71. 復帰初日のお手伝い
ラウラの足取りには迷いがなかった。
(今日は復帰初日。まだ軽い作業だけという話だったけど、急ぎの仕事とは一体何かしら……? わたくしで役立つことならいいのだけど)
セラフィーナが書庫が目的地だとわかったのは、前方の白い観音開きの扉が見えたときだった。建物の奥まった一角は静まり返っている。
ラウラが銀の取っ手を握って扉を開けると、かすかに紙をめくる音とインクの匂いが漂ってくる。インクと紙、そして時間の重みが溶け合った、静謐な空気がセラフィーナたちを迎え入れる。
「これからお願いしたいのは写本の準備よ。実際に写本するわけではないから安心して。一巻ごとの構成にしたがって、羊皮紙を仕分けて順番を確認するだけだから」
先には行ったラウラが、部屋の隅で作業していた人物に手を振った。
「ヘレーネ。連れてきたわよ」
振り向いたのは、スリットの入った緑の文官服に身を包んだヘレーネだった。
眼鏡の縁を持ち上げて、蜂蜜色の瞳がセラフィーナを見つけた瞬間、ぱあっと顔を輝かせた。焦茶色の三つ編みを揺らしつつ、早足で近づいてくる。
「待ってたよー。セラフィーナさん、書庫へようこそ! 元気そうな顔がまた見られてよかった。頼もしい味方を連れてきてくれてありがとうね、ラウラちゃん」
「お安いご用よ。じゃあ、私は他にも行くところがあるから。セラフィーナのことは頼むわね」
「はぁい。いってらっしゃい」
ゆったりとした口調でラウラを見送り、ヘレーネが真向かいの席へセラフィーナを座るように促す。机の上にはさまざまな種類の紙が用意されていた。
「これはね、写本の準備をしているの。明日、文官から写本班が派遣されてくるんだけど……、情報の行き違いで、今日中に二十巻分は整えないといけなくなって。予定していた五巻分だけなら私一人でもなんとかなったんだけど、さすがに捌ききれなくて、てんやわんやだったんだよね。あ、作業は単純だよ。紙の仕分けと順番の確認だけ」
「用紙は全部、新しいものなのですか?」
「ううん。ほとんどは今朝届いたばかりの新品なんだけど、この束は予備から出してきたんだ。古いのはね、厚みや手触りが微妙に違っているの。染料も似たようなのを後から調合して染めたから、ぱっと見ではわからないんだけど、光にかざすとちょっと違うんだよ」
ヘレーネは一枚の紙を持ち上げて、窓から射し込む光に透かせてみせた。やや黄みがかった半透明の皮面に、細い脈のような筋がうっすら浮かんでいた。
セラフィーナもそっと手を伸ばし、もう一枚をつまみ上げて隣に並べた。
「……本当ですね。触っただけでも、わずかに厚みが違うような気がします」
「これは旧蔵されていた未使用の羊皮紙、こっちは新しくなめした紙。見た目はほとんど同じにしてあるけど、厚みや手触りでわかるよ。染料も同じものを使ってるから、光の加減でしか違いが出ないんだ」
ヘレーネの言葉に耳を傾けながら、セラフィーナはそっと紙の角を指先でなぞる。
(確かに……見た目は変わらない。でも、手のひらを当ててみると、重みと温度がわずかに違うみたい)
羊皮紙の質感は、今まで読んできた本の中にも似たようなものがあった。慣れてくれば、目視でなくても区別できそうだ。
「知識がある人でないと、簡単に見分けがつかないと思います」
「あはは、そうかも。でもこういう微妙な違いって、経験者には意外とすぐ気づかれちゃうんだよねー。逆に言えば、わかる人には『本物かどうか』もすぐ判断できるってこと。……実は、全部新しい紙で揃えるつもりだったんだけど、数が足りなくなっちゃって。旧蔵の紙は章扉とか表紙の裏とか、目印になる場所にだけ使うの。厚みがあるからちょうどよくて」
セラフィーナはそっと紙に視線を落とした。古びた紙が持つわずかな重みが、確かに章の区切りにふさわしいように感じられた。
「本文は新品の紙に統一してあるから安心してね」
そう言って、ヘレーネは別の紙の束を持ち上げ、セラフィーナの前に並べた。
「各章は内容のまとまりごとに分けられていて、必要な枚数はそれぞれ違うの。だから、用紙の厚みや順番を間違えると、あとで写す人が困るんだよね。作業としては、ここにまとめてある資料を参考に、紙の番号を確認しながら順番に重ねるだけだよ」
「わかりました。こちらにあるものを全部、一巻ずつ準備すればいいのですね」
「そうそう! さすが、ラウラちゃんが推薦しただけはあるね。セラフィーナさんって飲み込みが早くて助かっちゃう。……でも、まだ病み上がりだし、焦らなくていいからね。まずはこの巻からお願いしていい?」
「お任せください」
「章の間に厚めの紙を入れるところもあるよ。目印の代わりだったり、あとで表紙を合わせたりするときに便利だからね」
一冊目の巻物の構成表を受け取り、目を通す。
どの章に何枚の紙が必要で、挿入紙はどれか、厚みのある紙はどこに入れるかまで、細かく書き込まれている。
セラフィーナは早速、手のひらで紙の感触を確かめながら、束の中から指定された紙をそっと抜き取り、順番通りに重ねていく。無地の紙に破損や汚れがないかをざっと目視で確認し、地道な作業を黙々と進める。
机の向かいでは、ヘレーネも同じように紙の束を仕分けていた。二人の間には、紙が触れあう音だけが、ワルツのスローテンポのように重なり合っていく。
「紙の手触りや匂いって落ち着くよね」
「……わかります」
ヘレーネの情感こもった言葉に思わず笑みを返す。
視線を紙に戻し、また作業に戻る。
時間がゆっくりと過ぎていく。騎士団の訓練中の喧騒も、宮殿の陰謀も、澄んだ静けさに満ちたこの部屋には届かない。染料と皮の匂いと、指先に伝わる紙の感触だけだ。
やがて正午が近づく頃には、すべての巻分の紙が整えられ、机の上に整然と束が積み上がっていた。
「ふーっ、終わったねえ! あとは写本班を待つだけだよ。手伝ってくれてありがとうね」
「いえいえ。わたくしも貴重な経験ができました」
時間内に終わった安堵感に包まれていると、ヘレーネがセラフィーナの両手を握る。
「本当の本当に、ありがとう!」
「静養室にいる間、ヘレーネさんに借りた本で充実した時間を過ごせました。また何かあったらいつでも呼んでください」
「なんていい子……っ! ラウラちゃんが放っておけないのも納得だよ」
ヘレーネの感嘆が誇張でもお世辞でもないことは、表情を見ればすぐにわかった。
温かな視線に見送られながら、セラフィーナは整えられた紙束の横を通り過ぎ、書庫を後にする。
静かな達成感を胸に抱え、そっと次の場所へと足を踏み出した。
◇◆◇
次の休日。借りていた本を返却し、いつものように書架を巡っていると意外な人物に出くわした。
「ローラント様。書庫でお会いするのは初めてですね」
セラフィーナが声をかけると、彼が驚いたように目を丸くする。その仕草がラウラと似ていて、ちょっとだけ親近感が湧いた。
ローラントはすぐに表情を戻し、柔和な笑みを浮かべる。
「……ああ、セラフィーナさんか。君はよくここに来るのかい?」
「ええ。ここでしか読めない本もたくさんありますから。ローラント様は古い資料をお探しですか? もし量が多いようなら、お運びするのを手伝いますが」
「いや、それには及ばないよ。木を隠すなら森の中。今日は返却に来ただけだからね」
妙な言い回しに、セラフィーナは首をひねりながらも「そうですか」と頷いた。
ローラントは革張り背表紙をそっとなぞる。その視線は、ただの本に向けるものではなく、孫を慈しむようだった。思い入れのある本だったのだろうか。
タイトルはなんだろうと目を凝らそうとしたとき、つぶやくようにローラントが言った。
「ところで、読書家のセラフィーナさんはこの棚の物語はもう読み終わったのかな」
「はい。二段目の列は読みました。精霊と王女の離別のシーンは涙なしに読めませんでした。ローラント様も物語をお読みになるのですか?」
「うーん、昔は旅行記や伝記をよく読んでいたかな。暗号を解き明かして宝物を見つける場面は興奮したねえ」
「わかります。謎解きは浪漫がありますよね」
「ふふ、共感してもらえて何よりだよ。では、私はこれで失礼しよう。またね」
ローラントはひらりと軽い足取りで退出していく。
その背はいつも通り穏やかだったが、どこか遠くへ消えてしまいそうな気がして、なぜかセラフィーナは無性に不安な気持ちに駆られた。