70. ローラント伯父様のせいね
翌日の事情聴取は事実確認だけで、セラフィーナは頷くだけで終わった。
すでに関係者から集めた情報である程度の推測はできていたらしく、騎士団の報告書に加筆することもほとんどなかったぐらいだ。
それから残りの日数は、ヘレーネからのお見舞いの本をベッドの上で読み進め、数日置きにラウラがお茶菓子とともに様子を見に来てくれた。職場の近況に相づちを打ちながら、セラフィーナは不思議な心地になっていた。
(長く仕事を休んでいるせいかしら。なんだか、時計の進みが急に遅くなった感じがする)
領地追放後は平民に身分を落とされ、自分で稼いだお金で生きるしかなかった。毎日を生き抜くので精一杯だったから、こんなに羽を伸ばす余裕もなかった。
けれど今、あまりにもゆるやかに時間が流れていっている。
いつも何かに急き立てられるようにして生きてきたせいか、ぬるま湯に浸かっているような気分さえする。
(まあ、明日には女子寮に戻れるし……気を引き締めなきゃ)
気分を入れ替えて職務に励まねば、周りにも迷惑をかけてしまう。ただでさえ、長期休暇で穴を開けているのだ。しっかり休ませてもらったぶん、挽回しないと。
(わたくしはまだ生きている。明日も明後日も、未来は続いていく。今度こそ、寿命を全うするまで死ぬものですか。──もう、二度と時計の針は巻き戻させないわ)
◇◆◇
職場復帰してまず行ったことは、迷惑をかけた女官長への挨拶だった。
女官長室に入室した際は少し疲れた顔をしていたが、すぐに頼れる女官長の顔に変わった。この切り替えの速さは見習いたいなと思う。
「ああ、ラウラから報告は受けています。……あなたも災難だったわね。もう業務に復帰しても大丈夫なの? まだ体がつらいなら仕事も調節しますよ」
「こちらがノートリア副侍医からの経過観察報告書です。仕事に復帰しても問題ないと太鼓判を押されました。昔から回復が早いのだけが取り柄なので、どんな雑務でもお任せください」
「若さを武器に体力を過信するのはよくありません。……確かにこの報告書によれば、体調は平時に戻ったため業務に支障はないと明記されています。しかし、ここで無理をして、あとから苦労するのは自分なのですよ。若い人ほど無茶をするのですから、困ったこと」
女官長は深々とため息をつきながら、手にした報告書を机の上にそっと置いた。一見すると落ち着いた所作ながら、その動きの節々には、静かな苛立ちと軽い呆れが滲んでいる。片手でこめかみを押さえる仕草には、「まったく、もう……」と内心の嘆息が透けて見えた。
やがて、彼女は口を噤んだままのセラフィーナに視線を向ける。
その眼差しには、叱責よりもむしろ深い心配の色が宿っていた。けれど、それを率直に口にできないのは、責任ある立場ゆえの不自由さによるのだろう。言葉をそのまま伝えられない葛藤を抱えながら、あえて厳しい言い回しを選ぶあたりに、彼女の不器用な優しさが感じられた。
「だいたい、あなた。気力は充分でも、体力は戻っていないでしょう。無理は禁物です。文官から重い荷運びを命じられても、下働きに任せなさい。あなたには軽い仕事を振り分けています。一週間ぐらいあれば、元の体力に戻るでしょう。この仕事を続けたいのであれば、自分の体はしっかり労るようになさい」
「はい。肝に銘じます。仕事内容の配慮まで、女官長様の気配りに感謝しています」
「感謝するなら、教育係にもしておきなさい。ラウラから聞きましたよ、あなたの仕事量について。普通の下級女官が二人でする業務を、一人で担っていたという話ではありませんか。過労で倒れてもおかしくない状態だったのです。これからは私も目を光らせますが、あなたもできるからといって、すべてを引き受けたりしないように」
切れ味のよい刃物のような言葉の数々に、思い当たる節が多すぎて萎縮してしまう。一体どこに目がついているのだろう。それとも彼女の情報収集力がすごいのか。
セラフィーナは素直に謝った。
「……う、はい。申し訳ございません」
「ラウラから報告がありましたが、あなたは他人に頼るのが苦手な性格なのですって? 今はあなたが新米だからそれでもよいかもしれませんが、未来を見据えるならば周囲をよく見て、仕事を効率よく振り分ける方法も学んだほうがよいでしょう」
「……はい……」
ついうなだれてしまうと、意外にも優しい声が届いた。
「そう暗い顔をするものではありません。さあ、前を向いて。あなたは関係各所からしっかり評価されている人間なのです。その自覚をお持ちなさい。苦手なところは補い合えばよいのです。他人への頼り方はラウラからしっかり学ぶように」
「かしこまりました」
「……それと、現在謹慎中の女官についてですが。今後は極力あなたと関わらせないように調節をしています。あなたから不用意に近づくことのないように。これ以上のもめ事は困りますよ」
「このたびは多大なご迷惑をおかけしたこと、深く反省しております」
「……そう。自覚があるようで結構。では、職務に励みなさい」
「はい、失礼いたします」
お辞儀をして部屋を後にすると、しばらく歩いたところで廊下にもたれかかるようにしてラウラが待ってくれていた。胸元にはいくつかの巻物が抱えられている。
「……ラウラ先輩……」
「どうだった? 別に女官長様、怒ってはいなかったでしょう?」
「ええ、まあ。ただ過重労働のリスクについての忠告と、仕事の振り方や周囲への頼り方をラウラ先輩から学ぶように言われました」
「あら。相変わらず、見ていないようで見ている人ね」
感心したように言うラウラは、頬に手を当てて目を伏せる。
「セラフィーナは文官からの信頼が厚いようだから、本当に困っちゃうわ。これも全部、ローラント伯父様のせいでしょうけど」
「ローラント様ですか?」
「そうよ。あちこちでセラフィーナの有能さについて触れ回っていたの。姪自慢だけじゃ飽き足らず、私の後輩を売り込んでどうするのよ。あなたは下級女官であって、文官ではないのに。あなたの休職中、文官たちから代筆や要約を頼まれることがすごく多かったんだから! セラフィーナは便利屋じゃないっての!」
ぷくっと頬を膨らませるラウラは、小柄な体格も相まって、まるで可愛い子リスのようだった。失礼なことを言わないようにと、セラフィーナは視線をすっと逸らした。
「……確か、代筆は上級貴族向けの手紙だったと思います。下級貴族の文官の方が、緊張で手が震えていらして。インク染みが目立ちましたので、見かねたわたくしが声をかけたのですよ。それ以来、ときどきお願いされるようになりました。要約の件は、大量の巻物に囲まれていた文官が『期日は明日の昼までなのに……こんなの終わらないよ。世界は終わりだ……』と、今にも倒れそうなお顔で小刻みに震えていらっしゃったので、ほんの少しだけお手伝いしたのですよ」
「…………わかったわ。ローラント伯父様があなたを文官に欲しいといった理由が。でも文官にあげる気はさらさらないけど。そうだわ、こうしましょう。ローラント伯父様から文官補佐の報酬をあなたの給金に上乗せしてもらえばいいのよ」
「えぇ!? い、いえ。それはさすがに……」
どうにか両手で思い留まらせようと苦心していると、明るい声が話に割り込んできた。
「ふむ。給金の上乗せか。いいね、早速検討してみよう」
気配すらなかった。
背後から突然聞こえた低い声に、セラフィーナは「ひゃっ」と変な声を出してしまい、慌てて振り返った。そこには、いつの間にかローラントが立っていて、にこやかに片手を上げていた。
「ローラント様!? いつからそこに……?」
「女官長へ連絡事項があったから寄っただけだよ。いやいや、私もねえ。有能な下級女官に無償で文官の手伝いを頻繁にさせるのは心苦しいなと思っていたところなんだ。かといって、君は文官ではないし。手伝いの量もその日によってまちまちだ。だから歩合制でどうだい? 私が君に任せる仕事を割り振りし、納品された仕事量に応じて記録をつけて、その分の支払いをしよう」
「それがいいわ! さすが伯父様ね」
セラフィーナが口を挟む余裕は一切なく、ローラントとラウラで話がついてしまった。ローラントは満足したように微笑んでいる。
「では、この案で女官長に話を通しておこう。セラフィーナさんには今まで通りに、文官の手伝いを頼みたいからね。間に私が入ることで、本当は自分で処理できることを君に頼むことは不可能になる。手を抜きたい文官にわざわざ君を遣わすような愚かな真似、私が許すはずがないからね。そこのところは安心してくれたまえ」
「……で、ですが。ローラント様が仲介人になるのなら、ご負担が増えるだけでは……?」
業務量の増加について指摘すると、あっけらかんとした答えが返ってきた。
「私を心配してくれるなんて人、久しぶりに見たな。これでも私は事務次官まで上り詰めた男だ。そういう仕事の割り振りは得意なんだ。パパッと済むことだから、大して負担はない」
「さ、さすがですね。実は、わたくしもどこまで引き受けていいのか、判断に困る部分もあったので……。ローラント様が間に入ってくださるのは大変心強いです」
「だろう? じゃあ、早速相談してくるとしよう。ではな」
「はーい、いってらっしゃい。伯父様」
ローラントが女官長室へと消えていく様子を見届け、ラウラがセラフィーナの肩をぽんと叩いた。
「結果的によかったじゃない。私も助かったわ。文官って下級女官を好き放題使うのよね。セラフィーナが仕事ができすぎるせいで、目をつけられちゃったのはわかっていたから……。伯父様に任せれば大丈夫よ! ちょうどいいタイミングだったわね」
「え、ええ。本当にありがたい限りです」
「あ。そうそう。あなたに急ぎの仕事があるんだった。ついてきてくれる?」
軽やかにそう言いながら、ラウラがくるりと踵を返した。状況の変化についていけず、セラフィーナは一瞬きょとんとしたが、すぐに我に返って後を追う。
渡り廊下に差しかかった瞬間、ふわりと向かい風が吹き抜けた。湿った空気の中に、乾いた草の香りがほのかに混じり、風が涼しさを運んできた。
夏の終わりが、そっと近づいている気がした。
【登場人物紹介のページ】に第六章までの内容を反映させています。
ヒューゴのその後や、ノートリア副侍医などの小ネタはここにしかないので、お時間がありましたらぜひ。リンクはこのページ下にあります。
※第二章以降は基本的にネタバレしかないので、各章読了後の閲覧がおすすめ。