65. 幸せな夢を見ましたの
ふわりと包まれた温もりに身を委ねる。
まるで羊雲か綿菓子の上に浮かんでいるような、どこか現実離れした感触に、セラフィーナは「ああ、これは夢だわ……」と悟る。
ふと、誰かに名前を呼ばれた気がした。大切な誰かが、必死に自分を呼んでいる。けれども、返事をしようとしても声が出ない。体は自分のものであるはずなのに、まるで他人のもののように動かない。
何度試みても言葉は発せず、相手には何ひとつ届かない。
もどかしさに胸を焦がしている間にも、夢はまた世界を虹色に染めていく。景色はぐにゃりと歪み、輪郭を失いながら、新たな情景へと塗り変わっていった。
次に目を開けると、こちらを心配そうに見つめるエディがいた。
会いたいと思った人物が出てくる。なんて都合のいい夢だろうか。けれども、半信半疑だったセラフィーナは彼におねだりをした。もしこれが現実だったら、エディは絶対に自分の手を取らない。だが予想に反して、彼はセラフィーナと手を繋いでくれた。
そのときに確信した。これは夢の続きだと。
(ああ、やっぱり。本当に夢なんだわ……)
彼の手の温もりに安堵し、指を絡めて、笑みがこぼれる。
エディがそばにいる。その事実だけで胸が満たされる。まるで夢が現実になったかのようで、無邪気に笑う。現実では到底言えないことも今なら言える。
驚くエディの顔も本物そっくりだったけれど、全部自分の夢だから心配はいらない。
これは目覚めたときには忘却の彼方に消えてしまう、泡沫の夢。
世界はこんなにも優しくて、温かい。
だが永遠のように続くと思われた時間は、あっけなく終わりを告げる。
突如、世界を包んでいた明かりが一層強くなっていった。同時に意識が混濁する。眠りにつくように、あるいは目覚めの兆候のように、夢と現実の境目が曖昧になっていく。意識が浮上しようとするが、まだ夢の中にいたいという気持ちが強く、必死に抵抗する。
(……まだこの世界にいたい。この夢の続きを見ていたい)
けれど、セラフィーナの意思とは反対に、夢は透明な泡に包まれていく。
輪郭さえ朧気になり、そこに誰がいたかさえ、忘れてしまう。ここで見た記憶は霧の中に包み込まれ、風とともにさらわれていく。
砂のお城を崩したように、すべてがなかったことになる。
(でも、とても幸せな夢だった。名前も声も思い出せないけれど、心がずっと温かいもの)
もう会えないという寂しさはあれど、会えたという喜びが、胸の奥を温かく満たしていた。心の奥深くに眠る宝物を、そっと胸に抱きかかえるような心地で──
セラフィーナは目が覚めた。
ゆっくりと瞼を開き、焦点の合わない天井をじっと見つめること数秒。
しばらくして、それが見慣れた自室の天井ではないことに気づく。
セラフィーナは視線を巡らし、知らないベッドに寝かされていることを知った。薬品棚が近くにあるのか、消毒薬と薬草が混じった匂いが運ばれてきた。
(……確か、わたくしは閉じ込められて…………?)
旧厨房に煙が充満して、そのまま意識を失ったはずだ。
そこまで思い出し、布団をはねのけるようにして起き上がる。自分の体を見下ろし、入院患者用の白い衣装に着替えさせられていることに気づく。
ぺたぺたと自分の顔を手で触るが、特に痛みやひりつきはない。手足も自分の思ったままに動くのを確認し、ほっとする。
(本当に生き延びたのね。……でも、どうやって? あの場所は普段誰も通らないはずだし。もしかしてジーニアさん? いえ、あのような状況下で、意識を失った人間を担いで逃げるのは女の腕では不可能だわ)
考えられるのは騎士団だが、旧厨房は閉め切られていた。
あんな廃屋も同然な建物の中に、まさか人間が閉じ込められているとは考えもしないはずだ。要救助者がいるかどうかも判別しない中、火の中に飛び込むのは自殺行為だ。
(だとしたら一体誰が、わたくしを助けてくれたの……?)
隣のベッドはもぬけの殻で、ここにいるのはセラフィーナだけだ。
判断するには、情報が少なすぎる。そう思っていると、それまで閉じられていた扉がゆっくりと開いた。
「……目を覚まされたのですね。よかった」
扉を開けたのはエディだった。いつもの騎士服に身を包んで、穏やかな笑みを浮かべている。その後ろからレクアルが「寝ぼすけめ。いつになったら起きるのかと思ったぞ」と愚痴りながら顔を出した。
「エディ様……それにレクアル様も。どうしてここに?」
「愚問だな。俺が特別に目をかけている女官が命の危機に直面したんだ。心配するのは当然だろう? お前、もう少しのところで死んでいたんだぞ。火の中に飛び込んだエディに感謝するんだな」
レクアルの目配せで、隣にいたエディを見やる。
彼は心なしか緊張した面持ちで、セラフィーナを見下ろした。
「……エディ様。危ないところを助けてくださったようで、本当にありがとうございます」
「いえ。ご無事で何よりでした」
「正直、もうだめかと思いました。すみません、あのときは記憶が曖昧で。わたくし、何か変なことは言っていませんでしたか?」
「…………。変なことは、何も」
歯切れの悪いエディを一瞥し、レクアルが話を本題に戻した。
「それよりも体は大丈夫か? 丸二日、寝ていたんだぞ。さすがに気を揉んだ」
「……それはご心配をおかけしました。でも、今日は不思議と朝から気分がよいのです。夢のせいでしょうか」
「夢?」
「……ええ。わたくし、とても幸せな夢を見ましたの」
「ほお。どんな夢だ?」
「それが覚えていませんの。でも、ふわふわした気分で、幸せだったという感覚だけは覚えています」
「────夢、ですか」
エディがぽつりと声をもらした。
心の中のつぶやきだったのかもしれない。そう思ってもおかしくないほどの小声だった。
しかし、その切ない響きに胸が締めつけられ、セラフィーナは静かに問いかけた。
「エディ様、どうかなさいましたか? あ……もしかして、エディ様も何か夢をご覧になったのですか?」
「……そう、ですね。私も、幸福な夢を見たと記憶しています。残念ながら、肝心の内容はほとんど思い出せないのですが」
「まあ、一緒ですね。でも、幸せだったという感覚が残っているのなら、それだけで十分かもしれませんね」
一瞬の沈黙ののち、エディはそっと視線を落とした。
「ちなみに、あなたの夢には……どなたが出てこられたか、覚えていらっしゃいますか?」
第七章があまりにも長くなってしまったため、第七章・第八章・第九章に分割しました。
第六章で周囲との絆も深まり、セラフィーナも成長していっています。エディとの距離感の変化もお楽しみに。