わせ、軽やかな節回しで洗濯歌を口ずさんでいる。
水音もリズミカルに続いていく。ちゃぷん、ちゃぷん。踏むたびに水を吸って重たくなった布に、汚れがじわりと浮かび上がる。
セラフィーナは、少し離れた影のほうで洗濯物を畳んでいた。手を止めることなく、女官たちの歌声や噂話にそっと耳を傾ける。
「ねえねえ、聞いた? シルキア大国の第五王女様の話」
「第五王女様? ああ、日陰者の王女様でしょ。確か今、帝国に留学中だって……」
「そうそれ! 留学先の皇太子に見初められて、正式に婚約式を執り行ったんですって。今朝、文官たちが騒いでいたの」
「えぇー! なにそれ、うらやましすぎるんですけど!」
若い女官たちは足元の泡を踏みながら、声を弾ませて話し続ける。その様子は、洗濯の苦労さえ忘れるほどのはしゃぎぶりだった。
「……あれ、でも前にユールスール帝国から使節団が来たとき、確か二人とも来ていたわよね?」
「そうそう! 『使節団の一員』って話だったけど、どう見ても特別扱いだったわよね。片時も離れたくないって王女様が泣いて連れてきちゃったんだとしたら、相当愛されているってことじゃない!? そんなにラブラブなら、婚約前に二人で旅行しても不思議じゃないわよねえ」
「違うわよ。そもそも二人きりじゃなくて、公式訪問だったし。帝国の使節団はれっきとしたお仕事なんだから。それに、あのときは正式な婚約式はまだだったけど、婚約は内定していて対外的にも婚約者扱いだったはずよ。婚約者じゃなかったら、さすがに帝国の使節団には加えられないでしょ」
「でも普通、恋人を連れて使節団に派遣されるなんておかしいわよ。きっと、お忍び旅行も兼ねていたのよ。王女様が四六時中の監視に息が詰まっているのを見かねて、羽を伸ばしに来たんじゃない? 仕事先まで連れていくとか、すっごい溺愛されているわよね〜」
セラフィーナはタオルの皺を伸ばしながら、二人と再会したときを思い出す。
(……本当にあれには驚かされたわ。まさか、マリアンヌ様が強引に使節団にくっついてくるなんて思っていなかったもの。しかも、その理由がわたくしを心配していたからなんて。でも、無事に正式に婚約できたのなら、あとはあの二人が頑張るだけよね)
物思いにふける間も、女官たちの会話は続いていた。
「だよねえ。……そうそう、二人の婚約を機に両国で友好条約が結ばれるんだって」
「友好条約ってなあに?」
「交易を盛んにしたり、関税を低くしたりして、人の行き来を自由にして、これからお互い仲良くやりましょうってことよ」
「へえー。じゃあ、帝国はシルキア大国を味方につけたってことかぁ。え、じゃあ、いよいよマルシカ王国に攻め込む気じゃないよね?」
何気ない一言を皮切りに、洗濯場の空気が緊張感を帯びていく。だがその不穏な気配を笑い飛ばすように、ことさら明るい声が否定した。
「まっさかぁ! だってあの国、どんな攻撃も防ぐ結界に包まれているのよ? いくら帝国でも正面突破は無理よ。今の時代、魔法を使えるのはマルシカ王国とシルキア大国ぐらいなんだから。帝国軍でも歯が立たないって。あんな超人的な魔法を破れるのは、それこそ大魔女をしのぐ大魔法使いぐらいじゃない?」
「でもでも、シルキア大国は魔法使いを積極的に登用して、その結界を破壊する魔法を開発中なんでしょ? シルキアは軍事国家だし、魔法騎士団なんてものもあるそうじゃない。今は結界があるから手が出せないけれど、いずれは……」
言葉を濁した同僚に、隣にいた女官がぼやくように言う。
「戦争は嫌だなー。クラッセンコルト公国は戦渦に巻き込まれることはないだろうけど、輸入品の物価が高くなっちゃうもの。家をなくした移民も多くなるだろうし」
「その点、私たちは公国生まれでよかったよね。ここは戦地になる心配もないし、大公家は安泰、食べるものにも困らない」
「ねー!」
もはや歌声は鳴りをひそめ、今や洗濯場に響くのは、弾む噂話ばかりだった。横風で倒される前に、セラフィーナは畳んだタオルを籠にそっとしまいながら、心の中でため息をつく。
(……やっぱり、この未来は変わらないのね。二人の婚約が帝国とシルキア大国を結びつけてしまう。だけど、何としても最後の結末だけは変えてみせるわ)
皺ひとつなく、洗濯物を手際よく畳んでいく。
決意を秘めたアメジストの瞳は揺るぎなく、蒼穹の先を見据えていた。
◇◆◇
「セラフィーナ、ちょうどよかった。ローラント伯父様を見かけなかった?」
女官部屋を整理していると、扉が勢いよく開き、ラウラが早足で飛び込んできた。
その手には、帳簿と思しき薄い綴じ紙が数枚あった。下級女官たちに渡す予定の当番表らしく、ところどころ朱筆で書き込みがされているのがちらりと見えた。
ただならぬ様子を感じ取り、セラフィーナはすぐに答えた。
「いいえ。今日はお見かけしていません」
「……そう」
「あの、どうかされたのですか?」
尋ねると、考え込んでいたラウラがはっとしたように顔を上げる。
そこには疲労と心配が色濃く出ていた。
「ん? ああ、実は伯父様が来ていないらしいのよ。いつも一番乗りで職場に来るのに、昼過ぎになっても姿を見せないからって姪の私に問い合わせがあって。何も連絡ないまま休むなんて初めてのことだそうよ。……無断欠勤なんてする人じゃないのに」
「それは心配ですね。どこかお心当たりの場所はないのですか?」
「伯父様は独り身だし、ふらふらと出かけるタイプでもないのよね……。仕事一筋で、趣味が仕事みたいな人間だから」
「……趣味が仕事……」
「変わっているわよね。休日は休むためにあるのに、何かしていないと落ち着かないんですって。それより、一体どこに行ったのかしら」
「うーん。どこでしょう。すぐに思いつきませんね」
姪であるラウラにも見当がつかないのなら、他人のセラフィーナにわかるはずもなかった。ラウラは肩を落として苦笑をこぼした。
「まぁ、それもそうよね。私も仕事が終わったら家を訪ねてみるつもりだけど、もし見つけたら教えてくれる?」
「はい。すぐにお知らせします」
「よろしくね。お仕事の手を止めてごめんなさい」
結局、翌朝になっても、ローラントの行方はわからないままだった。