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64. 夢の中での逢瀬(エディ視点)

 副侍医が急ぎ足で退出したあと、医房に残るのは意識を失ったままのセラフィーナと包帯を巻かれたエディだけになった。


(……まだ誰も来る様子もありませんし、今のうちに様子を見に行っても差し支えないでしょう)


 エディは音を極力立てないようにしながら、静養室へと歩を進めた。

 医房の奥に設けられたその一室は、石造りの壁に囲まれていながらも薄布のカーテンが垂れ、どこか静謐な雰囲気をまとっている。

 燭台に灯る橙の光が、室内を柔らかく照らしていた。

 セラフィーナが眠る奥のベッドを仕切るカーテンをそっと開く。ベッドには、彼女が静かに横たわっていた。

 柔らかなリネンに身を預けたセラフィーナは、すでに煤まみれの服を脱がされ、清潔な寝衣に包まれていた。額に湿らせた布が載せられ、手や腕には白い包帯が巻かれている。乱れていた呼吸は安定しており、胸が規則正しく上下しているのがわかる。

 火に包まれていたはずの姿は、今はただ静かに眠りの世界へ旅立っているように見えた。

 エディは少し距離を置いて椅子を引き、そっと腰を下ろした。

 彼女の寝顔を見つめるうちに、ゆっくりと肩の力が抜けていく。

 だが、もう周囲には熱も煙もないのに、先ほどの強烈な景色が頭をちらつく。まだあのときの恐怖、焦燥、怒り、後悔がさざ波のように押し寄せてくる。


(救出は成功したのに。……震えが止まらない)


 震える手をなだめようと、両手で握りしめる。それから深く息を吸い、暴れ出しそうな心臓を必死になだめる。

 外では、空がゆるやかに闇色のベールを纏い直しながら、夜の静けさを引き留めていた。静養室の小窓から差し込む淡い光が、ベッドの上に長く細い影を落とす。

 夜がさらに深まり、東の空がわずかに白みかけたそのとき、セラフィーナの唇がかすかに動いた。


「うう……ん……」


 弱々しい声はうなされているようでもあり、夢から覚めるのに抗っているようでもあり、エディは固唾を呑んでその様子を見守った。

 まだ眠りの中にいるのなら、起こすべきではない。

 声をかけるべきか、かけまいか。逡巡している間にベッドの中でわずかに身じろぎしたのを見て、エディは思わず彼女の名を呼ぶ。


「……セラフィーナ?」


 声が夢の中にまで届いたのか、セラフィーナはゆっくりと瞼を開く。

 けれど、その目はどこかぼんやりとしていて、焦点が合っていなかった。


(この反応、まだ覚醒していないのでしょうか? 実はまだ夢の中なのでは……?)


 エディがその可能性を危惧していると、紫水晶の瞳がぱちりと開く。そして、その瞳の中にエディの姿をしっかりと映した。


「気がつかれましたか?」

「……え、あら……? その声、エディ様ですか?」


 疑うように確認されて、まだ意識が完全に戻っていないのだと悟る。


「はい。エディです。レクアル殿下の近衛騎士の」

「…………うそ」

「間違いなく本物ですよ。偽物でもありません」

「だ、だって……エディ様がいらっしゃるはずがありません」

「そうおっしゃいましても、現実として私はここにいますし。私の言葉はそんなに信じられませんか?」

「…………」


 判断がつかないのか、セラフィーナはそれきり黙り込んでしまう。

 どうしたのだろう。彼女らしくない反応だ。

 エディが困惑していると、セラフィーナはおずおずと顔を上げた。


「……エディ様……本当に、そこにいらっしゃるのですか? 夢ではなく?」

「現実ですよ。あなたが目覚めるのを、そばで待っていましたから」

「本当に……?」

「今日のあなたはやけに疑い深いですね。どうしたら信じていただけるのでしょうか」


 困ったように笑うと、しばらくしてセラフィーナは何かを思いついたように、すっと左手を差し出した。

 エディは目を見開き、その手と彼女の顔を交互に見つめる。


(まさか……これは、何かを試されているのでしょうか?)


 彼女はまだ、目の前の自分が本物だと信じ切れていないらしい。だからこそ、別の方法で現実かどうかを確かめようとしているのだろう。

 しかし、これは何が正解なのだろう。悶々と考えていると、セラフィーナは自信なさそうに、こう言った。


「これが本当に夢でないというのなら。手を、握ってくれませんか……?」


 不安げに視線を揺らしながら見つめられ、エディの喉が鳴る。


(これは……彼女の意思。だとしても、私がこのまま応じてもよいのでしょうか。冷静にならなくては。……彼女は今、とても不安定な状態ですよね。暗闇に閉じ込められた挙げ句、火事で死にかけたのだから当然です。ならばセラフィーナの願いを叶えるのは、むしろ騎士として当然の行為では?)


 心の中で自分への言い訳を連ねていく。

 エディは少し迷った末に、静かに左手の手袋を外し、それを右手に持ち替えた。彼女の細い指先に自分の武骨な指をそっと重ね合わせる。

 だが指先がほんの少し触れた瞬間、雷でも打たれたかのような衝撃に見舞われた。

 反射的に手を引こうとすると、逆に彼女の指が自分の指を絡め取った。


(なっ……な、何を、なさっておいでなのですか!? セラフィーナ!)


 戸惑う自分の反応に気づいていないのか、彼女はきつく指を絡めてきた。完全に他人の距離感ではない。こんなこと、家族にだってしたことがないのだから。

 これではまるで──特別な感情を抱く相手、のようではないか。


「ふふっ、やっと手を繋げましたね。わたくし、ずっとこうしてみたかったのです」

「…………」

「エディ様と恋人みたいに手を繋ぐなんて、きっと夢の中でも難しいと思っていたのです。でも不思議ですね。こんなに簡単にできるのなら、もっと早く言えばよかった」


 建前や理性でずっと隠されてきた感情を、そのまま言葉にしたような響きに声を失う。氷の石像のように固まったエディに、セラフィーナはふわりと笑みを浮かべた。

 いつもの責任感の強い彼女とはまったく違う笑い方に、どう反応していいかわからない。


(本当に目の前にいるのは……セラフィーナ? よく似た顔の別人ではなく?)


 そんなバカな考えがよぎるくらい、エディの頭は混乱を極めていた。

 胸を渦巻く心の叫びは彼女には届かない。

 返ってくるのは心底嬉しそうな笑顔と、重ね合わせた手から伝わる彼女の体温だけ。

 力のほとんど入っていない彼女の手を振り払うことは造作もない。けれど、そんな最低な真似だけはしたくなかった。


(セラフィーナは私と手を繋ぎたかった……? レクアル殿下ではなく、私と?)


 現に、彼女は何度も求婚を断っている。それは否定できない事実だ。

 けれども、エディは彼女から好意を持たれていると感じたことはない。他の令嬢のように突然しなだれかかってきたり、愛を綴った手紙の束を一方的に寄越してきたりすることなど、一度もなかった。

 むしろ、彼女は恋にはあまり興味がないように思えた。

 そうでなければ、レクアルだって自分の近衛騎士の偽恋人役に任命しないだろう。間違ってセラフィーナがエディを好きになって困るのはレクアルだ。


(もしかして、甘えられる人間が欲しかった……とか、でしょうか)


 セラフィーナは仕事熱心だ。こちらが心配になるほどの。

 そして、周囲に迷惑がかかることをひどく嫌う。だから自分で全部抱え込む癖がある。それゆえに簡単に他人には甘えられない。

 なんでも普通の顔でこなすから、強い女性だと思っていた。簡単には折れない気高い志がまぶしく見えていた。けれども、素の彼女はずっと甘えられる誰かを求めていたのかもしれない。今、本音がそのまま出てしまっているのは、瞳が潤み、熱で浮かされていることも原因の一つだろう。

 ならば余計、この手を拒むことなどできるはずもない。

 そう結論を出している間に、セラフィーナは眠気のピークが来てしまったようで、指から力が抜けていく。

 はっとして顔を上げると、彼女の瞳は少しずつ閉じられていく。

 瞼が完全に閉じる直前、まるで終わる夢を惜しむように、小さな願いが彼女の唇から紡がれる。


「……これからもずっと、そばに……いてくださいね……」


 そう言い残して、彼女は再び静かに眠りについた。

 耳を澄ましていないと聞き取れないほどの声は、エディの耳にしっかり届いていた。


   ◇◆◇


 セラフィーナは再び深い眠りへと意識を沈めていた。

 心配事が解決されたように眉間の緊張はゆるみ、彼女は穏やかな顔で寝ている。薬の香りに満たされた空気の中、エディは全身から力を抜いた。


(…………先ほどのことは一旦忘れよう。それがいい)


 夢うつつのような出来事だった。そのくらい非現実なことが起こった。

 案外、寝たらお互い忘れているかもしれない。

 いくら日頃から鍛えているからとはいえ、生死がかかった救出劇をこなし、仮眠も取っていないエディの体もそろそろ悲鳴を上げている。

 つまり、火事のショックで脳が疲れて見せた幻影だった可能性すらある。


(今は、彼女が無事だったことを神に感謝しよう)


 名残惜しさを堪えながら、眠りに落ちた彼女の手から、自分の指を静かに引き抜いた。

 物音ひとつ立てぬように立ち上がり、彼女の傍らへと一歩踏み出す。

 はだけた布団の端を持ち上げ、外に出ていた腕を優しく中へと戻す。


(あなたが生きていてくれて、本当によかった。……どうか、穏やかな眠りがあなたを包み込んでくれますように)


 そう祈りながら、エディは右手に手袋を握りしめたまま、静かに静養室の扉を閉めた。

 ちょうど副侍医が同僚たちを連れて戻ってきたので、改めて礼を述べて医房を後にする。

 火の名残を夜風がすべて攫っていく。

 鎮火して、だいぶ時間が経ったのだろう。宮殿はしんと静まり返っている。消火活動に当たっていた騎士たちも眠りの底に沈んでいる頃だ。

 反面、エディの目は怖いくらい冴えていた。怒濤の一日を振り返り、自嘲の笑みがこぼれる。

 困ったことに、手のひらに残る温もりだけは忘れられそうにない。

 彼女の微笑みが脳裏に焼き付いて離れない。まるで舐めたら溶けてしまいそうな砂糖菓子のようだった。そんな感想を抱いてしまうほど、ふにゃりと力の抜けた顔は胸を締めつけた。

 あの衝動をなかったことにすることは、できそうにない。一度、芽吹いてしまった感情を消すことはできない。それでも、この想いは誰にも知られてはいけない。


(…………隠し通す。この身が果てるまで)


 騎士の本分を思い出せ。主の幸せと、安全な生活を守り続けること。主の恋路の邪魔になるような真似をするわけにはいかない。


(セラフィーナが私を選ばない限り……いや、そんな都合のいいことが起きるはずがありません。この感情は誰にも気取らせない。それが最善だ)


 エディは固く目をつぶり、胸の奥に芽吹いた想いを静かに閉じ込めた。鍵をかけて鎖で厳重に縛り、二度と開くことがないように。


 ────夜の帳がそっとほどけていく。彼女の瞼が再び開かれる朝は、すぐ先の未来に、優しい光を宿して待っている。

第六章はここでおしまいです。第七章からはセラフィーナ視点に戻ります。

夢か現か──救出劇のその後を、どうぞお楽しみに。

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※表紙イラストは雨月ユキ先生に描いていただきました。その他イラストは活動報告をご覧ください。

▶【登場人物紹介のページ】はこちら
▶【作品紹介動画】はYouTubeで公開中

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