63. もう一歩遅れていたら(エディ視点)
セラフィーナを胸元にしっかりと抱え直し、エディは残り少ない酸素を頼りに一歩一歩、歩を進めた。
低く屈んだまま、扉へと一直線に向かう。すぐ背後では梁が再び軋み、どこかで重たい何かが崩れ落ちる音がした。
立ち上る煙の層はどんどん厚みを増し、床近くまで迫ってきている。
(一秒でも早く外に出なければ、取り返しがつかない)
扉まであと数歩。最後の力を振り絞り、エディは焦げた空気を切り裂くように駆け出した。
そして──扉を抜けた瞬間、夜の冷気が全身を包み込んだ。
屋外の空気は澄んでいたが、燃え盛る熱の膜をまとった体には、まるで凍てつく風に等しかった。
その直後、背後から激しい軋み音と、屋根の一部が崩れる鈍い衝撃音が響く。炎に照らされ、燃え落ちる瓦片や木片が闇に散った。
(もう一歩でも遅れていたら、彼女は……)
そう思うと、足がすくみそうになる。だが今は、彼女を助け出せたという事実が胸を支えていた。
エディは建物から少し離れた場所で膝をつき、慎重にセラフィーナを横たえた。
そっと頬に触れると、熱があった。顔色は悪く、呼吸も浅い。
「セラフィーナ! ご無事でしたら……どうか、どうか目を開けてください」
懇願するように名を呼び続けると、しばらくして、かすかな反応があった。
ゆるゆると重い瞼がわずかに持ち上がり、紫水晶の瞳に、自分の険しい顔が映り込む。
「……エディ、様……?」
「はい。私です。あなたの身に何かあったら私は…………」
「……?」
「ともかく無事でよかったです。すぐに医房へお連れします。今はお休みください」
安心させるように微笑むと、セラフィーナは瞼を静かに閉じた。
意識の限界だったのだろう。再びその体を抱き上げると、エディの腕の中でぴくりとも動かなくなり、力を失った腕がだらりと落ちる。
(煙の影響が、軽いものであればよいのですが……。今はまだ意識がなくとも、確かに息をされています。──間に合った。私は、確かに彼女を救えたのですね)
この腕の中に、確かに彼女は生きている。それが何よりの証拠だ。
そこに、仲間の騎士たちが火事の騒ぎに遅れて駆けつけてくる。燃え盛る建物の様子を見て誰かが「もっと消火用の水を!」「中には誰もいないのか!?」と叫んだ。
「救助対象者は彼女だけです。他には誰もいません。すみませんが、消火作業は任せます。私は、彼女を医房へ運ばなければなりませんから」
「おう、任せとけ!」
「こっちはいいから早く行ってきな」
仲間の頼りがいのある言葉が胸に染みて、エディは頷いた。
急ぎ足で医房へと向かう。廊下を何人かの文官や騎士とすれ違ったが、事情を問われる時間も惜しい。視線には気づかぬふりをして、医房の扉を開けた。
中には、夜番の副侍医が一人いた。
「……ふむ。夜分にご足労とは。どうされましたかな?」
「火事があったのです。彼女は室内でずっと閉じ込められていて、今は意識を失っていますが、火傷もあるはずです。早く診てください」
「なるほど、なるほど。──診察台は空いております。こちらへどうぞ」
若い副侍医が、どこか楽しげに口元をほころばせつつ、淀みのない動きでさっと手近なカーテンを開いた。淡い青銀色の髪を丁寧に三つ編みでまとめた長髪で、どこか浮世離れした印象を与える風貌だった。
カーテンの中には燭台に火が灯された診察スペースがあり、清潔なリネンがかけられた簡易の診察台が整えられている。
「では、そちらの診察台へ。お姫様を扱うように、優しくお願いしますよ」
促されるまま、エディはセラフィーナを慎重に抱え、診察台の上に横たえた。彼女の眉が一瞬震えたが、意識は深く沈んだままだ。
煤で汚れた頬に貼りついた一筋の髪が、命からがらに逃げ延びた火災の爪痕であることを、雄弁に物語っている。
喉の奥を覗いていた副侍医は軽く肩をすくめ、声の調子を落としてつぶやいた。
「おやおや、これはまた……ひどく煙を吸っていますねぇ」
のんびりとした口ぶりとは裏腹に、所作はなめらかで、一切の迷いがない。
瞼に指を添えたかと思えば、すっと開いて瞳の反応を確かめ、すぐに離す。次に額に手を当てて熱を測り、喉元や指先、爪の色を順に確認していく。
最後に手首を取り、脈を取りながら軽く頷く。
「ふむ、発熱あり。脈は浅いけども、乱れはなし。瞳の反応も許容範囲内……っと」
飄々とした口調のまま、薬瓶や包帯をてきぱきと並べていく副侍医の姿に、エディは自然と目を細めた。
どこか間の抜けた物腰の裏には、鋭い集中力が息づいている。
そのギャップが、彼という男の異質さを一層際立たせていた。
「──ここからは服を脱がせて詳しく診察いたしますので、少しの間、外でお待ちいただけますか?」
「わかりました」
エディは頷き、カーテンの外へと下がった。足元にこびりついた火事の煤が目に入り、今の状況が改めて胸に迫る。
(もっと……もっと早くに異変に気づいていたら。彼女をあんな目に遭わせることもなかったのに)
静かに壁に背中を預け、エディは深く息をついた。数分が経った気がしたが、時間の感覚は曖昧だった。
彼女が無事でいてくれれば──ただ、それだけを祈るように拳を握りしめる。
カーテンの向こうからは、かすかな水音や器具の触れあう音が聞こえてくる。短いようで長い時間を経て、副侍医の落ち着いた声が響いた。
「ノートリア家の名にかけて、ちゃんと手当てしましたからね。もう大丈夫ですよ。これより静養室へお運びしますので、もうしばらくお待ちを」
エディは小さく息を吐き、拳を握り直す。
人の足音と、身体を持ち上げる気配、衣擦れの音。セラフィーナを静養室へ運んでいるのだろう。
しばらくしてから、副侍医がカーテンを少し開け、ひょっこりと顔を覗かせた。
「ひとまず命に別状はございません。熱傷は軽度から中等度ですね。喉には煙の吸引による軽い炎症が見られます。手には皮膚の赤みとひりつきが確認できますが、今は呼吸は安定しており、声帯の損傷もなさそうです。脱水と一時的な酸素不足による意識喪失と見られます。打撲や切り傷にも応急処置を施しました」
「……そうですか。ありがとうございます」
「処置が終わり次第、汚れた服も着替えさせてもらいました。今は清潔な寝間着にお包みして、静養室のベッドに寝かせてあります。当面は安静が必要です。二日は絶対安静で、それ以降は徐々に回復していくでしょう。ええ、きっと心配はいりませんよ」
確信を持った言葉に、エディはようやく肩の力を抜いた。
副侍医はおもむろにカーテンを広げながら、エディに目を向ける。
「……さて、あなたも診察が必要ですね。火の粉でやられた跡が見受けられます。ちゃんと手当てをしておきましょうね。逃げても追いかけますから」
脅しとも取れる言葉を笑みとともに言われ、エディは無言で椅子に腰を下ろした。
両手の手袋を外すと、丁寧に畳んで、手近な机の端に置く。
「あなた、顔がずいぶん赤くなってますね。ちょっと焦げちゃったのかな? まずは喉を見せてください。煙を吸いましたよね? 火事場から飛び出してきた人は、だいたい喉をやられてますから。……はーい、口を大きく開けて。少しだけ舌を押さえますよ。大丈夫、ちゃんと消毒した新しいやつですから」
そう言いながら副侍医は小さな木製の板を取り出し、そっと舌を押さえる。片方の手で小さな灯りをエディの口元に近づけ、喉の奥を覗き込む。
「……ふむ、やっぱり赤いですね。煙のせいでしょう。軽い炎症ですが、油断すると悪化しますから、飲み薬を処方しておきますね。ちゃんと薬を飲み続ければよくなりますけど、数日はお喋りは控えめに。まあ、あなたなら問題なさそうですけど」
小瓶に入った飲み薬を棚から取り出して机に置き、彼はにこやかに続けた。
「お次は顔ですね。……まあ、『お姫様』を救出した騎士様には、これくらいの火傷も勲章ってところですかね。でも放っておくと跡になりますから、しっかり冷やしますよ。ほら、美しい騎士様の顔に傷なんて残したら、淑女の皆様から抗議文が殺到しちゃいますから」
言葉は羽のように軽いが、動きには淀みがない。
副侍医は湿布と冷却用の軟膏を取り出し、手際よく顔に処置を施していく。ひやりとした薬剤の感触が肌に染みて、エディはようやく、自分の体にも火災の影響が強く残っていたことを実感した。
「それでは、腕と手のほうも診せてくださいね」
エディが袖をまくると、副侍医は手の甲と手のひらを交互にひっくり返して見つめる。続いて、肘まで丁寧に観察していく。服の下だったから気づかなかったが、赤みや小さな水疱が点々と広がっており、火の粉が散った痕が素人目でもわかった。
「軽度の熱傷ですね。皮膚の表面が赤くなっていますが、冷却しておけば問題ありません。ただし、肘の内側は他より炎症が強いようです。冷却効果のある軟膏を塗っておきます。この布は井戸水で冷やしてありますから、しばらくは気持ちよく感じるはずですよ」
薬剤を塗布した後、冷やした布をそっと重ねる。さらに上から包帯を丁寧に巻き、患部をしっかりと保護した。
「傷跡は残らないと思いますが、明日から毎日様子を見せてください。包帯も交換しないといけませんし。……今夜は無理をせず、どうかゆっくりお休みくださいね。明日にはだいぶ楽になっているはずですよ」
処置を終えた副侍医がふっと息をついたのを見て、エディは包帯が巻かれた腕を軽く動かし、支障がないことを確かめる。そして、机に置いていた手袋を手に取り、再びゆっくりとはめ直した。
副侍医は椅子に座り直し、少しだけ視線を落とした。
「火災が起きたとなると、他にも搬送されてくる可能性があります。……今夜の当直は、残念ながら僕一人でしてね。あなたもお怪我がありますし、侍医寮まで走っていただくわけにもいかない。彼女の容体は安定していますし、急変の可能性は極めて低い。呼び鈴を備えていますので、何かあればすぐに知らせてください。飛んできますので。……というわけで、少しの間、ここをお願いできますか?」
少しだけ早口になった様子に、エディは思いがけない一面を垣間見た。勢いに押されるようにして頷く。
「もちろんです。私がここに残っていますから、構わず行ってきてください」
「恩に着ます。では、急ぎますので……!」
その言葉を残して、副侍医は静かに駆け出していった。背筋は伸び、足取りは軽い。
淡い青銀色の三つ編みが走るたびに左右に揺れる。結び目の落ち着いた緑色のリボンが月明かりに照らされ、かすかにきらめいた。
彼の背には、先ほどまでの軽口とはまるで別人のような気迫が宿っていた。