69. 秘密の共犯者
制止の声は届かなかったのか、ラウラは早足で処置室のほうへ行ってしまった。
大丈夫だろうかと、一抹の不安を抱えながら待つ。しばらくして、白衣の男性を連れてラウラが戻ってきた。
現れたのは、青銀の髪を丁寧に三つ編みにまとめた青年だった。淡く輝く髪に、感情を読み取りづらい灰緑の瞳。中性的な美貌を備えたその姿は、一見すると舞踏会で談笑する貴公子のようにも見える。
だが不思議なことに、医房の薬品の匂いの中にいても違和感はなく、白衣すら彼の一部のようになじんでいた。
(医房に勤める人って、気難しい人を想像していたけれど……女性に囲まれていてもおかしくない美貌ね)
そう感嘆したのもつかの間、低くまろやかな声が聞こえた。
「なんだい、見てもらいたいものって?」
「こちらなのですが……」
ラウラは無言でセラフィーナの後ろに回り、「ちょっと失礼するわね」と一言声をかけて、そっと背中の包帯に手を伸ばした。慎重な手つきで包帯をほどき、肩甲骨の辺りがあらわになる。そこには、炎に焼かれたはずの肌が、薄紅色の新しい皮膚で滑らかに覆われていた。
それを目にした瞬間、ノートリア副侍医の眉がひょいと跳ね上がる。
「おやぁ? これはまた、傷の治りが妙に早いねえ!」
ややオーバーにのけぞりながら、研究者のように顔を覗き込むようにして目を丸くする様子は、まるで舞台上の道化のようだ。
外見とのギャップが激しすぎて、セラフィーナは思わず目を瞬かせた。だが彼の興奮は冷めるどころか、ますます勢いづいているように見える。心なしか、鼻息まで荒く感じられた。
「普通じゃ考えられないんだけど」
「そうなんです、私もびっくりして。でも本人に聞いたら、昔からこういう体質だったみたいで」
「……ほうほう。もしかして龍の血を引いているとか? それとも妖精の涙を飲んだとか? そういうファンタジーな逸話、大好物ですよ。で、一体どんな秘密なんです? 僕にも、こっそり教えてくれるんでしょう?」
期待に満ちた灰緑の瞳が「さあ早く!」と言わんばかりに、セラフィーナを見つめる。
戸惑いを隠せずにいると、隣にいたラウラが静かに頷いた。
「セラフィーナ。説明して差し上げて」
「……その、ご期待を裏切るようで申し訳ないのですが。単に、普通の人より少しだけ治癒力が高いだけなんです。実家の主治医も『不可思議な現象だけど、稀に傷の治りが異常に早い人もいるから心配はいらない』っておっしゃっていました」
「ふんふん。だから体質、ってわけですか。まあ、早く回復する分には僕は困りません。何にせよ、治療いらずの体なんて羨ましいですねえ。医術に長く関わっていると、驚異的な回復力で生還する例も珍しくないし、説明できない事例なんていくらでもありますからね」
「ご理解が早くて助かります」
ラウラがにっこりと微笑む。どうやら丸め込む作戦は成功したらしい。
ノートリア副侍医はセラフィーナに視線を合わせ、笑みを深めた。
「怪我が完治して何よりだけど、君には予定通り一週間ここにいてもらうね。一応、なにかあったときに責任を取るのは僕だから。経過観察を兼ねて、様子見をさせてね。あ、早めの休日だとでも思って、ベッドでゴロゴロ休んでくれていいよ。……でも、ちょっと残念かな」
「何が残念なのでしょう?」
「いやぁ、あれほどひどかった赤みが綺麗さっぱり消えてるんだもん。恋の奇跡とか期待しちゃったじゃない」
まるで乙女のように両手を組んで「きゃーっ」と一人喜んでみせる男の姿に、セラフィーナは開いた口が塞がらなかった。
なんとか理性を総動員して、そっと息を吐いて動揺を押し殺す。
それから作り笑顔を浮かべて、にこやかに問いかける。
「……失礼ですが、もう一度お願いできますか? わたくし、ちょっと聞き間違えてしまったようで」
「ふふん、恋の奇跡だよ。君を連れてきたのはエディ君でしょ? それに目覚めたときに最初に会ったのも彼。だからさ、恋する乙女の愛の力で傷が塞がった──って展開、物語ではお約束じゃない!?」
「…………。ノートリア副侍医って意外とロマンチストなんですね。驚きました」
「僕、若く見られるけど、そんなに若くないからね。でも青春の甘酸っぱい話は好きだよ。恋バナはいつでも歓迎さ! 恋愛相談なら僕が適任だろう。物語の中からおすすめ台詞を伝授してあげよう」
ノートリア副侍医は腕を組み、どこか誇らしげに胸を張った。
灰緑の瞳をきらりと光らせ、前髪をさらりとかき上げる。髪を結んだリボンすら、得意げに揺れて見えた。整った顔立ちのせいで、芝居がかったその仕草まで妙に絵になってしまうのが、少しだけ癇に障る。
もっとも、そう感じたのは、セラフィーナだけではなかった。
ラウラもまた、冷めた目を向けていた。無言で首を傾げ、ため息ひとつつくのも面倒だと言いたげに、じとりと睨む。
「ノートリア副侍医、それってただの創作の抜粋じゃありません? ご自身の経験談に基づくアドバイスはくれないんですね」
「あぁ、ラウラ君。ひどい! 真実をそんなにはっきりと! どうせ僕には恋愛経験なんてないですよーだ。君たちのほうが、はるかに経験値は高いだろうね。だって僕は仕事が恋人だもの!」
「…………」
「ちょっと!? 多少ふざけただけなのに、なんでこんなに白けた目を向けられちゃうのかな。まさか二人とも、全部真に受けちゃったとか……?」
おっかなびっくりといった様子で、こちらを見つめる視線を受け、セラフィーナは静かに口を開いた。
「ノートリア副侍医」
「なにかな、セラフィーナ君」
「きっと、ノートリア副侍医にも春が来ますよ。ですから、どうか希望を捨てずに」
「はぁぁぁ……。年下に慰められるのって、一番心にグサッとくるよね」
「自業自得じゃないですか?」
「おぉう、ラウラ君。君は辛辣すぎるよ。もっと年上には労りをもって、だね……」
「とにかく、セラフィーナはそういう体質なので。口裏合わせはお願いしますよ」
「……はぁもう、お任せあれ! こっちもプロだからね。君に不利益が被らないように配慮させていただきますよ」
根負けしたように、ノートリア副侍医は胸を軽く叩いてみせた。口元には、どこか子供じみた得意げな笑みが浮かんでいる。
ラウラがセラフィーナのほうに視線を送り、片目を閉じてみせた。さりげない仕草なのに、不思議と心が跳ねる。
(どうしましょう……ラウラ先輩が格好いい……! アルトさんが好きになるのも納得だわ。同じ女性なのに、こんなにときめいてしまうなんて)
胸の内に芽生えた尊敬と憧れの入り交じった感情を、セラフィーナはそっと抱きしめた。不安も迷いもすべてを吹き飛ばしてくれる頼もしい背中が、これからも揺るぎない道しるべになると信じて。