62. 炎の中、君を抱いて(エディ視点)
瑠璃色に潤んだ夏の夜空では、星たちがひっそりと瞬いている。
静けさに包まれた闇の中、護衛任務を終えたエディは一人きりで歩く。騎士宿舎に戻る前に、ふと思い立って女子寮のほうへ足を向けた。
(……ヒューゴとの一件からだいぶ経ちましたが、セラフィーナは元気にしているでしょうか。あの気高い彼女があれほど怯えを見せるなんて、よほど怖い思いをしたのでしょう。一度釘を刺しましたが、あの男は要警戒対象ですね。二度と彼女の前に現れてほしくありません)
時間的に、そろそろ彼女も仕事が終わる頃だろう。
彼女の様子を確認するのは職務のうちだ。レクアル殿下にヒューゴの件を報告したときも「お前の対応で正解だ。これからも何かあれば助けてやってくれ」と言われている。少しやり過ぎたかと心配だったが、それは杞憂に終わった。
あのとき、セラフィーナを助けたのは彼女が困っていたから。同時に、彼女を気にかけているレクアルの憂いを事前に排除するためだった。それ以上の感情などないはずだ。
だが、不安で揺れる紫水晶の瞳を思い出すたび、心が波立つ。セラフィーナの元気な顔を見れば、この胸のもやもやも晴れるだろう。
ちょうど女子寮の裏手に差しかかったときだった。建物の陰に隠れるようにして、小さな人影がうずくまっているのが見えた。
「……どうかしましたか?」
エディが声をかけると、その場でしゃがみ込んでいた少女が、はっとしたように顔を上げた。慌てたように立ち上がり、裾についた汚れをさっと払う。
女官の地位を示す帯の色は灰色。そばかすが散った三つ編みの下級女官──以前、セラフィーナに詰め寄っていた三人組の一人だと思い至る。名前は確かジーニアだったか。
「あ……。あ、の…………」
「はい。何でしょう?」
ジーニアは言うべきか否かを悩んでいるようで、開きかけた口をまた固く閉ざした。
騎士と直接会話する機会が少ないのか、明確な怯えの色が見て取れる。正直に話せば罰せられると思っているのかもしれない。よく見れば、肩がわずかに震えていた。
厄介ごとの気配を察し、エディはできるだけ優しく問いかける。
「何か心配事があるのでしょう? どうか私に話してください。もしかしたら、力になれるかもしれません」
「…………私は、こんなこと、望んでなかったんです。お願いです、信じてください」
「落ち着いてください。何があったのですか? 誰かが困っているのですね?」
突然の懇願に驚きつつも尋ねると、ジーニアは我に返ったように自分の口を両手で覆った。まるで、言ってはいけないことを口にしてしまったように。
その反応に嫌な予感を覚えたエディは、確かめるようにゆっくりと言った。
「まさかとは思いますが、セラフィーナに何かあったのですか?」
その名前を出した途端、ジーニアの目がはっと大きく見開かれる。
予感は、最も忌まわしい形で現実となった。
ジーニアは不安そうに目を泳がせた後、しばらく迷っていたが、ついに意を決したようにエディに向き直った。けれど、彼女はその場から一歩後ずさるようにして、小さく肩を震わせる。口を開いたときには、目にうっすらと涙が滲んでいた。
「彼女を、助けてください。今、旧厨房にいるんです。……でも、自力では出られなくて。私、私……見てしまったんです! あの虫除けの焚き火の炎が、風に煽られて、旧厨房に飛び火するのを。でも、私には……助けに行く資格なんて、なくて…………」
エディはその懺悔を最後まで聞く前に踵を返し、駆け出した。
(殿下の前を辞去したのはいつだった? 彼女はどれだけの時間、閉じ込められていた? いや、それより問題なのは──飛び火したのが本当なら、一刻の猶予もない。セラフィーナは自分から外に出られないのに……ッ!)
涙ながらに告白したジーニアへの詰問は後回しだ。
今は一刻を争う。セラフィーナの無事を祈りつつ、普段通らない裏手の塀を乗り越え、最短ルートで旧厨房棟へ向かう。
目的地に近づくにつれ、鼻先を刺すような焦げの匂いが、ねっとりとした膜のように周囲を漂っていた。外壁に沿って駆け抜けると、視界の端に白い煙が立ち昇るのを捉えた。
屋根の隙間からもれる煙──まだ内部全体が火に包まれていない証拠だ。だが、長くはもたない。
炎の進行を見極めつつ、扉のある側面へと急ぐ。石畳に踊る火の揺らめきが、これは現実なのだと脳を揺さぶる。血が逆流するような衝動に襲われた。
(本当にあの中に彼女が? どうか、無事でいてください……!)
心の奥で叫ぶように願いながら、無我夢中で駆け出す。
胸を突き刺されたような痛みを抱えながら、エディは扉に駆け寄った。
すでに火の勢いは広がっている。屋根からは煙がもうもうと立ち上り、外壁の板も一部焦げていた。これだけの煙が外にまであふれているということは、中にいる彼女の状態は。
考えたくない最悪の事態が脳裏をよぎり、全身に熱が駆け巡っていく。
(問題は、このかんぬきですか。確かにこれがある限り、セラフィーナは外には出られないでしょう。なんて卑劣な……!)
扉の前に立ったエディは、一拍の静寂の中で、かんぬきの位置を見極めた。
普段であれば、木の板を外せば済む。だが今は違う。
焦げた板は熱で膨張し、引き抜こうにも軋んで動かない。手袋越しでも火傷するほどの高温だ。もはや、手段を選んでいる時間ではない。
反射的に剣を抜きかけたが、すぐに鞘に戻す。
「……ここは、力で押し通すまでです」
エディは一歩引き下がり、深く息を吸った。
重心を下ろして足に力を込め、まずは焦げた木のかんぬきを蹴り飛ばす。乾いた音を立てて、黒く焼けた板が粉のように砕けた。
焼けた空気が頬を舐める。それでも視線をそらさず、今度は施錠された鍵のある横枠に渾身の一撃を叩き込む。鉄の錠はびくともしなかったが、火に炙られて脆くなった扉の板が裂けた。さらにもう一撃──鈍い音とともに扉がぎしりと軋む。
そのときだった。内側から、パキッという小さな音が聞こえた。
見上げると、焦げた梁の一部がひび割れ、火の粉をぱらぱらと落としながら崩れ始めていた。
煙の合間を縫って舞い落ちる炭が、肌にじりじりと迫ってくる。
(このままでは取り返しがつかない……!)
エディは板が割れて空いた隙間に足をかけ、焼けた扉を一気に蹴り破った。それは鈍く唸るような音を立てながら、内側へと崩れていく。
扉の隙間から噴き出したのは、煙と熱気の奔流。
炎に焼かれた空気が、容赦なく肌を刺す。だが、迷いはなかった。
エディはハンカチで口元を覆い、身を低くして、煙の奥へと飛び込んだ。
◇◆◇
一歩踏み込んだ瞬間、世界が暗転する。
煙が視界をいともたやすく覆い尽くし、熱が頬にまとわりつく。
炎に呑まれた空気は重く、吸うたびに喉を灼き、肺の奥まで鋭く突き刺さる。
エディはハンカチを口元に強く押し当て、もう片方の手を壁を探るようにして進んでいく。
(この熱量……長くはもたない。早く、見つけなければ)
床のあちこちで焦げた紙が舞い、崩れかけた棚が黒く煤けて横倒しになっている。
照明も月の光も届かない。頼れるのは、床に這う炎の朱と、己の勘だけ。
足元で炭が爆ぜるような音がした。
見上げると、天井の梁から細かな炭がぽつぽつと落ちてきていた。木材の繊維が焼け、わずかにたるんだ梁が小さく軋み、火の粉が頭上から舞い降りてくる。
(これは、想像を超えていますね。天井が本格的に燃え始めているとは……。あと数分で、煙と熱で命が奪われるかもしれない)
焦りが濃くなる。身を焦がすような衝動が、内側から噴き出す。
「セラフィーナ……! どこにいらっしゃいますか……!」
必死の呼びかけも、燻された空気と煙に押し流されていく。
返事はない。しかし、彼女はここにいる──その確信だけが、エディを動かしていた。
崩れ落ちた壺の破片を乗り越え、焼けた紙片を踏まずに避け、少しずつ奥へ進む。そして、棚の影に目を凝らす。倒れた木箱の脇に、横たわる小さな人影を見つけた。
「……っ!」
力尽きたように伏しているその姿に、見つけた安堵よりも焦燥が勝る。
逸る心臓を抑えきれず、エディは駆け寄って彼女の容体を確認する。
煤にまみれた頬。力の抜けた指。わずかに上下する胸。
まだ、生きている。
「セラフィーナ……! セラフィーナ!」
名を何度も呼ぶと、彼女の睫毛がかすかに震えた。
焦点の定まらない瞳が、わずかに動く。紫水晶の奥に、弱々しい光が残っていた。
「っ……エディ、様……たすけ、て……」
声にならない囁きが、胸を裂く。
(呼ばれた──私の名を。応えなければ。それが騎士である、私の務め……!)
彼女の小さな唇からこぼれたのは、か細く、儚く、それでいてまっすぐな願いだった。
その重みを感じ取って、つかの間、息をするのも忘れてしまう。
セラフィーナはどんな困難が降りかかろうとも、誰にも頼ろうとしなかった。誇り高く、気丈に振る舞い、痛みさえ笑みに変えてきた人だ。
そんな彼女が──今、自分を選び、助けを求めた。あのか細い一言は、彼女が誰にも見せず、ひっそり胸の奥に閉じ込めていた本音だった。
その事実を噛みしめ、エディはうつむいた。胸の奥で何かが弾けた。
「……必ず、お助けしますから」
つぶやくように言って、セラフィーナをそっと抱き上げた。
瞬間、その軽さに息を呑む。まるで、命の重みが失われかけているかのようだった。このまま消えてなくなるのではないかという新たな不安が、じわじわと胸に広がった。
熱を帯びた額。苦しげな呼吸。喉元に浮かぶ赤み。
明らかに、火傷の兆候がある。
(一刻も早く、この場所を離れなければ……!)
彼女の体を大切な宝物のように抱きとめ、エディは腰を低くしたまま出口へ向かう。頭上で、焼け落ちそうな梁が不気味な音を響かせる。すぐそこまで迫った気配に、死の影が喉元をつかんだ。
(くっ……! 今にも倒れてもおかしくない。間に合うか。いや、間に合わせてみせる!)
目を細めて進む。天井にまとわりつく煙はますます厚みを増し、呼吸するだけで肺が焼けそうだった。大蛇のような炎が天井をうねりながら酸素を貪り、熱をまき散らす。
エディはセラフィーナの頭をマントで覆い、火の粉と熱風から守った。
(……もう少し。どうか、意識を保ってください……!)
腕の中でセラフィーナがかすかに呻いた。
彼女がこのまま死んでいく────そんな未来だけは、決して現実にしてはならない。
そして、エディは心に深く刻む。
己のすべてを賭けてでも、彼女を必ず守り抜くのだと。